第14話 双主の里の謎とその解明。
「驚いたな。晴れているじゃないか」
「……そうね。
もうなんだが何日も霧に閉じこめられていたくらいに感じていたから、こう言うのってありがたいわね」
昨日の濃霧が嘘のようだった。
空は真っ青に晴れ上がり、真夏の強い日差しが僕たちを照らした。
だが霧はそこかしこに残っていて、崖下に見える大亀池の湖面にはまだ相当濃い霧が白い固まりを浮かべていた。
僕たちは話し合った。
それは今から起こす行動のことだった。
最重要なのは、もちろん響だ。
エリーさんとリーフさんは助け出したのだ。
あとは響さえ見つけ出してしまえば、こんな里に、もう用はない。
「手分けして捜したいのはやまやまだけど、正直、佐藤のことを考えると全員で行動した方がいいと思うんだ」
悟郎さんが提案した。
もちろん僕たちは同意した。
「……今となっては、あざといと私自身でも思うけど……取材もついでにね?
ここで起こった事件は私の手には余るものばかりだったけど、大亀と天狗ミイラはやっぱり最初の取材目的だし……」
「ああ、もちろんだ。手ぶらで帰っちゃ君の席がなくなりそうだしな」
「そうね。でもそれはあなたの仕事もなくなることを意味するわ」
僕たちは少しだけ笑い合った。
そして僕たちは大亀池に向かうことにした。
……今朝僕が見た夢では響は湖畔に倒れていた。
でも僕は、そのことには触れなかった。
夢のお告げなどと言う言葉を使うには、あまりにも荒唐無稽で現実的ではないからだ。
だが大亀池になにかが本当にあったのは、これから知る事実で、それは僕が見た夢とは別のものだった。
太陽の光を背に受けて、僕たちが湖畔に降りる曲がりくねった道を歩いていたときだった。
道は岩と下草だけの崖にあって、一歩踏み外せば十メートル以上も下にある池に真っ逆さまと言う場所だ。
眼下の湖面は真っ白な濃霧に覆われていた。
そのときだった。
「キャー! な、なに……、あれっ!」
沙由理さんが絶叫した。
僕は沙由理さんが指さす方角へと視線を向ける。
「……っ!!」
霧の中に人が立っていた。
真っ黒なシルエットが三人……。僕たちと対峙するかのように宙に浮かんで立っていたのだ。
瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。
チュカバブラ……?
それとも佐藤……?
とっさに浮かぶ敵の姿をそれに例えようとしたのだけれど、どうも具合が違う。
よく見ると影たちは僕たちを見たまま、まったく動かずにそこに浮かんでいた。
そしてそのシルエットたちの周りには虹が出ていた。
円形の虹が黒い三人の背後にぽっかりと浮かんでいたのだ。
「……ブロッケンの怪物?」
僕は思わず呟いた。
そして僕は試しに影に向かい両手を振ってみた。
すると影のひとりも僕と同じように、左右の手を振り返してきたのだ。
「なるほどな。
確かにブロッケン現象だ。……初めて見たよ」
悟郎さんが破顔した。
うれしそうだった。
「な、なにそれ?」
沙由理さんが怯えたように言う。
「太陽光線と霧のいたずらです。あれは僕たちの影なんです」
僕が答えた。
「じゃあ……自然現象ってこと?
私てっきり超常現象かと思ったわ。……昨日から信じられないことばかり起きていたから」
ため息をつきながらも沙由理さんは笑顔になる。
不安が安心に変わった顔だった。
「そう思うのも無理はないさ。
ヨーロッパの昔の人は、やはりこれを悪魔の仕業だと思ったらしい。
ドイツにあるブロッケン山での現象が有名なんでブロッケンの悪魔とかブロッケン現象とか言われているんだ」
太陽が雲に隠れるとその悪魔は姿を消した。
そして僕たちは、左右に曲がる細い道を下って行った。
そこは斜面で段々畑のような作りになっていた。
そこにはまだ霧がわだかまっていて、丸い植物がぼんやりと見える。
「……おかしいな?
