第15話 再戦。響 VS 影郎。そしてすべてが解決へ。

 


――そのときだった。 




「……楽しい話を聞かせてもらったよ。

 龍児くんと言ったね。君の推理は大したものだ」

 

 

 

 入り口にゆらりと細いシルエットが浮かんだ。

 

 

 

 ……佐藤だった。

 長身痩躯の身体、見間違うはずがない。

 ……だが今は、頭髪はすべて喪失していた。そして上半身は裸体で顔面から腹部にかけて包帯を施していた。

 

 

 

「……さ、佐藤」




 悟郎さんが身構えた。

 

 

 

 ……僕はついさっきまで調子に乗って話していた自分の粗忽さを呪った。 

 佐藤は耳がいい。だからこう言う事態になることは十分に予期できたはずだ。

 

 

 

「君たちとアメリカ兵、どちらを先にと迷ったんだが、知りすぎた連中から手を出すのが私の流儀なんでね」




「無事だったんだな。相当の怪我をしたと聞いたぜ」




 悟郎さんが不敵に答える。

 

 

 

「アメリカ兵にか? 

 人数は把握していたが、戦闘力までわかっていた訳じゃないからな。油断した結果、これさ」

 

 

 

 ひッ……。沙由理さんが悲鳴をあげた。

 

 

 

 包帯を解いた佐藤の上半身はひどいものだった。 

 顔から腹まで皮膚が溶け、赤黒い血がべっとりとこびりついていた。 

 そしてそれだけじゃない、その血がふつふつとまるで沸騰するお湯のように泡立っていたのだ。

 

 

 

 ……おぞましい姿だった。

 

 

 

「『風の民』の身体能力を甘く見てもらっては困るな。

 治癒力も、君たちのそれとは格段に違う」

 

 

 

 佐藤はゆっくりと僕たちに近づいて来る。

 高笑いの声がする。

 

 

 

 この男……、楽しんでる。

 

 

 

 ……そう思った。 

 必要に迫られて僕たちを殺すんじゃない、それは建前で、それ自体を楽しんでいるに違いない。

 

 

 

 僕はそのとき確実に死を意識した。

 僕たちに武器はない。

 いや……例え拳銃やナイフがこの場にたくさんあったとしても、この『風の民』である佐藤には絶対にかなわないのである。

 

 

 

 

 ……そのときだった。

 

 

  

 突然後ろを振り向いた佐藤が宙を飛んだ。

 その瞬間、床にタタタッと白い紙がリズミカルに突き刺さった。

 

 

 

 殺し紙!

 

 

 

「その言葉、そっくりあなたに捧げるわ」




 小柄なシルエットが入り口に現れた。

 

 

 

「響!」




 僕は思わず叫んでいた。

 耳の良さは、なにも佐藤だけの専売特許ではないことに改めて気がついたのだ。

 

 

 

「人前にそんな格好で出るもんじゃないわ。

 傷口をわざわざ見せるなんてマゾヒストね」

 

 

 

 響は笑顔だった。

 それも極上の笑顔に見えた。




 □ □




 ……響は油断なく影郎を見据えていた。

 影郎の向こうにタツノコたちが見える。

 

 

 

 慌てず座っていてくれているのが、ありがたかった。

 響にとっていちばん怖いのは、流れ弾が彼らに当たることだからだ。

 

 

 

「なるほどな。

 傷はすっかり癒えたようだな」




 響の身体をなめ回すように、影郎は見ていた。

 

 

 

「お陰様でね。

 顔の傷が残るうちは登場できないから、正直やきもきしていたわ」

 

 

 

 影郎の判断は正しかった。

 響のいちばんの傷は枝が貫通した左腕だ。

 

 

 

 だがその腕も傷跡こそ残るものの盛り上がった肉が傷口をすっかり埋めているだろうことは、ストレスなく左手を動かせることから間違いはない。

 

 

 

 ひゅッ! っと、両手を一閃させた響から無数の殺し紙が唸りをあげた。

 にやりと笑った影郎が無人のソファーセットに飛ぶ。

 

 

 

 素早くクッションを取り上げると右手で突き刺した。

 途端に真っ白な羽毛が影郎の周囲を舞う。

 影郎に到達したすべての殺し紙は、その羽毛の壁に阻まれて、ひらひらと床に舞い落ちた。

 

 

 

「殺し紙では倒せないって言っただろう? 

 物覚えの悪さは相変わらずか?」

 

 

 

 影郎は余裕の笑みを浮かべていた。

 だが奇妙な違和感もあった。

 

 

 

 最初から手詰まりであるはずの響の口元に、微笑が浮かんでいるのだ。

 さらに観察するとパンパンに膨らんだジャケットのポケットが目についた。

 響がそこに手を入れた。

 

 

 

「響、なにを企んでいる?」




「企むってほどのことじゃないわ。

 ただこれならどうするのかな、と思っただけ」

 

 

 

 コンマ数秒で振りかぶった響の右手が鞭のようにしなった。

 

 

 

 ……! 

 

 

 

 球状の物体が残像を引いて響を離れた。

 草玉っ!! 

 

 

 

 影郎の『風の民』ならではの動体視力がそれを捉えた。

 羽毛ではかわせない。

 質量が殺し紙と全然違うのだ。

 

 

 

 影郎は、わずらわしそうに羽を散らすと右手を一閃させた。

 手刀だった。

 影郎は顔面寸前で草玉をたたき割る。

 

 

 

 砕けた無数の破片は影郎の後方へと飛び散り、そのひとつがコンクリの柱を貫き、そのひとつが陶器の壺を粉砕し、そのひとつが絵画の額を砕き、そのひとつが遙か後方のベランダへのガラス戸を叩き割る。




 だが影郎には、それらを見届ける余裕はない。

 すでに響の第二投が目前に迫っていた。

 

 

 

「おもしろいとほめてやりたいが、投擲するなら石にすべきだったな」




「そうかしら? 

 こっちの方が丸くて投げやすいわ」

 

 

 

 響の意表をついた攻撃に最初は戸惑った影郎だが、しだいに余裕を取り戻した。

 防戦一方に違いないが、この攻撃には限界がある。

 その証拠に響のポケットにはすでに残弾はない。

 

 

 

「お終いか?」




 最後の一個は響の手にあった。

 

 

 

「そうね、そうなるわね」




 振りかぶった響の最後の一投が指を離れた。

 影郎は、ほくそ笑んだ。 

 見慣れてしまえば単調な攻撃だ。

 

 

 

 そして手刀を繰り出しつつ身を乗り出した。

 守備から攻撃に転ずるつもりだった。

 だが、それは叶わぬ願いだった。

 

 

 

 ……な、なにっ! 

 

 

 

 右手の手応えが違っていた。

 最後の一個は、草玉よりはるかに弾性がある柔らかい物体だったのだ。

 

 

 

 そして無数に砕けた破片の中に多量の汁が混じっていた。

 酸味のある柑橘の果汁だった。

 

 

 

 くッ……! 

 

 

 

 影郎の顔面を襲った汁はミカンのそれだった。

 それはタツノコにもらったミカンだった。

 

 

 

 威力はなきに等しい。

 だがその果汁は、影郎の視力を奪うには十分だった。

 

 

 

「油断したわね」




 響の声が近くで聞こえた。

 投擲と同時に跳躍したに違いない。

 失われる視界の中で影郎は初めて恐怖を感じた。

 

 

 

 聴力に長けた『風の民』だが、戦闘力の基本はあくまで視力である。

 それを一切奪われたのだ。

 

 

 ……クソっ。

 

 

 

 床を蹴り、更に天井で勢いをつけた影郎は宙で身をよじった。

 だがその背後には響の気配を感じていた。

 

 

 

「……!」




 激痛が影郎の上半身を襲った。

 

 

 

「傷ってのはね。

 治りかけがいちばん脆いの」

 

 

 

 響が投じた殺し紙が等間隔で影郎の肉体を貫通していた。

 被弾したのは脇腹から首だった。

 近距離からの全力投擲だ。破壊力が違う。

 

 

 

