第19話 すれ違う想い

連絡先を知ったあの日から、

何度も文字を打っては消し、

結局、連絡できないまま

2直3直の深夜帯勤務が続き、

気づけば1ヶ月近く経っていた。


鞄にはいつでも返せるようにと

軍手を準備していたが、

ここまで度胸のない自分に

嫌気がさしてくる。


仕事は順調だった。

こっちに来てから2ヶ月が過ぎ、

いわゆる研修期間が終わった。


さすが世界中で事業展開している

タイヤメーカーの本拠地だけあって、

製品を一から作り出している。


原材料を大型ミキサーで練り合わせ

ゴムを作るところから始まり、

それを1本のタイヤの長さにし、

強度を高め、

補強する部品を作ったりして、

タイヤの形に整えてからは、

ホイールとの接合部分を作り、

原型ができたら圧をかけて完成させる。


最後に念入りに検査が行われ

出荷されていく。


普通車から小型トラック、

航空機やレーシング用のタイヤなど

ここだけでも幅広く製造されている。


俺はその中で普通車タイヤを作る

製造部に所属していて、

工程を経て仕上がってきたタイヤの強度を

機械で検査する班に入った。


機械が行うとはいえ

時には視覚や触覚でも

その精度を確認しなければならない。


俺は視力がいい方で、

だからここに選ばれたのだと

勝手に思っている。


相変わらず生島さんや

他の先輩社員に聞かねばならないこともあるが、

右も左もわからない状態ではなくなった。


だけど油断は禁物だ。

慣れてきたところでデカいミスをやらかす。


ここは安全第一の職場だから、

少しの気の緩みが

大事故に繋がる場合もあると

工場長を始めとする色々な人たちから

口酸っぱく叩き込まれている。


一瞬たりとも気が抜けず

集中力が求められる。


それを維持するためにも

三交代制の勤務時間は、

1〜2週間置きに昼夜入れ替わる仕組みになっていて、

しゅっちゅう入れ替わっていたのは

最初の1ヶ月だけだった。


つい最近、派遣元の担当者である

田中さんとも面談し、

あと1ヶ月乗り切れば、

このまま社員として

ブリロックンに直接雇用されると言われた。


岡部さんと大雅も

同じように言われたらしい。


もし何か問題があれば、

この時点で伝えられるはずだから、

この1ヶ月でよほどの問題を起こさなければ、

ようやく俺も一端いっぱしの社会人だ。


最初は非正規の方が

気が楽だと思っていたが、

働き始めれば大変なのは同じだ。


どうせ頑張るなら

もう転々としたくはない。

どんなに頑張っても

期間が過ぎれば振り出しに戻るような、

あの虚無感はもう御免だ。


だからやり甲斐はある。

真面目にやっていれば

いつかもっと上が目指せるかもしれない。


激務から解放されると、

つい考えてしまう癖がついた。


千織さんはどうしているだろう。

もう俺のことなど忘れてしまったか。


だよな、若いし。

きっと出会いなんて腐るほどあるだろう。


だけど俺は、

あんなにときめいたのは久しぶりだった。


すさんだ生活の中で

ふいに見つけたオアシスのような。


だからもう少し、

せめてもう一度会って話したい。

時々でいい。

あんな風に楽しい時間がもてたら……


「兄貴!今日、スロット行かん?」


「行かねーよ」


「え〜。せっかく給料でたとよ〜?岡部の兄貴も一目散に帰ってしもたし〜」


岡部さんは給料日になると

の元へ行ってしまう。


大雅によると

事業に失敗しやむを得ず離婚し、

離れて生活をしているだけで、

今でも関係は良好らしい。


本人もそんな話をチラッとしてきたが、

俺はあまり深く突っ込まなかった。


だが少し前に奥さんらしき人が

車で迎えにきているのを目にした。

長身で綺麗な人だった。


後部座席から小さな女の子が

俺に手を振ってきたから

なんとなく振り返したが、

岡部さんを見つけると

「パパー!」と嬉しそうにはしゃいでいた。


その時の岡部さんは、

今まで俺が見てきた岡部さんとは違う

優しい父親の姿だった。


「そっじゃー兄貴、パン屋教えて!」


「パン屋?」


「ほれ、前に兄貴の部屋で食わせてもろた洒落たレーズンパン。あれうてから帰るばい!」


「あぁ、それなら逆方向だ」


レーズンが苦手と言っていたのに

不思議なやつだと思いながら、

俺は店まで付き合い、

一緒にいくつか買って駅前で別れた。


大雅はこのまま

予定通りスロットに行くと言っていたが、

スロットしながらパン食うのか?

と首を傾げながら

その姿が駅に入っていくのを見届けた。


そんなことをしているうちに

乗ろうと思っていたバスが見えた。


久しぶりの1直だったから、

まだ明るい時間に仕事が終わり、

完全に気が緩んでいた。


そこでふとを見ると、

彼女がいつもの席に座っているのが見えた。


あれは千織さんだ。

間違いない。


ダッシュで走ったが

目の前で扉が閉まり間に合わなかった。


「千織さん!!」


俺はその瞬間、周りが見えなくなり、

彼女の名を叫びながら、

動き出したバスを追いかけた。


声が届いたのか向こうも俺に気づき、

目を丸くしてこっちを見ている。


しまった……

そうだよ、いつもこの時間だったじゃないか。

彼女と一緒になったのは。


大雅とパン屋に行ってる場合じゃなかった。

なぜこんな大事なことを忘れていたんだと

後悔しても遅い。


息を整えながら

ない頭をフル回転させる。


あのバスは西鉄久留米駅までは頻繁に停まる。

だから追いつくかもしれない。


タクシーで先回りして追いかけよう。

そうだ、そうしよう。


でもこのまま追いかけたら

どう思われるだろうか。

ストーカー?


そう思われてもおかしくないし、

それをくつがえす理由が必要だ。


そうだ。

俺には軍手を返すという大義名分がある。

最悪キモがられたら軍手だけ返せばいい。


いや待て。

その前にラインの連絡先を知っていることを

伝えなければ……


バスが行ってしまい、

タクシー乗り場とバス停を

行ったり来たりしながら、

初めてメッセージを送る。


『すいません。お兄さんからこの連絡先を聞いてしまいました』


気づくか…気づいてくれ。


そう願いを込めて送信する。

すると意外にもすぐに返信がきた。


『今、戻っているのでそこで待っていてください』


想定外の返信に

ただただ嬉しさと申し訳なさが込み上げてきて、

この時の俺は確実に

周囲から変人扱いされていただろう。


千織さんが来たら、

もし話せる時間をもらえるなら、


俺は彼女に

何を伝えればいいのだろう。










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