初恋
尾津杏奈
初恋
おねいさんは、消えた。
わたし宛てと、おねいさんの両親宛てに手紙を残して。
おねいさんの両親には長い手紙。わたしには、ひと束の線香花火と「約束を守れなくてごめんなさいね」のひと言。夏、一緒に花火をしようって約束したの、覚えててくれていたのね、おねいさん。
『……未明から降り出した十年ぶりの大雪……積雪……で、六十センチを記録し……』
ラジオの音大きいよ、お母さん。
雪が、おねいさんを隠してしまった。
村中のひとが朝からおねいさんを探している。駅のひとも、バスのひとも、おねいさんを知らない。駐在さんも知らない。雪しか知らない。
村で一番頭のよかったおねいさん。
優しかったおねいさん。
わたし、おねいさんの指が好きだった。ピアノを弾くときの指。真っ白くて長い指。わたしが十四年生きてきたなかで見た、一番綺麗な指。その指が、わたしの頭をなでてくれるのが好きだった。
わたし、おねいさんが好きだった。
隣から、おねいさんのお母さんの悲鳴みたいな泣き声が聞こえる。わたしのお母さんはまたお皿を割った。もう七枚目よ、お母さん。
窓の外。今夜は満月。
おじさんはずっと壁を叩いている。「和宏のやつめ!」って怒鳴りながら。
和宏お兄さんは村のひとが
お母さんはここで生まれたのだもの。よそ者は、転校生のわたしだけ。
お父さんは仕事のためにひとりで街に残った。
おねいさんが和宏お兄さんと結婚するのと言ったとき、祝福したのはわたしだけだったのね。なんにも知らずに。
月明かり、あおく染まる、雪。
わたし、おねいさんが好きだった。
線香花火とライターを持って外へ出た。
お母さんは気付かない。戸を閉めるときにちょうど八枚目のお皿が割れた。カップだったかもしれない。お隣は言い争う声でいっぱいだ。
お母さん、わたしたち何のために越してきたのよ。街にお父さんを残してまで。
わたしの心の病気とかを治すためじゃなかったの? これじゃあ街のほうがマシだったわよ。
おねいさん
白樺のところに行こう。
黒い林のなかに、ひとつ取り残された白。おねいさんも好きだったね。わたしたち、よく白樺のところまで散歩をしたよね。
途中、川下を通るもの。
和宏お兄さん家を見るおねいさんの顔がきれいだった。とてもきれいだった。だからわたし、おねいさんが好きだった。
ああ、和宏お兄さん家の窓が割れている。女のひとの泣き声が聞こえる。おねいさんのお母さんとおなじ声。
わたしは知っているの。
おねいさんが消える少し前、和宏お兄さんの消えていたこと。わたし、おねいさんと一緒に電車が出るのを見送ったもの。おねいさん、わたしの手をきつく握ったまま、すごい勢いで歩くもの。わたし、転びそうだったのよ。
でも、そのときのおねいさんの顔、今日の月みたいにきれいだった。だからそれでいいの。それだけでよかったのに。
つめたい雪、こえをあげる。
ひめやかに。
白樺。おねいさんの好きな白樺。
わたし、お母さんとも喋られなかったけれど、おねいさんとだけは喋られた。わたしが喋られなかったこと、おねいさんだけが知らない。おねいさんだけだったの。わたしのこと、見てくれたひと。
白樺にもたれて火を点ける。線香花火。立ち上がる火薬の匂い。かすかな爆発をくり返しながら燃え尽きる。落ちて小さく雪をとかす微かなかたまり。
ふたつめ、火を点ける。オレンジの小さな光、雪を照らす。溢れ来るあおを押しのけ、そこだけが熱を持つ本当の光のように。けれど、最後にまではたどり着けずに落ちる光。
おねいさん、
遠くで犬が鳴いているよ。
そういえば、晴れた日にちろちろ降る雪のこと、風花だって教えてくれたのおねいさんだったよね。きれいな名前ね。
今日は星もきれいに見える。満月の日なのに。風花が舞っているみたいよ。おねいさんにも見えますか?
残された色よ あおと黒
ぬくみを求めうばいあう
ためにあがる悲鳴よ
軋むよに
軋んでいるのはいったいなあに
おねいさん、わたし、おねいさんが好きだった。長い髪も。細い指も。
火を点ける。
線香花火はきれいね。わたし、大きな花火よりこれが好き。
でもおねいさん、どうして線香花火だったの? わたしに残してくれたもの。
消える花火。
火を点ける。
もしもわたしがおねいさんだったなら……
もしもわたしが和宏お兄さんだったなら……
タンスの奥にしまわれてしまった、見つからない時計みたいな気持ち。おねいさんのこと、考えると。
わたし、雪がこんなに重いなんてはじめて知った。耳の奥で重い雪の音が響き続けているよ。さっきからずっと。夜のなかで雪は少しも動いていないのに。胸のほうからのしかかる、つめたい圧力。雪がこんなに重いなんて。
消える花火。
火を点ける。
きしきしと、きしきしと足下で雪は軋んでいる。つま先の感覚はもうない。あの星が雪になって、全部がぜんぶ雪になって降ってこればいいのに。
重い雪。あおい雪。線香花火の火花だけがあかくあかくうごめく。わたし、見つめる。うごめく火花。手のひらで握りしめたい衝動を抑えながら。火花だけをみつめている。
爪がいたいよ。つま先がなくなっちゃったみたい。爪だけがいたいよ。
おねいさん、おねいさん、どうしたらわたしもきれいになれるの? わたし、お母さん嫌い。どうしたらきれいになれるの? おねいさん、おねいさん、わたしもきれいになりたい。なりたいのに。
消える花火。
火を点ける。
最後の花火
おねいさんは、消えた。
雪が、おねいさんを隠してしまった。
かえらない。もうかえらない。おねいさんはかえらない。もう二度とかえらない。
白い指も、長い髪も、紅い唇も、黒い眼も、細い首も、もう二度とは見られない。見られないのね、おねいさん。
走る風 ひとすじの
雪をはらみ 雪をはらみ 雪をはらみ
わたしのほおに落ちる雪。
花火は消えた。
おねいさんは、消えた。
わたしは、
わたしは泣かない。
わたしは泣かない。
絶対、絶対泣かない。
家に帰ろう。わたしはかえる。わたしは帰るよ、おねいさん。
おねいさん、わたし、おねいさんが好きだった。
おねいさん……
あ、そうだ。
駅のひと、あのひとも『よそもの』だったよね。
ね、おねいさん。
おわり
初恋 尾津杏奈 @ozuanna
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