第5話 「町田ストップ」
「漫才を、あなたと、やっているほど、ひまでは、ないんですよ。書きたくない気持ちは、わかりますけど、いずれこの子も働ける歳になりますしね。そうしたら、もう養育どころか逆に、あなたに、お金をあげるように、なるかもしれないのですから。」
ホホホ、と、その女性は笑った。
「冗談では、ないのですよ。今から、わたしは、帰らなければ、いけないので、これで失礼します。」
と言うが早く、その場で、その女性の姿は、いきなり消滅した。
「ひえっ!」
事務員は、その場でドスンと腰を抜かした。
後からこの話は、現代の怪談としてネット上にも広まったが、事務員の精神状態の方が疑われて精神分析を受ける事となった。彼は定年も近かったので早期退職してからは、しばらく精神病院に通院しているという。その事務員の話では、その女性の顔は、少し有名だった歌手の顔に似ていた、と話したので、ますます怪しまれる事とは、なったのだが、とにかくも連れてこられた赤ちゃんは幽霊ではなく、普通に育っていった。
町田駅近くのシティホテルに向かって、浜野と緑川は歩いて行った。日曜だけに、人通りは普段の二倍は、ある。商店街の外れにあるホテル「町田ストップ」へ二人は入った。受付でダブルの部屋を借りる。エレベーターで六階の部屋へ行く途中、彼らは誰の姿も見なかった。昼の休憩に使う客は少ないためだ。ドアを開けると消毒剤の匂いが、かすかにした。
「わたしの本名は、緑川鈴代っていうのよ。」
「ぼくは、浜野貴三郎といいます。」
「さっそくだけど、いいかな?」
「え、何を・・・。」
浜野は鈴代を抱きかかえるとベッドへ下ろした。
レースのカーテンの外の光は眩しいくらいだ。
『すみません。こんなに早く。』
「いえ、とてもよかったわよ。」
鈴代は裸のまま、ベッドの近くのテーブルに置いたハンドバッグの中から、シャネルの財布を取り出すと、
「はい、これ。少ないけどね。」
と無造作に一万円札を束にして渡した。浜野は、それを受け取ると指で数えてみた。
「うわあ、十万円も、あります。いいんですか、緑川さん、こーんなに。」
「いいのよ、もちろん。これからは、私の事を鈴代、と呼んでね。」
小田急町田駅の改札口前で緑川鈴代と別れてから浜野は、近くにある版画美術館へ行こうと思った。十万円も身につけて、うろうろするのも何だが、日曜日なのでATMで入金もできないため、何か成金にでもなった気持ちで町田駅前商店街を歩いていると、若い女性の声がして、
「ねえ、遊ばない?おにいさーん。」
と茶髪の二十代の女が彼に言い寄ってきた。(さっき遊んだばかりだ。)とは言えないので、
「今度にしようよ。ねー。」
と言い捨てて、早足にその場を通り過ぎた。
西の歌舞伎町ともいわれる町田駅周辺では、援助交際目当ての女子高生も少なからずいるわけだが、東京都の条例違反などしては人生の破滅である。
町田駅を東の方に歩いていくと、やがて下り坂になるのだが、そこを少し降りて行ったところに町田市の版画美術館がある。芹が谷公園という広い公園の中にあるのだが、日曜は、やはり人が多かった。
「なんだー、これは!これは、女の下半身じゃないかっ。」
版画美術館の入り口の近くのベンチの前に、多くの人が雲のように集まりつつあった。
そのベンチには、胴から下の下半身が両足を揃えて座っていたのである。ふくよかな腰は何か若い女性のものを思わせる。足も裸足である。切断された箇所から血は流れていない。よく見ると、薄いビニール袋が腰に縫い付けられていた。それが止血していたのだろう。
浜野はそれを見て気味が悪くなると同時に、美術学生として、この構図は役に立つかもしれないと思って、携帯電話で写真撮影すると、その場を立ち去った。
小田急町田駅の改札口から構内に入った緑川鈴代は、エスカレーターから降りた女性を見てハッとした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます