第36話 やっさんの金言

門田さんがうちに泊まった翌朝。

私は早起きして、

朝食とお弁当を2つ作った。


いつもより慎重に卵を割り、

目玉焼きを作る。


半熟派なのか

それともかためがいいのか

好みがわからなくて

中間くらいにした。


東京の人だから

味噌汁は麦味噌よりも

合わせ味噌の方がいいかとか

色々悩みながら、


それでもずっと

朝からニヤケている。


「おはよ」


「お、おはよう」


「早いね」


「うん……うち、いつもこんくらいやけん」


「お、美味そう〜」


「ばってんパンの方がよか?食パンやったらあっとやけど」


「千織さんと一緒でいいよ」


「そう?あ……洗面台そっちにあるけん。タオルも置いてあっと」


「ありがと。借りるね」


うちの中に

父ちゃんでも兄ちゃんでもない

男の人がいるってなんか新鮮。


というか、

めちゃくちゃドキドキする。


昨夜はここまでじゃなかったけど、

朝は人を

強制的に正気に戻す力があるらしい。


寝顔も、寝起きの姿も、

朝ごはんを食べている姿さえ、

全部カッコよく見える。


私はどれだけこういう事から

遠ざかっていたのだろう。


「おかわりあるけんね?」


「うん。じゃあ、もう少しもらおうかな」


いつもなら何を出しても

感想や感謝の1つももらえない。


なのに門田さんは

いちいち「おいしい」とか

「これどうやって作るの?」とか言ってくれて、


食べ終わったら

「ありがとう」と「ご馳走様」を

伝えてくれる。


門田さんは一旦寮に戻ってから出勤する。

だから早めに出なくてはならない。


バス停まで一緒に行き、

バスが来るのを待っていると


「千織さん、寝不足?」


「ううん。しっかり寝たばい」


「俺は寝不足だよ」


「あっ、ごめん。うち、寝相わるか?」


「そうじゃなくて。俺も普通に男だから。けっこう抑えんの大変だった」


「あ〜、なんね〜(笑)てっきり、うちん魅力が足りんち思うとったばい」


「はぁ?こっちの気も知らないで……」


昨夜は覚悟を決めていた。

だけど門田さんは

指1本触れてこなかった。


お風呂に入る前は

そんな空気だったのに、

いざ布団を並べると

話しているうちに

いつの間にか寝てしまった。


ちょっと物足りなかったけど、

大事に思ってくれている気持ちが伝わってきた。


遠くにバスが見えて、

門田さんがそっちを向く。

私は彼の腕を引っ張り、

背伸びして頬にキスした。


「……!?」


「隙あり!」


「も〜、千織さん!俺の我慢、何だったの?」


「アハハハ。来てくれたお礼ばい!」


「それならもっと早く……」


「ほれ、乗って?気ぃつけて!」


「うん。じゃあまた」


お弁当を渡して見送り、

家に戻って急いで洗濯物を干した。


昨夜、門田さんに貸した

大三兄ちゃんのTシャツとスウェット、

そして彼が使ったタオルが

日が当たったベランダで揺れた。


「あれ?千織、もう普通に働いとう?」


「毎日病院行ってもしょんなかたい。洗濯もんば取り行って、必要なもん置いてくるだけったいね」


にっし〜が珍しく

真面目に心配してくれた。

案外、優しいところがある。


「千織はいいとして、おい紗智子!どげんしたと?」


「別に。なんでんなか」


そう。さっちゃんの様子がおかしい。

いつも元気いっぱいのさっちゃんが、

ため息ばかり吐いて

鬱々とした顔をしている。


「さっちゃん、やっぱしどっか悪かね?病院で診てもらんね」


「お前、なんか変なもん食うたとやなか?」


「うちんやまいは医者に治せるもんやなかとばい」


そこへ上機嫌な人達がやってくる。

井上工場長とやっさんだ。


「いや〜、工場長も聖子ちゃんファンち知らんかったばい!」


「いやいや、私はまだまだったい!」


