第6話 如月葵
「ちょっと待て!」
この瞬間、世界は葵の敵になった。
ちょっとしたお遊び。あるいは、ちょっとした悪ふざけ。世界はそんな茶目っ気を許さず、あっさり葵を捨てた。
心臓の鼓動がうるさい。
カウンターの上に一冊の漫画が乗っている。値段は忘れた。そんなに高くない。
店主から罵倒に近い叱責を受ける葵に注目する客の視線は、まずは好奇心。続いて侮蔑。最後にカウンターの漫画を一瞥。
そして嘲笑。
今すぐ世界が終わればいいのに。
そんなことを考える葵の耳に世界は遠い。まるで夢の中のように。
世界は無音だ。
目の前で中年男が嗜虐的な笑みを浮かべ、何かのたまっているが、それは葵の耳にも心にも遠い。あまりに遠い。
無音の世界。全てはあまりに虚ろだった。
そんな中、彼と目が合う。
カウンターをチラリ。
彼の眉がハの字に寄る。
(なんだそれ……つまんねえの……)
おかしい。
全ての情報をシャットアウトしたはずの葵の心に届く声。
(しょうがねえな。今回だけだ)
まただ。おかしい。世界は自分を捨てたはず。だからこんなにも音がない。こんなにも虚ろなのに――
激しい衝撃音がして金属製の本棚が前倒しになり、四方に雑誌をバラまいた。
葵は虚ろな目で彼の視線を捕まえる。
(ほれ、今だ)
また聞こえた。同時に、ふらっと足が一歩を踏み出す。後は勝手に身体が動いた。
すれ違いざま、少年と目が合う。口元が少し笑ってる。多分、自分も笑ってる。
こうして葵は世界に帰還した。
逃げ込んだ路地裏で、葵は大きく肩で息をしながら、夕焼けに染まる空を見上げた。
ああ、世界はこんなにも美しかったのだ。
九死に一生を得た。あのまま行けば自分はどうなったか。それは想像したくない。
しかし、あの少年は……
葵は首を振った。
もう会うことはないだろう。そう思った。この時は。
◇◇
春。つつがなく受験を終えた葵は第一志望の高校に入学した。
「リューヤ!おい、リューヤ!」
青い襟章が目印の二年生の男子生徒が一人の少年を呼び止め、その少年は、ちょうど葵の前を歩いていた。
「俺の名前を、安売りみたく連呼するな。気持ち悪い」
少年が振り返る。それが全てのはじまり。
「な、リューヤ! ノート見せてくれ!」
「知らん」
リューヤは気付かない。
一人の少女……葵が瞬きすら忘れてその背中を見つめていることに。
「な! リューヤ、この通り!」
「しょーがねえな。今回だけだぞ」
ああ、そうだろう。葵が知る彼ならそう答える。
「リューヤったら、もう! そんなこと言って、いつも助けてくれるくせにぃ……」
「変態! まとわりつくな!」
抱きついて来た男子生徒と肩を叩き合い、談笑しながらリューヤは去る。
「先輩……リューヤ先輩!」
勝手に動いた口を押さえ、あっと後ずさる葵に、リューヤは少し気まずそうに振り返った。
「はぁ……あのな、せっかく知らん顔してやったのに、自分から話しかけるヤツがあるか」
葵の胸が大きく一つ跳ねる。
(覚えててくれた!)
初恋だった。それは、不意にやって来た嵐。
嵐はどこまでも葵を翻弄する。必死になって気を引いて、必死になってかき口説く。
対するリューヤの口癖は、
「また今度な」
都合のいい言葉だ。相手を傷つけず、やんわり断るには一番いい言葉かもしれない。葵は空回り、気ばかり焦る。
そんな中、雨が降る。
全力疾走のリューヤは、すれ違った葵には目もくれず、一直線に校門目掛けて走っていく。
そして、見てしまった。
リューヤが鞭打たれたような苦しげな表情で、一人の少女の肩を抱き寄せている光景を。
あれは、なんだ? どういうことだ? 時間が止まった。
あれは、守っている。葵はすぐに理解した。リューヤは守っている。この世界の全ての悪意から、少女のことを守っている。
世界が回る。自分は何をしているのだ。指を咥えて見ているのか。
なぜ、自分はあそこにいない。
あの少女……ああ、あれがそうか。リューヤにフられて手首を切ったとかいう。
「おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい……絶対、おかしい」
間違っている。
葵は、よろよろと歩き出した。
あの少女。あれが岡田未夢で間違いない。殆ど毎日のようにこの学校に来る彼女は有名人だ。
国崎竜也につきまとう幼馴染。
受験に失敗したらしいが、彼女は絶対馬鹿じゃない。
彼女は最初から知っていたのだ。
己が全身全霊で寄りかかっていい存在を。
生まれてから死ぬまでの間に、いったい何人の人間がそんな存在を見いだすことができるのだろう。
何故、自分はあの少女になれなかったのか。
きっと、覚悟が足らなかったのだ。
だからこんなおかしなことになる。
覚悟だ。
どうしてもあれが……リューヤが欲しい。とびきり惨めだったあの日の如月葵を助けた国崎竜也が欲しい。
空手や勉学など、葵の長所と呼べるものの全ては代替が利く後付けの性質に過ぎない。竜也がそれらのものに好意を抱くとしたら、未夢のポジションにはとっくに葵が収まっているべきだ。唯一代替の効かないもの。それが未夢と葵の差だ。
――覚悟。
それだけでいい。それだけがいい。それ以外は何もいらない。あの少女は、それだけでリューヤを手に入れている。葵が知りうる限りに於いて、岡田未夢は究極の理想体現者だ。
如月葵は、覚悟を示す必要があった。
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