ここには、例のサボテンが栽培されていたんじゃないのか?」
悟郎さんがふと足を止めた。
「おかしいですね。
確かにシンシアさんたちの話だと、そう言うことでしたよね?」
言われて僕も不思議に思った。
ここには確かに畑があった。
だけど深い霧の固まりの中からぼんやり見えるのは禁断のサボテンであるペヨーテなんかではなかったのだ。
「……レタス畑ね。つまり普通の高原野菜ってことになるわね」
沙由理さんの言う通りだった。
風に乗った霧がさあっと晴れ渡ると、そこに広がるのは一面のレタス畑だった。
たぶん昨夜の新鮮なサラダは、ここから収穫したレタスを使用したのに違いない。
「どう言うことでしょうか?」
僕は尋ねた。
「わからん……。
しかしロバートやシンシアが嘘をついたとは思えない」
悟郎さんは呻いた。
「あ、あれを見てください!」
僕は思わず叫んでいた。
視界が広がる大亀池を僕は指さしていた。
「ど、どう言うこと? これもなんとか現象……?」
沙由理さんが呟く。
「し、信じられん……あり得ない。しかし……」
悟郎さんが首を振る。
僕たちが見たものは……亀背島だった。
島が霧に巻かれて池の右端に小さく見えた。
「……島が動いたの?
亀が泳いで移動したってこと? 大亀伝説は正しいってことなの?」
沙由理さんは口をぽかんと開けていた。
昨日僕たちが管理棟のベランダからながめた亀背島は、ほぼ正面に位置していた。
だけど今この場所で見る島は、池の右端にかすんで浮かんでいたのだ。
今僕たちがいるこの畑は、管理棟のほぼ真下にあるのだから方角から考えて僕たちの錯覚とは思えなかった。
しばらくの間、僕たちは無言で島を見ていた。
シャッターを切る悟郎さんのカメラだけが唯一の音だった。
だがやがて捜索を再開した。
いつまでも島の謎に囚われている訳にはいかないからだ。
でも不思議なのは、それだけではなかった。
畑の先まで歩き、シンシアさんたちが破壊したと説明があった洞窟を発見することができなかったのだ。
教えられたその場所に確かに見上げる断崖はあった。
だがそこには自然に落ちてきた岩や石が点在するだけで、その奥に洞穴があったとはどうしても思えなかった。
そして響の姿も見つからないことから、僕たちはそこから去ることにした。
□ □
次に僕たちが向かったのは天狗堂だった。
湖畔から戻った僕たちは管理棟を通り過ぎてお堂に足を向けた。
そこは昨日も行った所だけど、天狗ミイラはなくて、ガラスケースの中に空席の椅子があるだけだったのだ。
だからミイラを見られる可能性は、まったく期待はしていなかった。
僕たちは響を捜す大前提を忘れた訳ではない。
だがこの里の地理を理解してない僕たちが闇雲に歩いた場合には逆に捜索の無駄ができることから、見覚えのある場所から捜索しようと考えたのだ。
「霧の中だったからわからなかったけど、あまり大きくない里だったのね」
先頭を歩く沙由理さんが振り返って言うのは確かだった。
昨日僕たちが来たときは深い濃霧だったので、歩いてきた道のりとこれから進む先がまるで見えなかった。
だから距離感の錯覚を起こしてしまい、実際よりはるかに広い空間だと勘違いしていたのだ。
だが薄い靄の中で見る双主の里は、なだらかな斜面に開けたすべてが見通せる狭い集落にすぎなかった。
やがて道が二股に分かれた。
一方は里の中心に向かう道でもう一方は天狗堂に向かう道だ。
「待てよ……?」
悟郎さんが突然立ち止まった。
「そう言えば、この茂みの先に無線小屋があるんだったよな?」
「そうですね」
僕は答えた。
悟郎さんの言う通りだ。
昨日僕たちはこの先で小屋を見つけた。
それは響にしか聞こえない騒音をまき散らす施設だった。
そして鍵がかかって入れなかったのだ。