 床にドスンと落ちた影郎はバランスを崩したまま床を蹴った。

 そしてガラス戸を突き破った勢いのままベランダから身を投げた。

 

 

 

 駆け寄った響が見たものは湖面に生じた大きな波紋だった。

 それをにらみ続けた響が立ち去ったのは、そっと肩に手をやったタツノコの笑顔を見てからのことだった。

 

 

 

「……逃げたかも」




「逃げた? あの傷で生きているの?」




 響の返答に、タツノコは疑問を感じているようだった。

 

 

 

「うん。……私は甘いのかも知れない。

 でも……殺しはできないわ。……例え殺し紙を使っていても」

 

 

 

 確かに響は影郎に致命傷を与えてはいない。

 

 

 

「うん。いいと思う。

 響のその判断はたぶん間違っていない」

 

 

 

 タツノコのその笑顔は響にとって救いだった。

 例え叔父を殺した人物だとしても、響には影郎を本当に殺す意志はなかった。

 

 

 

「……あの男、本名は神通影郎っていってね。私の親戚なんだ」




 ベランダから戻った響がソファに崩れ落ちて口を開く。

 

 

 

「……もしかして、あの男は神通霧島先生の死と関係があるのか?」




 悟郎さんが響に尋ねた。

 

 

 

「ええ、そう」




 響は頷く。

 

 

 

「叔父を殺したのは間違いなくあの男

 ……きっと叔父は私たちと同じようにこの里に来て、草玉やチュパカブラを見てしまった。

 そして、その背後にかつて自分がかわいがった甥がいるのもわかってしまったはず」

 

 

 

「それが影郎って男なのね?」




 沙由理さんの言葉に響は頷く。

 

 

 

「私の一族は普通の世界と一定の距離を保ってきたの。

 ……たぶん昔この里にいたご先祖みたいにね。

 

 

 

 そして私たちには掟があって、許可なしに勝手に普通の人々に混じって一族を離れるのは死を意味するの。

 つまり刺客が送られるってこと。だから脱走した者は同族を恐れるのよ」

 

 

 

「……それで影郎は響を狙ったの?」




 僕が尋ねると響は無言になった。

 だがやがてゆっくりと口を開く。

 

 

 

「……私はその刺客として派遣されて来た訳じゃないんだけど、結果的にはそうなってしまったわ……。

 あの影郎がね、里を飛び出したのはもう十年も前の話。

 ……野心のある男だったから、自分の力をいろいろ試してみたかったんだと思う。

 

 でもね、小さいときには私のことをすごくかわいがってくれたんだ。

 私も影郎のこと本当のお兄ちゃんみたいに思ってた……。どうして運命って、こうも皮肉なの?」

 

 

 

 そこまで話すと響は立ち上がった。

 

 

 

「ねえ、あっちの双主の里には天狗堂のミイラがあるんでしょ? 

 タツノコ、つき合ってよ」

 

 

 

 響は極上の笑顔を僕に向けた。

 僕は思わずおもいっきり頷いて立ち上がる。

 

 

 

「悟郎さんも沙由理さんもいい? 

 いっしょに見てもらいたいものがあるの」

 

 

 

 響の誘いに悟郎さんたちも立ち上がる。

 

 

 

「……ねえ、タツノコ。

 ……さっきの推理。本当にかっこよかった」

 

 

 僕が響の真横に来たとき、響が耳元でそうささやいた。

 耳にあたる響の吐息を感じた僕は、瞬間湯沸かし器のように体温がいきなり沸点に到達してしまった。

 顔中真っ赤になったのは間違い……ないだろう。

 

 

 

 やがて僕たちは、車に乗るともうひとつの里を目指した。

 レタス畑があり、無線小屋がなく、亀背島が大亀池の右端に小さく見えて、ミイラがいた方の里だ。

 

 

 

 車中で響が話してくれた説明によれば、こちら側の里の湖畔には間違いなく草玉の畑が存在していたこと、そして破壊されたチュパカブラの施設跡も認められたそうだ。

 

 

 

 僕たちは今朝いた方の双主の里に戻った。

 そしてその足でそのまま天狗堂に向かった。

 