「ばってん、よか席取れて、嬉しかろう?」


「はい!やっさんのお陰です!さっすがファン歴40年っちゃね〜。コツばようわかっとー!」


「正確に言うと44年ばい(笑)」


どうやらゴールデンウィークに開催される

松田聖子さんの福岡公演の話をしている。


もうすぐ大型連休。

この工場もカレンダー通りの連休になる。


聖子ちゃんガチ勢のおじ様2人をよそに、

私はさっちゃんに

元気がない理由わけを聞いた。

するとさっちゃんは


「失恋ばい」


「失恋!?」


さっちゃんの相手はうちの大三だ。

何があったのか知らないけど、

むしろ私的にはほっとしている。


にっし〜は全く空気も読まず、

的外れな励ましをする。


「紗智子!そげん落ち込むな!失恋がなんね?どってこつなか!実は俺も最近、失恋ばしたと。ばってんそんでも、敗者復活ば狙うて最後まで諦めんばい!ぽっと出の奴に取られちたまるか〜!」


「にっし〜。ちっと黙って?」


にっし〜の失恋はどうでもいいのだけど、

さっちゃんは心配だ。


高校生の頃から

兄に思いを寄せていることを

私は知っていたから。


すると今度はやっさんが

口を出してくる。


「にっし〜!お前も聖子ちゃんば応援せんね!そん根性ばもてあましとっとはもったいなか〜!」


それに工場長ものっかる。


「そりゃよか提案ばい!そっじゃ〜にっし〜もコンサート行く?」


「いんにゃ、けっこうです!俺は松田聖子にいっちょん興味なかですたい!」


にっし〜がそう言うと、

工場長もやっさんも

見たことないほどおっかない顔をし、

にっし〜を睨みつけた。


「なんば言うとっとか〜!聖子しぇこちゃんは、こん街が産んだ永遠のアイドルやぞ!」


「そうだそうだ!あと、ずっと気になっとたけん、言わせてもらうばい!」


工場長はそう言って

にっし〜の前に立ち、

ドスの効いた声でこう言った。


「きさん(貴様)、さっき松田聖子まつだせいこち言うたやろう?」


「はい。そっが何でしょう……」


「正しくは、ちゃんやけんのう?次間違えたらぞ(ぶっ飛ばすぞ)!!」


「えぇ〜……」


井上工場長は、

普段は絶対に

怒鳴ったり威圧感を出したりしない人だ。


そんな工場長が、

地元ファン特有の呼び方に

あれほどのこだわりを持っていたとは、

やっさん以外、誰も知らなかった。


工場長が去ったあと、

腰を抜かしているにっし〜に

やっさんがフォローを入れる。


「まっ、実は俺も、普通に聖子せいこちゃんば言いよるけん(笑)あんま気にせんでよか!やっぱしおるっちゃね〜、変にこだわり強かファンが〜」


そしてさっちゃんにも、

やっさんは優しくこう語った。


むくわれんでもよかたい。俺なんか40年、聖子ちゃんに片思いばしとっと」


「やっさんの相手はアイドルじゃろ?」


「ばってん同じたい」


「どこが?うちゃあ両思いばなりたかったと。ばってんもう絶望的で、どげんもこげんもできん。合わす顔もなか」


「そりゃ今はそうかもしれんばってん、そんでも好きならそんままでよかたい。無理に忘れる必要はなかとよ」


「そうなん?」


「そうよ?長いこつ片思いしとっと、向こうが結婚したり子供産んだり、色々ある。ばってんそん度に一緒に喜んだり、祝ったり、時には悲しいことも共に背負う。そげんして長〜く付き合う事ができっと。要はな、相手に迷惑ばかけんやったら、一生好いとうままでよかたい!」


相手に迷惑をかけなければ、

一生片思いしていてもいい。


やっさんのその言葉は、

ちょっと寂しい気もするけれど、

そういう恋もあっていいと

この時、私はそう思えた。


「さっちゃん!うちも頑張るけん、さっちゃんも頑張り!」


「う〜ん……」


「がまだす!(頑張ろう)」


「うん。がまだすか!」

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