「……壊されていたって昨日の夜に言ってたわね?」
僕と悟郎さんは頷いた。
昨晩、佐藤が言っていた台詞を思い出す。
壊した犯人はたぶん……響だ。
「ついでだから行ってみようか? どんな風に壊されていたのか気になるしな」
悟郎さんはそう言った後、がさがさと茂みをかき分けて入ってしまった。
「野次馬ね……」
くすりと笑って沙由理さんも茂みをかき分けた。
だから僕も仕方なく続いた。
先頭を歩く悟郎さんが指さす先に木々が密集した場所があった。
その中に隠されるように小屋は造られていたのだ。
だが……そこに到着した僕たちは、互いの顔を怪訝そうに見つめ合うことになった。
「……場所、間違えたかな?」
「そんなことないわ。確かにここだったはずよ」
僕たちは呆然としていた。
三人の記憶は一致していた。
間違いなく無線小屋はここだったはずだ。
しかし今ここにあるのは、あくまで密度濃く伸びた木々があるだけで、その中心には折れた枝や落ち葉が積もっているだけだったのだ。
破壊されたと言っても小屋の建材の一部なり、無線機の残骸なり、残ってるのが普通だ。
だがここにはそんな人為的なものは欠片も落ちていなかった。
「どう言うこと?
レタス畑に動く島、そして洞窟は存在しなかった。
それだけじゃなくて小屋までなくなったってこと? いったいどうなってるの?
私、もう訳わかんない……!」
沙由理さんがヒステリー気味にまくし立てた。
だがその気持ちは僕も同じだった。
昨日から今朝にかけて見聞きしたものが、すべて違うのだ。
僕の頭はこんがらがっていた。
「……まさか消滅したってことはないですよね?
現実的に考えたら手際よく片付けられたと考えるのが普通でしょうか?」
僕は誰に言うともなく呟く。
「違うな……。
これは、そう言うことじゃない。最初からここには小屋なんてなかったんだ」
悟郎さんが断定するように言った。
最初から……ここになかった?
その言葉に僕はどこか引っかかりを覚えた。
やがて僕たちは釈然としない気持ちを持ったまま、この場所を去った。
「……こうなったらなにが起こっても私は驚かないわ」
沙由理さんがやけ気味に宣言する。
僕たちは茂みを抜けて二股の道に戻った。
当初の予定通り向こうに見える『天狗堂』に向かったのだ。
そこには小さい建物が見えた。昨日見た小さなお堂だ。
「なんだか救われた気分だよ。
これで天狗堂までなかったら、俺は自分の記憶力に疑いを持つね」
心底安心したように悟郎さんが言った。
そして僕たちは『天狗堂』と書かれた古ぼけた看板を抜けた。
鍵のかかった木の格子の扉の向こうは、畳一枚程度の広さだった。
奥が暗くてよく見えないのは昨日と同じだ。
そしてカメラのピントを手動で設定した悟郎さんが格子の間からカメラごと手を入れた。
そしてシャッターを押すとストロボが光った。
「な、なんだ……!」
「ど、どう言うこと……?」
「……!」
僕たちは固まった。
いきなり背中に冷たい氷を押しつけられたようだった。
ミイラが……いた。
昨日はなかったはずのミイラがガラスケースの中で鎮座していたのだ。
悟郎さんが狂ったかのようにストロボを連続的に光らせた。
明滅する光の中に浮かび上がったミイラは小さくて身長は子供くらいだった。
水気のない茶色く痩せた肉体は破損がだいぶ進んでいるようで、天狗の特徴とも言える高い鼻などはすでに欠損していた。
形は確かに人間だけど見方によってはただの古びた木片のようにも思える。
それだけ破損が激しいのだ。
両眼があった部分などはすでにくぼんでいて、かろうじてそこが顔だとわかるくらいだった。
「……頭がこんがらがりそうだ。
誰か俺に納得がいく説明をしてくれ」
悟郎さんが髪をかきむしった。
「誰かが持ち出したのを戻したってのが正解なんじゃないかしら?