 

 

 天狗堂の扉は鍵のかかった木の格子のもので、向こうは畳一枚程度の広さだ。

 奥が暗くてよく見えない。

 

 

 

「……ちょ、ちょっと響ちゃん、いったいどうする気?」




 沙由理さんが扉に手をかける響を見て小声で叫んだ。

 響が手にしているのは真鍮製の大きめの南京錠だった。

 

 

 

「鍵を探している暇はないから」




 そう答えた響は、指を鍵の輪っかに引っかけた。

 するとゴリッと鈍い音がして、南京錠が手のひらから落ちる。

 見ると輪っかが見事にはずれていた。

 

 

 

「……なんだかね」




 沙由理さんがあきれた声を出すと響は舌をぺろりと出した。

 ……たぶん、いや絶対に三崎丘文庫の鍵もこうして壊したに違いない。

 

 

 

 そして響は扉に手を伸ばし、天狗堂の中に入る。

 もちろん僕たちもその後に続く。

 

 

 

「……やっぱり」




 すたすたと歩いた響はガラスケースの前で足を止めた。

 ……また破壊するのか? 

 

 

 僕は響がガラスケースに手をかけたとき、そう思った。

 だがケースには鍵がなかったので僕の考えは杞憂に終わる。

 そして響がゆっくりとガラスの扉を開けた。

 

 

 

「……思ったよりずいぶん小さな。

 これは子供のミイラなのか? 

 ……わからん。子供がこの里を守り、そしてペヨーテの栽培を教えていたってことなのか?」

 

 

 

 悟郎さんがケースの中をのぞき込んで言う。

 

 

 

 ……どう言うことなんだ? 

 僕も悟郎さんと同じように疑問がフツフツとわいてきた。

 

 

 

「ね、ねえ……、響。

 これはどう言うこと?」




 だが僕の問いに響は小さく首を横に振るだけだった。

 椅子に横たわるように安置されているミイラは身体が小さくて間違いなく子供のようだった。

 全身が風化してボロボロになり、赤茶けたその身体に小さな両手と両足がついている。

 

 

 

 それだけじゃなく、うずくまっているようなその姿勢はまるで母親の子宮に収まっている胎児のような姿勢だったのだ。

 そして顔を見ると昔話に伝えられている長い鼻などなくて真っ平らになっている。

 そして両目が収まっていた場所はすでになにもなく陥没していた。

 

 

 

「……この里を守っていた天狗、……いや、『風の民』はやっぱり子供だったってことなの? 

 ねえ、響ちゃん、いったいこれはどう言うことなの?」

 

 

 

 沙由理さんが響の袖をつかんだ。

 

 

 

「……私にもわからないの。

 ……ねえ、タツノコ、三崎丘高校にあるミイラを憶えている?」

 

 

 

 響の突然の問いに僕は一瞬うろたえた。

 そして思い出す。

 

 

 

「そ、そう言えば、学校にあるミイラも、ここと同じだった」

 ……三崎丘文庫に保管されているミイラも、やはりこのミイラと同じように小さな子供のようなミイラだったのだ。

 

 

 

 僕の言葉に、悟郎さんと沙由理さんが訝しげに見ていた。

 そこで僕は学校に保管されているミイラの特徴をかいつまんで説明する。

 

 

 

 ……かなり昔に当時の日本陸軍が持ち込んだこと。

 そのミイラはこの双主の里と同じように、とんでもない山奥で発見されたこと。

 そして天狗のミイラだと伝承されていることなど……。

 

 

 

「……私たちの一族はかつて天狗の民とも呼ばれていたの。

 地を駆け、空を飛び、風を使う民として恐れられていたわ。

 

 鼻が長いとか羽が生えているとかは、誇張だけど。

 ……でもね、自分たちがなぜタツノコたちと見た目は同じような身体なのに、私や影郎のような力を持っているのかはわからないの」

 

 

 

「……わからない、って、どう言うこと?」




 僕の問いに響は俯いたまま首を横に振る。

 

 

 

 ……だが、僕には響が言いたいことが、なんとなくわかっているつもりだった。

 それはきっと、響は自分たち『風の民』のことを、僕たちと異なる別の存在なんじゃないかと考えているんだと思った。

 そして、それは当たっていた。

 

 

 

 響は床にひざまずき、ミイラに祈りをささげ始めた。

 そしてしばらくすると口を開いた。

 

 

 

「……ねえ、私って人間? 

