第9話 混乱

間違いない。

ずっと探していたあの人だ。


今日は色々あって

今の今まですっかり忘れていたけど…


探していた時は現れなかったのに、

忘れた頃に現れるって何?


心臓がバクバクして、

午前中、小野寺さんから叱責された時くらい

動揺している。


やめて。

うちの平穏、乱さんでよ。


前の方で立っていたのに、

少しずつ乗客が減り、

席があきだすとキョロキョロしている。


そう思っているうちに

後方のこちらに向かって来て

どうやら私の斜向はすむかいに

座ろうとしている。


私が定位置にしている

最後列のシート席もあいたからか

こっちにも視線が向けられ


「あっ……」


思わず声が出てしまい、

咄嗟に顔を下に向けた。


するとその人からも「あっ……」と

小さく声がし、

その声に顔を上げると視線がぶつかった。


え……覚えとー?

うち、そげん狂烈な印象残したん?


向こうも驚いたのか

大きな目を見開き、

軽く頭を下げてきたから、

なんとなく同じように返した。


結局、それ以上は何もなく、

途中のバス停でその人は降りていった。


気が動転していたのか、

習慣になっている読書もできなかった。


いや、読もうとはしたのだけど、

何度読んでも

同じところを行ったり来たりで、

全然、頭に入ってこない。


家に着いてからも

自分が自分でいられなくなるような、

おかしな行動ばかりしていた。


夕飯を作っていても

魚は焦がすし、

味噌汁は沸騰しすぎてこぼしてしまう。


「千織、なんばしょっとね」


酒を飲んでゴロゴロしていた父ちゃんが、

見かねて手伝いばしよるくらい、

うちはおかしいらしい。


母を亡くしてから、

父ちゃんは男手一つで

私達4人を育ててくれた。


うちには兄ちゃんが3人いて、

次男以外の2人は家を出た。


長男の大志たいし兄ちゃんは博多、

三男の大三たいぞう兄ちゃんは、

勤め先のブリロックンの寮に入った。


だから今はこの家で

うちと父ちゃんと次男の大樹たいき兄ちゃんの3人で暮らしている。


ご飯が炊き上がると、

まず仏壇に備え手を合わせる。


朝と夜、これを欠かさない。


母の記憶はない。

私が生まれてすぐ逝ってしまったから。


兄達でさえ、

声が思い出せなくなったと言っていた。


「いただきます」


うちはいつも

父ちゃんと2人でご飯を食べる。


大樹兄ちゃんは

夕方から近所のコンビニへ働きに出る。

もちろんアルバイトだ。

稼いだお金は全額

推しのアイドルに捧げている。


だからこの家を支えているのは、

一応、正社員の私と

父ちゃんの今の勤め先である

近所のお茶農園から出る給料だけだ。


その父もアルバイトだから、

決して裕福ではない。


昔は恵まれた方だった。


当時、父が経営していた町工場に

たくさん従業員もいたし、

旅行で行った温泉旅館の宴会場を貸し切って

カラオケをしたりしていた。


あの頃はうちの父ちゃんも

趣味のゴルフや釣りに出かけたり、

しょっちゅう車を買い替えていた。


ばってん、うちが中学にあがった頃、

事業がうまくいかなくなり、

工場こうばをたたんだ。


それからの記憶はほぼないほど、

うちはそれまで以上、家事に追われた。


兄達はなんだかんだ理由をつけて

家のことを手伝ってくれなかった。


だからうちと父ちゃんで

二人三脚になってやってきたのだけど、

年々、酒の量が増えた父ちゃんは、

ついにシラフでいる時間より

酔っ払っている時間の方が長くなり、

ほとんど何もできなくなった。


そんなダメ親父が

手伝おうと思いたつほど、

今日のうちは情緒がヤバいらしい。

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