まさか……歩き回っていたなんてこと、ないわよね?」
不安な顔で沙由理さんは僕を見た。
僕は頷いた。
いくら僕がオカルト好きだとしても、こんなのが徘徊するなんて信じない。
いや……、信じたくない。
「……だとしたら犯人は佐藤か?」
「なぜ? どう言う目的でなの?」
「そんなの俺が知るか」
二人は軽いパニックを起こしているようだった。
だが僕は……なにかを感じた。
昨日と今日があまりにも違うことに、はっきりとした違和感を持ったのだ。
裏が……ある。そう確信したのだ。
そう思ったときだった。
僕の頭蓋に電撃が走った。
巻き戻された映像のように昨日からのさまざまな出来事が脳裏に次々と浮かんできたのだ。
……そうだったんだ。……それなら、……あり得る。
……双主の里とは……そう言う意味だったのか。
「……ミイラは動きません。
それにあれだけ破損が進んだ状態ですから運ぶこともままならないでしょう」
二人は僕に注目した。
「龍児……。どう言うことだ? お前は、なにかわかったのか?」
僕は頷いた。
「僕には今ひとつの仮説が浮かびました。
昨日と今日が、なぜこんなに違うのかを今から謎解こうと思います」
ぽかんと口を開けた二人を僕は引きずるようにして管理棟に戻った。
「中には入らないのか?」
駐車場に向かう僕に悟郎さんの疑問の声が飛んできた。
僕はそれには答えずに久山興業のやや旧式の車のドアを開けた。
この車は社有地専用の4WD車でナンバープレートが付いていないものだ。
そして思った通りキーは付けっぱなしだった。
こんな廃村で盗まれる訳がないのでエンジンキーは差しっぱなしだろうとにらんだ通りだ。
これに関しては、この車が古い型なので正直助かった。
鍵が不要なスマートキーの現代タイプだったら、こうはいかない。
そして僕はエンジンをかける。
「一体どこへ向かう気なんだ?
まさか三人だけで帰ろうとしているんじゃないよな?」
助手席の悟郎さんが僕に怒鳴った。
だが僕は無言のままだ。
荒れた路面を飛ばしているので車内はとんでもなく揺れていた。
やがて道は砂利になった。
昨日歩いて通った細かい砂利の道だ。
スピードを落とした僕は注意深く周囲を見ながら運転した。
そしてブレーキを踏んだ。
「……ここは昨日の所じゃないかしら?
