第4話 こうはいじごくへん
非日常のドアは、いつだって開け放たれたままになっている。
現在、家のリビングでキサラギが泣きながらメシを食っている。なかなかの健啖家ぶりで見ていて気持ちいいが、その光景に非日常の匂いを感じるのは俺だけだろうか。
「お、おいしいです……」
などと抜かしているキサラギだが、コイツが今がっついているメシは、本当は俺のもので、キサラギのために作ったものじゃない。
朝、いつものように登校しようと思って玄関を開けると、そこでキサラギが泣いていた。全身を嗚咽に震わせ、力の限り泣いていた。素晴らしくご近所の目が痛かった。
キサラギがここにいるのはそういう理由からであって、特にメシを食わせたかった訳じゃない。
さて、俺はいつ、キサラギの変態ボタンを押してしまったのだろう。
◇◇
キサラギに出会ったのは、今から丁度一年程前のことになる。
受験を控え、当時まだ中学生だったキサラギは、何を考えていたのか知らないが、駅前の本屋で万引きをやらかしてオッサンに超捕まっていた。めっちゃ目が泳いでいた。一年経った今なら思い出して笑えるが、当時のキサラギは受験前の大事な時期だ。報告が学校に行けばどうなるだろう。推して知るべし。タイミングが悪すぎる。
まあ、今後のキサラギの人生の値段はこの時決まったようなものだ。税込みで530円位だろうか? レジスターに転がっているその漫画と同じくらいには安くなる。
それっぽっちでキサラギは人生棒に振るかもしれない。人類皆に等しく厳しく冷たい聖帝様のこの俺だが、さすがにそれは酷かろうと思った。アリの反逆すら許さないサウザーが同情するくらいだから、この時のキサラギはありていに言って悲惨だった。
やむを得ず、俺が本屋のオヤジの注意を引く。ぼうっとしているようなアホなら手を焼いたが、幸いキサラギはそうじゃない。抜け目なく逃げおおせた。そして将来、一人の変態が誕生する事になる。
◇◇
さて、キサラギの前でふてくされている変態一号の未夢だが、キサラギの存在が非常に気に入らないようだ。
それはそうだろう。あまり数が多くなってしまっては、変態の稀少価値がなくなってしまう。未夢は眦を吊り上げ、これ以上ないくらいの憎悪を込めてキサラギを睨み付けている。
変態対変態。その構図には怖気が走りこそすれ、特に興味は湧かない。
「それでキサラギ、お前はなんで泣いていたんだ?」
キサラギは大きく鼻を啜って、箸の動きを止めた。鼻水と涙でグシャグシャになった顔が痛々しい。それでも食うんだから大した根性だ。
「ぅべっ、リューヤ先輩……捨てられる……げへっ……思って……」
口の中のものをなんとかしろ。
「俺はキサラギと付き合っていない。その表現はおかしいぞ」
「ぅべっ……」
キサラギがご飯を吐き出して泣き始めた。なんと汚ならしい。
さて、どうする。
一人でも手を焼く変態が二人に増えてはたまらん。
「リスカ女だけ……じゅるい、です……」
「知らん! そんなこと!」
できることなら二人とも消えて頂きたい!
「ウチもぉ……リスカしたら…飼ってくれますかぁ……?」
「飼わん」
「ぅべっ……!」
いかん。キサラギのヤツ、嗚咽で噎せて嘔吐しやがった。
泣きながら食うからだ! 変態のすることは本当に迷惑だ!
ソファにキサラギを横にしてやり、その後は吐瀉物の処理に取りかかる。
「ぐずっ、リューヤ先輩……やっぱり、優しい、です……」
ふざけやがって。俺の家だ。家長である俺がそのままにしておけないだろうが。
「ごぇっ!」
未夢のヤツが連れゲロした! もうやだぁ……!
「ごぇんなしゃあい……」
「ぅべっ……」
未夢の嘔吐を見て、キサラギが更に嘔吐した!
辺り一面、吐瀉物まみれの地獄絵図になった。俺は……
もう殺せ! いっそ殺せよ!!
事態を収拾し、やや酸っぱい匂いの漂うリビングで、俺は深い溜め息を吐き出した。
「キサラギ、落ち着いたら帰れよ……」
「……イヤです。ウチも……そのつもりで来ましたから……」
「そのつもり? 何のことだ?」
「……ウチも、飼ってくれますかぁ……?」
まだ言うか。この変態がっ。
「……別に未夢は飼ってるわけじゃない」
「なんで、そんな嘘つくんですかぁ……ウチも……先輩の服着たい……雨の日……」
あれか。雨の日に未夢が欲求不満から顔を赤くしてたあれか。そう言えばあの日、キサラギとすれ違った。そんな事を考えていたのか。このサウザー、一生の不覚。
……つまり、キサラギの変態的言動はジェラシーによるものか……って待て。何故それが飼うという言葉に繋がる。
やはりこいつは……
「この変態め」
「はい……」
「変態がっ」
「はい……」
クッソ、やっちまった! こいつ、本物じゃねえか! どうしろってんだよ!!
キサラギのサイドテールの髪の毛が、再び湧き出した嗚咽で揺れている。
「……」
俺は黙ってキサラギの髪を拭った。
「リューヤ先輩……優しい……好き……」
それが大きなミステイク。ゲロが付いていただけなのに。
しかし、どうする? 未夢ですら持て余す俺がキサラギをどうにかできると思えない。忘れていたが、キサラギは遊びじゃない空手をやっている。段位は知らないが、いくつかの大会でトロフィーを貰ったことがあるそうだ。十分、俺を殺せる。
「……」
OK! 新しい変態の誕生だ!!
「分かった……」
自分のものとは思えないような嗄れた声が出で、俺は引きつる喉を擦った。
「本当ですか!? ウチ、ウチ……!」
大丈夫か、俺? 大変なこと言ったよな? キサラギの目に、じわっと歓喜の涙が盛り上がった。
「これで……ウチもようやく……」
ようやく、なんだろう。その先の言葉は聞きたくない。
「先輩の……ペットに……」
「……」
うっとりとするキサラギを見て、俺は全身に酷い疲れを感じた。何もなかったことにして、もう百年も千年も眠りたい。そんな馬鹿なことを考える。この日、何度目になるか分からない溜め息を吐き出し、何となくテーブルの上に置いた鏡に目を向けると、レイプ目の俺と目が合った。
最後に……おめでとう、キサラギ。新しい変態……。
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