第7話 やんでれじごくへん1

 俺の朝は早い。6時には起床して、朝食と弁当の準備をする。当然だが、仕込みは全部、昨夜済ませている。

ただでさえ早い朝が変態二号ことキサラギの加入で、なおさら早くなりそうだ。

 全く、忌々しい。ふと思う。



「ウチのこと、飼ってくれますかぁ……」



 キサラギの変態発言だ。

 俺は、未夢を飼っているつもりは一切ない。だが、こうして食事の準備をして、日常の世話を焼き、健康管理までしている自分がいる。

 キサラギの言う通りではないか…。

 これはいかん。これは非常によろしくない。自覚が無いのが特にいかん。調子に乗っていたのかもしれない。未夢を慣らしているつもりが、実際は俺の方が慣らされていたのかもしれない。

 もっと厳しく行くべきか? ……いや、いかん。それをやったら、未夢の場合、命に関わる。キサラギの場合は検討もつかん。


 いやいや、そもそもこんな考えをする時点で――


「お、おはようございます…」


 背後から遠慮がちな声がして振り返ると、バスタオル一枚のキサラギが突っ立っていた。


「先輩……ウチ、服が……」


 そう、キサラギのゲロ塗れの服は洗濯したんだった。


「お前、昨夜はどこで寝た?」

「トイレ、です……」


 予想と寸分違わぬ答えに、俺は頭を抱えた。俺の朝は忙しい。キサラギに構う時間は微塵もない。

 馬鹿なキサラギを風呂に放り込み、断腸の思いで服を貸す。


「ウチ、ウチ……! ここに来て、本当に良かった……!」


感涙にむせぶキサラギ。


「変態!!」

「はい! ……はい!!」


 く……コイツ、レベルが上がりやがった。キサラギは闇雲に経験値を取得しているようだ。

 そうこうしているうちに、未夢がやって来た。


「おう、未夢。体の具合は?」

「……しんどい」


 やはり病院に連れて行った方がよさそうだ。男は女の子の事情に疎い。こんな時、どうしていいかわからない。せめて気を使うくらいで。

 朝食時、未夢は一切口を開かなかった。

 キサラギのことはチラリとも見ない。全身でその存在を否定しているように見える。

 一方のキサラギは対照的に敵意を剥き出しにして唸る。


「リスカ女……ウチが来たからには……」

「キサラギ、食わないのなら、下げ――」

「たっ、食べます!食べますからぁ!」


 サンドイッチの皿を抱えるようにして隠すキサラギ。


「はむっ…はむっ…おいしい…おいしい…こんな、おいしいものが…」


 大袈裟な。

 敵意を剥き出しにするキサラギと、無視を決め込む未夢。一体、どちらの方を大きい問題と捉えるべきだろう。

 だいたい、俺とこの二人の関係は何なのだ。


 ……未夢とはキスだってしていない。だがそれ以上のことをした自覚はある。そして、婚約している。……なんだこのカオスは。頭が痛くなってきた。


 キサラギはただの後輩だ。しかし、コイツのほぼ全てを俺は見た。そして何を隠そう、俺はコイツを飼うことを承諾している。い、いかん。カオス過ぎる。


 ……婚約者とペット……


 人として激しく間違っているような気がする。是が非でも二人を更生させねば。それ以外に関係収拾の道はない。


 そして気になるのが何故か笑うキサラギだ。


「キサラギ、何がおかしい」

「はぁい」


 キサラギは嬉しそうに言った。


「ウチぃ…今日、学校辞めて来るんでぇ…」

「あ?」


 モジモジしながら、上目遣いにこっちを見るキサラギ。


 目眩がした。


「ウチぃ、これからはずっと、ず~っと、先輩のことだけしていられるようになるんですぅ」

「キサラギ……」

「はぁい」


 コイツとは、じっくり話し合う必要がある。


「今晩にでも、ゆっくり話そう」

「はぁい、ウチは、先輩だったら、何でもいいですよ?」


 くねくねと身をよじるキサラギ。


「あのぉ……準備しといた方が、いいですかぁ?」

「何の?」

「ゴム、です……」


 かっ、と顔を赤くす るキサラギ。頭の中、ピンク一色に違いない。


 俺は、深く長い息を吐き出した。


「キサラギ。学校辞めたら、捨てるからな」

「ぇ……?」

「学校行って、しっかり勉強して、キチンと部活動でも結果を出せ。それができないペットはいらん」


 顔色を変えるキサラギ。


「え?ちょっ、待って……え? ……え?」

「これは命令だ。反論は許さん」

「そんな、そんな……ウチぃ……」


 キサラギは納得できないようで何度も首を振った。


「そんなこと、言われたら、ウチぃ……証明できないじゃないですかぁ……」


 ……ヤバい。


「リスカ女は良くて……ウチは、ダメで……」


 ヤバい……なんか、踏んだ……。


 その時、未夢がキサラギを見て、嘲笑った。


「リューヤは、未夢のだよ。もう、ずっと前から」



 静寂。



「残念だったね」