ほら、悟郎くんがカムフラージュした草の扉を見つけたところよ!」
僕に続いて降りた沙由理さんが叫んだ。
「確かに……。間違いないな。これは俺が見つけた扉だ」
悟郎さんが周囲を見回して確認する。
僕はその偽装された扉に手をかけた。
「お願いします。この扉を開けるのを手伝ってください」
悟郎さんと沙由理さんの二人はいぶかしげな表情になりながらも同意してくれた。
そして僕たちは開かれた扉の先、つまり今走ってきた道とはまったく別の道へと車を走らせた。
「……僕の仮説が正しければ、この先に双主の里があります。
ホントは森の中を直接抜ける裏道なんかもあると思いますが探している時間が惜しいのでこうした確実な方法を採りました」
驚く二人を尻目に僕はハンドルを握り続けた。
そして、……里へと到着した。
「えっ? ……戻って来ただけ? 枝分かれした道はつながっていただけってオチなの?」
沙由理さんがあきれたように呟いた。
そこは間違いなく双主の里だった。
車一台しか通れない土の道、そしてそれに沿って流れる小川がある。
薄い靄を通してちらほらと、すでに見覚えのある古い木造家屋が建っているのが見える。
僕はまったく同じその風景を通過して管理棟へと車を進めた。
そして駐車場に停車させた。そこにはこの車とそっくりの車両が停まっていた。
まったくの同型で同色。
そしてナンバープレートが付いていないのも同じだから今乗っている車と区別はつかなかった。
「……管理棟に入ってみましょう。
そこには今朝と違う風景が待っているはずです」
驚いた表情の二人だったが僕の後に続いて階段を登ってきた。
そして僕はドアを開けた。
そこには……僕の予想通り誰もいないロビーがあった。
「真っ暗だな……」
「ええっ!? シンシア! シンシア!」
沙由理さんが叫んだ。
だが返事はなかった。
「どう言うことだ? まさか佐藤に襲われたのか?」
悟郎さんが僕に向き直る。
「違います。そうではありません」
僕は断言した。
「……そうね。
もしここで戦闘が起こったならば管理棟の中はめちゃくちゃになっているはずね」
沙由理さんが頷いた。
そして僕たちは僕の提案で三階に上がった。
「私の部屋、見てみるわ」
沙由理さんが自分の部屋のドアを開ける。
それを見て悟郎さんも隣の自分の部屋に入った。
そして……、二人はすぐに廊下に戻って来た。
「おかしいのよ。私の荷物がないわ。
……バッグも着替えもぜんぶないのよ」
沙由理さんの顔は青ざめていた。
「俺も同じだ。泥棒でも入ったのか?」
悟郎さんが難しい顔で腕組みをした。
試しに僕も部屋を調べてみたが、やはりなにもなかった。
「やっぱり予想通りです」
僕は頷いた。
「予想通り?
龍児くんは私たちの荷物がないことを予想していたって言うの?」
沙由理さんが驚いた顔で尋ねた。
「はい。ある訳がないんです」
「まるで、犯人はもうわかっているとでも言うのか?」
「はい。
……でも荷物はあとでちゃんと見つかるので心配しないでください」
悟郎さんと沙由理さんは互いに顔を見合わせる。
その後、僕たち三人は二階に降りた。
そしてロビーを抜けると僕はベランダを目指した。
「……ちょ、ちょっと待て。……これはいったい?」
悟郎さんが眼下に広がる大亀池を見て呻いた。
「……ど、どう言うことなの? 島が動いてる……!
やはり大亀伝説は本当ってことなの? 訳がわかんないわ……」
沙由理さんが僕の袖を痛いほど強く引っ張った。
「そうなんです。
見ての通り大亀池に浮かぶ亀背島は、昨日僕たちが見たときと同じように正面に浮かんでいます。
でも今朝、さっき見たときは島はこの湖の右端にいました。
……そしてこれは、僕の考えが正しいことの証明なんです」
今朝、車に乗って移動する前に見た亀背島はこのベランダから見て湖の右端に霧に巻かれてぼんやり浮かんでいた。
だけど今、同じベランダからながめる亀背島は昨日と同じく正面にあった。
背に緑をたたえたその島の中央には、薄い靄を通して亀を祭った鳥居が見えている。
そして僕たちはロビーに再び集まった。
腰かけた向かい合わせのソファは今朝シンシアさんたちが座っていたものと同じもので、僕の正面には悟郎さん、そしてその隣に沙由理さんが座った。
僕は口を開く。
「……この里には大亀の伝説と天狗の伝説があります。
