「稲田先輩。僕と付き合ってください」

 綾川波が、稲田穂村先輩にそう言って、恋の告白をしたのは、稲田穂村がこの中学校を卒業する、卒業式の終わったあとの午後の時間のことだった。

 場所は天文部部室の中。

 穂村先輩は綾川波のまっすぐな、(波は緊張で顔をこわばらせながら、その綺麗な顔を真っ赤に染めていた)告白を、くすっと笑ったあとで、「ごめんなさい」と言って、断った。

「波くんのことは大好きだけど、それは後輩としてであり、同じ星を愛する天文部員の仲間としてであって、恋人とか、そういう風には思えないの。うーん。なんていうのかな? いてくれたら嬉しい『弟』みたいな感じかな?」

 そう言って稲田先輩はにっこりと波を見て、笑った。

「先輩。僕は本気です。本気で稲田先輩のことを……」

 そこまでの言葉を口にしたところで、波はぎゅっと、稲田先輩にその体を抱きしめられて、まるで石になってしまったかのように、突然の驚きで固まって、そのまま言葉を話すことはできなくなった。

「うん。それはわかってる。波くんは冗談でこんなことを言う人じゃないって、私、知っているから」波のとても近いところから稲田先輩は言う。

 稲田穂村先輩はそれから「ばいばい、波くん。天文部のこと、よろしくね」と言って、卒業証書の入った筒を持って、一人、天文部の部室から出て行って、波は稲田先輩との思い出がたくさん詰まった天文部部室の中に一人、(まるで宇宙空間に放り出された宇宙飛行士のように、あるいは一人で孤独な旅をしている宇宙船の中にいる宇宙飛行士のように)孤独に残された。

 天文部の部室の中には、まだ稲田穂村先輩の残していった面影が、その残り香と一緒に残っていた。

 綾川波は一人、その誰もいなくなった天文部の部室の中で泣いていた。

 波は失恋によって、涙を流した。

 それは波の初めての、恋だった。本当の本当の恋だった。

 三笠小夜がずっと探していた稲田穂村先輩を見つけたのは、稲田先輩の所属している教室である三年二組の教室の中だった。

「あ、先輩。やっと見つけた」

 小夜は言った。

「……三笠さん?」

 そう言って稲田先輩は小夜のほうを振り返った。

 その稲田先輩の顔を見て、小夜はとても驚いた。先輩は誰もいない教室の空いている窓のところに一人で立っていて、そこから風に揺れているカーテンの間に立って、青色に晴れ渡っている三月の晴天の空を見ていた。

 そんな稲田先輩は、……泣いていた。

 その目から透明な涙を流していた。

 ……小夜は稲田先輩の涙をこのとき、初めて見た。その涙を見て小夜は、……あんなに強い稲田先輩でも、やっぱり卒業式には泣いたりするんだな、となんだかとても不思議な気持ちになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る