 ねえ、どうなの? 私、わかんないの」

 

 

 

 そしてそれは突然だった。

 

 

 

「お、おい、どうしたんだ? 止めろ!」




 悟郎さんが叫んだ。

 いきなり立ち上がった響が安置されているミイラを乱暴に掴むと床に叩きつけたのだ。

 

 

 

 ……遅かった。

 悟郎さんが響の片腕を掴んだときは、すでに床の上でグシャッと音がしてミイラの身体が胴体から二つに折れてしまった後だった。

 ミイラの頭の部分と足の部分が、それぞれ違う方向へと飛び散ってしまっていた。

 

 

 

「……」




 そして響は悟郎さんから力任せに離れると、その場にうずくまっていた。 

 ……そして泣き出した。

 響は幼い少女のように肩を振るわせていた。

 

 

 

 僕は無言のまま、僕の足下に転がった上半身のミイラを拾った。

 そして……固まった。

 

 

 

「……こ、これはどう言うこと?」




 僕がそう呟くと、悟郎さんと沙由理さんが覗き込む。

 

 

 

「……中身がないじゃない! 

 ……でも、どうして?」

 

 

 

 沙由理さんが悲痛に似た叫びをあげる。

 僕は自分の手の中にあるミイラの上半身の断面を改めて見る。

 

 

 

 沙由理さんが疑問に思ったのは無理ないことであった。

 二つに折れた胴体の中身が空っぽだったのである。

 

 

 

 本来なら、そこには筋肉なり骨なり内蔵なりが詰まっているはずだ。

 例えミイラになってすっかり乾燥してしまい中身が萎縮してしまっても、それはそれなりに残っているのが道理なのだ。

 だが……そこにはそれらしい痕跡がなにも残っておらず、すべてぽっかりと空洞になっていたのである。

 

 

 

「……それが私たち一族の死なの。

 私たちは寿命が近くなると、身体がだんだん萎縮して小さくなって最後は赤ん坊のようになってしまうことが多いの……。

 

 なぜ私たちがそうなるのか、私の一族の大人たちは誰も教えてくれない。

 大祖父様もそう。

 

 ……私が尋ねるといつもみんな嫌な顔になって話をそらしてしまう。

 だから私は転校を繰り返して天狗伝説がある場所を求めて日本中を探し回ったの。

 

 でも全然わからなかったわ。

 それでもいつか私が何者なのか、わかるんじゃないかと思っているのよ。

 

 ……でも、この里でもやっぱりなにも見つからないわ。

 ここに住んでいた人たちも、もういないし……」

 

 

 

 響が俯いたままの姿勢でそう話した。

 悟郎さんも沙由理さんも無言だった。

 そして僕はと言えば、肩を振るわせている響にそっと手を伸ばすことしかできなかった。

 

 

 

「……ねえ、どう思う? 私ってなんなの?」




 突然、響が立ち上がる。

 そして僕が伸ばした右腕をいきなり掴んだ。

 僕の手のひらに指を絡ませてきたのだ。

 

 

 

 その手のひらはとても小さいのに力はとんでもなかった。

 なにしろ南京錠をいとも簡単に壊すほどの怪力だ。

 

 

 

 僕は苦痛で歪みそうになる顔を必死で押さえて笑顔を作る。

 正直言うと手のひらだけでなく肩の関節から直接右腕ごと千切られるような痛みだった。

 

 

 

「ねえ、タツノコ、答えてよ! 

 ……私ってどう見える? 人間の女の子に見える?

  

 普通の女の子のように、男の人と楽しくおしゃべりしたり、おいしいものをいっしょに食べたり、ちょっぴりすねたり、おねだりしたりして、仲良くデートできたりするの……?