 何でもない朝の一コマを過ごすように、未夢が呟く。


 キサラギは俯いて、拳を握り締め、ずっと肩を震わせていた。


◇◇


 耳に痛い静寂の中、秒針の音だけがやけに響いて聞こえる。

 未夢は、この張り詰めた空気の中、ただ一人どこまでも自然にみえた。それがとても歪なものに映る。


「……言いたい事は、それだけか?」


 キサラギが、スッと腰を落とした。まだ椅子に腰掛けて立ち上がっていない。ただの予備動作。何らかの事前運動。

 だがそれだけで空気が変わる。武道を嗜まない俺には、よく分からない。ただ、違うとしか。

 キサラギは変わった。身に纏うものが。

 『これ』は、俺の手に負えない。身体をずらし、僅かに未夢に近寄る。いざというときは、この身体を盾に――


「だいじょうぶだよ、リューヤ」


 未夢に特別変わった様子はない。自信満々で言った。


「だって、未夢の方が強いもん」


 未夢が、キサラギより強い……? 体格も体力も技術も頭脳も経験も全てキサラギが上だ。言いたくないが、この中で一番無力なのは未夢だ。


 めき……


 テーブルの上で握り締められたキサラギの拳が鳴った。


「未夢、リューヤしか持ってないもん。負けるわけない」


 めき……


 未夢はテーブルの上にあるキサラギの握り拳を指した。


「それはいらないものだよ。それを使ったら、最後。未夢にはなれないよ」


 未夢になれない? キサラギが? キサラギが、未夢になれない!? その超理論は俺には理解できない。だが――


「っ……!」


 キサラギは肩を抱きしめ、眦に涙を浮かべ、滑稽なくらい動揺して叫んだ。


「リューヤ先輩はウチのだっ!」


 その叫びに、未夢は首を振った。


「遅いよ。三年くらい」


 こいつ……誰だ? これが、未夢? あくまでも冷ややかにキサラギを追い詰めていくこの女の子が、未夢?


 みしっ……!


 キサラギが――動いた!

 俺は素早く未夢を抱き寄せ、庇うようにキサラギに背を向けた。


「ああうっ!」


 キサラギは火傷したかのように出しかけた手を慌てて引っ込め――


 俺の胸の中で、未夢が嘲笑った。


「ほら、やっぱり未夢のだ」


「違う違う! ウチは、ウチは、ただ……リューヤ先輩が……!」


 髪を振り乱し、叫ぶキサラギの声は徐々に尻すぼみになり、消えて行った。


 ……理解できない。豹変した未夢もそうだが、あれだけ殺気立っていたキサラギが……


 今は力なくへたり込み、ただ泣き崩れている……。


 ……圧倒。その表現が一番しっくり来る。未夢の持つ何かがキサラギを圧倒し、屈服させたのだ。


 キサラギは結構すごいやつだ。小さい頃から空手をやって、いくつかの大会で結果を出している。

 俺の通う高校は進学校だ。それなりにレベルも高い。キサラギもそれなりに頭はいいだろう。そのキサラギが、アホの未夢に圧倒されて泣きが入るこの状況。


 理解不能だ……。


 最前から、俺を自分のものだと言い張る未夢。これも分からない。ただ、キサラギが取り乱したこの状況。力付くになれば、未夢は圧倒的に不利だ。故に、俺は未夢の側に立つ。

 一方、未夢は澄ました表情だ。椅子の上で、つまらなそうに足をプラプラさせている。


 ……生意気な。


「そりゃ!」


 俺より優れた未夢など存在しない! 未夢の頬を捻り上げる。


「ひ、ひたいっ!  ひたいよ、リューヤ!」


「やかましい。未夢の癖に生意気な」


 さらに逆の頬を捻り上げる。


「ぷぎゃっ!」


「俺はアリの反逆すら許さん! 上上下下左右左右……」


「ぷぎゃァァァ!」


 俺のサウザーが未夢をひとしきり蹂躙する。この帝王にあるのは前進のみ! 防御は存在しない!


「ウチ……」


 キサラギが、ボソッと呟いた。


「ウチだって、リューヤ先輩だけで……」


「あ?」


 振り返ると、キサラギが立ち上がってこちらを見ている。涙に濡れた頬に後れ毛がへばり付き、その表情は痛々しい。


「……わかりました。ウチ、先輩を困らせません。学校に行って来ます」


 ニコッと笑うキサラギ。

 達観。あるいは諦観。そんなものが漂う笑み。……不吉な笑顔だ。


「お、おう、わかってくれたか」


 言いながら、俺の胸によぎる一抹の不安。


 ……待て。俺は……いつか、こんな笑顔を、どこかで……


「行って来ます」


 キサラギが出て行く。


 既視感。寂しそうな背中。袖を引かれ、振り返ると未夢の笑顔。


「リューヤぁ、病院……」


「そうだった」


 馬鹿な俺は思い出せずにいる。キサラギが見せた笑顔の意味を。

 答えは目の前にある。

 いつかの空元気。視線の端に映る未夢の左手首のリストバンド。躊躇いなく切り裂かれた傷口から流れる血は今も……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る