第9話 やんでれじごくへん3

 キサラギが空を飛んだ。


 ――狂ってる。


 一瞬の躊躇いも見せず宙に身を踊らせたキサラギは、満面の笑顔だった。


 マジか。できるのか、それが。キサラギの思いの質と量を大幅にはかり違えた。

 俺は激しく舌打ちして、次の瞬間には駆け出した。

 目の前が白くなる。音が消え、時間の概念すら置き去りにして、駆ける。今、この瞬間、集中力が極限にまで上がってるのがはっきりわかる。


 キサラギが、ゆっくりと落ちてくる。


 このバカ……笑ってやがる。


 だが、どうするんだ俺? キサラギを助けるのか? なんか、やだなぁ。


 助けるんだったら、あれか? 漫画で見た、あれか? すげー痛そうだったぜ、あれ。


 畜生……別のヤツがやれよ。


 みんな、固まってやがる。時間が薄く間延びした世界の中で、俺の足だけが動く。

 俺がどうにかしろってことか。


 イヤになるぜ。


 けど――行くぜ、俺。


 地を駆ける。一瞬目が合った未夢は少し驚いて、それから笑った気がした。


『あと一人だけ、我慢するよ』


 あの言葉は未だに意味が分からないが、この瞬間を予期してのことだろうか。


 しかし、未夢。コイツには問題がある。キサラギをガラクタくらいにしか思ってない。少し話す必要がある。


 そんなことより、キサラギが近くなってきた。


 でも、なんだか少しおかしいぜ。俺、さっきから滅茶苦茶考え事してる。こんなにスゴいヤツだったか? これって、ひょっとしたらアレか? 死ぬ前のアレ?


 ひでえよ、神様。


 間に合わない! スライディングの要領で滑り込みながらキサラギを受け止めた。

 ――重っ、キサラギ重!

 両腕がプチプチってヤな音がしたけど、構わず転がるようにして受け身を……


 漫画じゃこれで上手く行ってた。上手く行ってたんだ。


 全身を叩かれたような衝撃が走った。現実は漫画ほど甘くなく、受け身は完全に失敗した。

 50点。得点にしたらそれくらいだろうか。俺の身体がクッションになった。キサラギは無事な筈。


 ヤバい。あんまり痛くない。これって……


 まあ、いいか。上出来だろ。俺って、今イケメンだよな! 今が人生の最盛期。


 ……あんまり嬉しくない。


 キョトンとしたキサラギと目が合った。


「……?」


 キサラギは周囲を茫然と見回し、大の字に倒れた俺を視線に捉えたところで動きを止めた。


「あ……せ、んぱい……?」


 キサラギの顔が、見る見るうちに青くなる。


「あ、あああああああああああああああああああああ!」


 キサラギが力の限り絶叫した。


「違う違う! ウチが先輩を壊すわけない! ウチが先輩を壊すわけない!」


 うるせえよ。少し静かにしてくれねえか?


 喧騒の中、時間は俺に気遣って、なるべくゆっくりと流れてくれている気がした。


 そのゆっくりと流れる時間の中、未夢に抱き起こされる。


「……」


 未夢は、コイツこそ取り乱すだろうと思ったけど様子が変だ。とても静かで、落ち着いた表情をしている。


 それはなんだか、心地よくて……


 俺は少し眠くなってきた。


「リューヤ、死ぬの?」


 返事のかわりに、俺はチョコレートみたいな血を吐き出した。


「すぐ、逝くね」


「…………」


 ああ……そういうことか。馬鹿な俺にもようやくわかった。

 コイツは……未夢には俺しかない。勉強もスポーツも駄目。体型にも恵まれない。何の特技もない。そんな未夢のどこを切っても、俺しか出てこない。


 未夢の小さい身体には、俺に対する気持ちしか詰まってない。


 それでか……キサラギが勝てないわけだ。


『未夢には、リューヤしかすることないもん』


 気付くのが遅えんだよ。何度も言ってたのに……


 未夢にキスされる。

 小さな舌が、これでもかと言わんばかりに俺の口腔を蹂躙する。

 俺もまた、それに応える。

 離れると、糸を引く血の雫が二人の間に伝って落ちた。


 血の鎖で結ばれた二人。それがなんだか心地よい。

 なんだか、よく眠れそうだ……


「おやすみなさい、リューヤ」


 未夢の頬に、一筋の銀の雫が伝っている。


「……あぁ」


 俺は頷き、深く溜め息を吐き出した。そっと未夢の耳元に口を寄せ、囁くように呟いた。


「起きたら…………やらせろよな……」


 だから今は……おやすみ……。

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