 ねえ、ねえ、ねえ、答えてよ……!」

 

 

 

 見ると僕の右手の指は紫色に染まっていた。

 痛みはとうに通り越して指の感覚はすでに麻痺している。

 

 

 

「……ねえ、ねえ、ねえ、答えてよ。教えてよ。

 ……私は人間なの……?」

 

 

 

「……どうみても普通の女の子だよ。

 ……かわいい女の子だと思う。正直言うと僕は響を初めて見たときから……、好きになっちゃたんだ。

 ……これは本当、絶対に、絶対に、絶対に、嘘じゃないよ」

 

 

 

 それは僕の本心だった。

 そのときの僕は近くに悟郎さんや沙由理さんがいたことすら完全に忘れていた。

 ただ、ただ、ただ、目の前で苦しんでいる響が愛おしいくて、たまらなかった……。

 

 

 

「ホ、ホント……?」




 響の問いに僕は頷く。

 ……すると響はいきなり、くたっと力が抜けた。

 

 

 

 僕はもうなにがなんだかわからなくなって、ぐったりした響を抱き寄せた。

 ……軽かった。

 響の身体は本当に軽かった。やっぱりただの女の子なんだ。

 

 

 

 僕は右手で響を抱きかかえたまま、空いた左手で響の後頭部からうなじ、そして右肩へと手をすべらせる。

 そこには本当に小さくて本当にやわらかい普通の女の子の身体があった。

 僕はぎゅっと響を大事に大事に大事に、抱きしめた……。

 

 


 ■ 

 

 


 僕たちが、シンシアさんたちが待つ向こう側ダミーの里にある管理棟に到着すると、驚いたことにヘリコプターの爆音が聞こえてきた。 

 見上げるとそれは胴体に星マークがペイントされたアメリカ陸軍所属のヘリだった。

 

 

 

 着陸したヘリはすぐさまエリーさんたちを収容した。

 シンシアさんは責任を持ってアメリカ陸軍の病院で完治するまで治療させると言う。

 

 

 

 そしてシンシアさん、ロバートさんが僕たちひとりひとりに握手をした。

 

 

 

「シンシア、どうやってヘリコプターを呼んだの? 

 あなたたち無線機とか持っていたのかしら?」

 

 

 

 沙由理さんが尋ねた。

 シンシアさんが首を振る。

 

 

 

「不思議なのよ。

 昨日は使えなかったスマホが今日はなぜか使えたの。だから緊急でヘリを寄越させたのよ」

 

 

 

「あ……!」




 僕は叫んだ。

 

 

 

「どうしたの?」




 響が怪訝そうに僕を見た。

 

 

 

「そうか、そう言うことか……」




 僕は自分のスマホを取り出した。

 シンシアさんの言う通り画面にアンテナが立っていた。

 

 

 

「不思議に思っていたんです。

 エリーさんたちは双主の里から直接『異形たちの森』にチュパカブラの写真を投稿したはずなんです」

 

 

 

「そう言えばそうだな」




 悟郎さんが画面をのぞき込む。

 



「はい。つまりこう言うことなんだと思います。

 こっち側ダミーの里は電波が届くんです。

 

 だけど山とか深い森とかの地形の影響なのか判らないんですが、向こうの隠された本物の里には電波が届かない。

 だから向こうには無線小屋が造られたんです」

 

 

 

「そうか……、なるほどな。

 お前は大したヤツだ、ドラゴンボーイ!」




 ロバートさんが僕の肩を叩いた。

 すごい力だった。

 

 

 

 ヘリは地面でローターを回したまま飛び立つ気配がなかった。ヘリが放つ強烈な風にきれいな金髪をなびかせて、シンシアさんが口を開く。

 

 

 

「半日も待てば日本の警察も来るわ。

 佐藤と名乗る男が麻薬に手をつけて、凶悪な事件を巻き起こした。

 

 

 

 そしてたまたまこの地に立ち寄ったアメリカ陸軍の将校たちがそれを見つけた。

 そして佐藤は発覚を恐れ湖水に身を沈めた。

 

 

 

 だけどマスコミ発表では米軍の名前はなく、日本警察の手柄としてのみが人々に知れ渡る。

 ……筋書きはこうなんだけど、あなたたちも登場したければ警察に紹介してあげるわよ? どうする?」

 

 

 

 シンシアさんがにやりと笑った。僕たちは当然それを辞退した。

 そしてやがて、シンシアさんとロバートさんと言う特殊任務を負った米陸軍の将校を収容したヘリコプターは、爆音とともに大空に舞い上がった。

 

 

 

 僕たちはそれが小さくなるまで見送った。

 

 


 ■

 

 

 

 双主の里から帰ってからしばらくたった。

 直後に発行された『PCライフマガジン』は、世の話題をさらった麻薬事件の舞台での話から反響はものすごかった。

 

 

 

 だがその記事には、響のこともシンシアさんたちのことも、エリーさんやリーフさんのことも、もちろん全然触れてはいなくて純粋に伝説だけを捉えた内容になっていた。

 

 

 

 事件に深く関与していたはずの久山興業は、今件は現地管理人が勝手に行った行為と発表し、会長や社長がおきまりの謝罪をプレスの前で披露した。

 

 

 

 最初はそれに対する風当たりも強かったみたいだけど熱しやすく冷めやすい世論のことだから、もう数ヶ月もすれば人々の記憶からこの事件が消え去るのは間違いない。

 そして……響とはあの日以来会っていない。

 

 

 

「部長、部長!」




 暦は八月になっていた。

 昼下がり。

 

 

 

 僕は構内資料部に向かうため高校の廊下を歩いていると後輩の松田が血相を変えて走ってくるのが見えた。

 小脇にはノートPCを抱えている。

 

 

 

「また侵入者です。

 三崎丘文庫にまた侵入者なんです」

 

 

 

「なんだって?」




 僕と松田はそこからいちばん近い教室に入る。

 もちろん今は夏休みなので教室の中には誰もいない。

 

 

 

「今からちょうど一時間前の映像です」




 そういって松田はノートPCに表示された動画ファイルをクリックする。

 

 

 

「……ど、どう言うこと?」




「はい。例の暴力女です」




 僕が尋ねると松田はにやりと笑った。

 画面には三崎丘文庫の内部が映っている。

 以前に松田と仕掛けた天井から撮影するカメラである。

 

 

 

 ……そこに響が映っていた。

 響は文庫の入り口から侵入するとカメラ目線で笑顔になった。

 

 

 

「……これってやっぱりバレてたってこと?」




「ですね。

 たぶん最初からバレていたんだと思います。……『風の民』でしたっけ?」

 

 

 

 松田の言葉に僕は頷いた。

 

 

 

 常人をはるかに上回る五感を持つ響なのだ。

 おそらくカメラのモーターが動く音をすでに察知していたのだろう。

 

 

 

 やがて画面の響はポケットから四つ折りの紙を取り出した。

 そしてそこには文字が書かれていて、それをカメラに向けて掲げたのであった。

 

 

 

「午後一時。屋上?」




「みたいですね。行ってきたらどうです?」




 松田が横目で僕を見る。

 

 

 

「大丈夫ですよ。屋上にはカメラは設置していません。

 ……急いだ方がいいですよ。女ってのは、とにかくめんどくさくて待たせちゃ駄目らしいですから。

 あ……、後で二人の話は絶対に聞かせてくださいね」

 

 

 

 松田はいたずら小僧のようにウインクする。

 

 

 

「ひと言多いんだよ」




 僕が小突く振りをすると松田は笑いながらノートPCを持って退散した。

 

 

 

 僕は屋上に向かって走り出す。

 時計を見るとまもなく一時だった。

 屋上はふだん施錠されている。

 

 

 

 だが僕が全力疾走で階段を駆け上るとドアすでに開いていた。

 見るとドアノブがぶらりとあさっての方角を向いていた。

 肩で大きく息をしながら僕は屋上へと踏み出した。

 

 

 

「……響?」




 僕は呼びかけながら足を踏み出す。

 そして周囲を見回した。

 

 

 

 手すりまで来ると真下にあるプールで水泳部の連中が見事なターンを決めてクロールしている姿が見える。

 屋上の右端には大型のエアコン室外機のファンが回っているのが見えた。

 

 

 

「響。僕だよ。タツノコだよ」




 僕はもう一度声をかけてみる。

 

 

 

「……ここよ」




 すると返事が返ってきた。

 僕は声の方角を探して三百六十度をぐるりと視線を巡らす。

 すると給水タンクの上で空を仰いで背を向ける髪の長い少女が立っていた。響だった。

 

 

 

「来てくれたんだ。……メッセージに気がついてくれたんだ」




 響は向こうを向いたまま言う。

 

 

 

「うん。後輩が教えてくれたんだ」




「そう。……私、賭をしてたんだ。

 もし気がついてくれなかったら、このまま行っちゃおうかと思ってた」

 

 

 

 響の長い黒髪が、そのとき吹いた風に舞った。

 

 

 

「行っちゃう? ……どう言うこと?」




 僕はなんだが嫌な予感がした。

 だからタンクまで一気に走って管理用のはしごに手をかけた。

 

 

 

 そこは目がくらむ高さだった。

 地面を見るとタンクに登っている僕たちの姿を見つけた水泳部の部員が指をさしているのが見える。

 

 

 

 やがて僕は、はしごを登りきった。

 給水タンクの上は少し丸くなっていて足下が不安だったので僕はタンクのふたに付いている手すりを掴んで響を見上げる。

 

 

 

「……それ制服? どこの学校の?」




 響は丸襟の白いブラウス姿だった。

 それは三崎丘高校のセーラー服と全然違う、まったく知らない高校の夏服だった。

 

 

 

「もしかして、また転校するの?」




 尋ねると響は頷いた。

 その表情は固い。

 

 

 

「叔父の家の整理もすんだわ。……だからまた行こうと思うの」




「『風の民』を探しに? ……それとも自分探しの旅に?」




「両方。…

 …きっとどこかで私が求めている答えがあると思うの。だからそれまでお別れ」

 

 

 

 僕はそのとき、響を引き留める言葉を必死に探していた。

 だけど響の表情に浮かぶ固い意志を見て、その気持ちは急に萎んでしまう。

 

 

 

「別れって慣れてないんだ。

 ……またいつか会えるのかな? 僕も天狗伝説を追い求めて旅に出れば響と会えるのかな?」

 

 

 

「……お願いだから探さないで。またタツノコに危険な目に遭わせたくないから。

 ……あ、でも『異形たちの森』には必ず書き込みするから、絶対にするから……」

 

 

 

 響は目を閉じていた。

 そしてその細い両肩がかすかに震えているのがわかった。

 

 

 

 僕はそっと、その肩に手を乗せた。

 すると響が僕の手に自分の手を重ねた。小さくてやわらかい手だった。

 

 

 

「どうしよ。見つかっちゃったみたい」




 響がちょっとおどける仕草になる。

 その視線の先はプールに向けられていた。

 

 

 

「大丈夫。僕がなんとかごまかすから」




 響は、ありがと、とささやいた。

 眼下のプールサイドでは水泳部の顧問教師がなにか大声で僕たちに叫んでいるのが見えた。

 

 

 

 水泳部の生徒がどうやら告げ口したに違いない。

 教師は肩をいからせて走り出すのが見える。きっとこの屋上までやって来るのだろう。

 

 

 

「じゃあ、……私、行くね」




 響の言葉に僕が頷くと響は僕の手をそっと離す。

 そしてそのまま倒れるような姿勢になってタンクを蹴った。

 強い風が吹いて響の長い髪がなびいて、僕の視界から消えた。

 

 

 

 ……さようなら。

 

 

 

 僕は小さく呟いた。

 風とともにやって来た響は、風とともに去って行く。

 

 

 

 ……まるで風の旅人だな。

 

 

 

 僕は落下しながら三角飛びの要領で隣の校舎の壁を蹴り、方角を変えて森の中に姿を消す響を見えなくなるまで見つめていたのだった。

 

 

                                    了             

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使命ある異形たちには深い森が相応しい。 鬼居かます @onikama2

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