このふたつの主がいるから
だけどそれだけが名前の由来ではなかったんです。
そして……、そのことはこの村に伝わる伝説にちゃんと書かれてあったのです」
「な、なんだって? 俺が持っているあの本か?」
悟郎さんが驚いたように言った。
「ええ、そうです。
高原ホテルで悟郎さんが読んでくれたあの伝説です。
悟郎さんは、あの話には寓話性がないから手が加えられてない可能性が高い、と言ってましたね?」
「そうだ。
だが話の中身はいかにも昔話だ。とてもじゃないが真実とは思えない」
「……あれは真実が書かれてあったんです」
「ほ、本当なの? ……信じられないわ」
沙由理さんが驚いた。
もちろん悟郎さんも口をぽかんと開けていた。
「……藤助は草玉作りの名人でした。
だがこの玉は食べると変な夢を見ると書かれてあります。これはなにかに似ていませんか?」
「あ、そうか! ペヨーテだ」
悟郎さんがぽんと膝を打った。
「そうなんです。
ペヨーテはまさに草色の玉です。そしてメスカリンの幻覚症状もそのままです。
どうしてこの地にサボテンがあったのかまではわかりませんが、これが書かれた時代にはすでに栽培されていたのです。
さらに里には医師が住んでました。
こんな山奥の里に医師がいたなんて不思議な話ですが、草玉と言う植物を栽培していることから薬に詳しい人物が住んでいたのは納得できます」
二人は頷いた。
「……そして僕たちは、亀背島が何度も移動するのを目撃しています」
「うん。それは認めるわ。
理由はわからないけど見たのは事実だし……」
沙由理さんは背後のベランダの方を振り返る。
昨日僕たちが管理棟のベランダからながめた亀背島は、ほぼ正面に位置していた。
だけど今朝見たときに、島は大亀池の右端に移動して霧の中でかすんで浮かんでいたのだ。
そして先ほどは、再び島は正面に戻っていたのである。
「そして僕たちは天狗の仕業も見ました。
逃げる藤助たちを追った役人たちが霧の中で見た大勢の天狗……。これはなにかに似ていませんか?」
「そ、そうか! ブロッケン現象だ!」
「はい、そうです。
昔のヨーロッパ人があれを見て悪魔だと思ったのなら、役人たちには天狗に見えたのも納得がいきます」
「そうね……。そう考えると確かに合点はいくわね。
でも……、それらは私たちが昨日から今朝にかけての不思議のすべてを、説明できる訳ではないわ」
「その通りです。
そして藤助の物語にはまだ謎が残っています。
この謎こそが、僕たちが体験した不思議のすべてを説明できるものなのです」
二人は無言だった。
「なぜ藤助はなんども自分の家と医師の家を間違えたのでしょう?
もちろん霧で道に迷ったからですが、そうなんども間違えるのはおかしいと思います。
だから僕は考えました。
間違えたのは藤助の方の問題だったのではなくて、里の方の問題だったんじゃないか? と思ったのです」
「ど、どう言うことだっ!?」
悟郎さんが身を乗り出した。
「はい。
実は僕たちも同じ体験をしています。昨日から見聞きしたものが違っていたのです。
ひとつは無線小屋です。これはあるはずのものが、ありませんでした。
もうひとつが天狗ミイラです。これはなかったはずのものが、ありました。
その他にも、チュパカブラの施設があったはずの洞窟はなかったし、草玉の畑はなくて、僕たちが見たのはレタス畑でした。
そしてこの管理棟です。
シンシアさんたちはいない、そして僕たちの荷物もない。なんども自分の家を間違えた藤助の場合と似ていませんか?」
「似ているな……。続けてくれ」
「……こう考えたら、すべての謎が解けます」
僕はスウッと大きく息を吸った。
「……双主の里は、
悟郎さんも沙由理さんも固まっていた。
まるで時が止まったかのようだった。
僕は続ける。
「……同じような地形に同じように立てられた同じ建物たちがある里が、二つあるのです。
つまりまったく同じ造りの集落が隣り合わせて二つ存在するということなのです。
当時の里人たちが、必要があってそう言う風にこの里を造ったんだと思います。
双主の里には天狗がいました。
天狗は自分の存在の秘密を守ってくれる里人たちに、その見返りとして草玉の栽培を教えたのかもしれません。
そしてそれだけでなく、天狗が持つ超常の力で秘密をかぎつける外敵から里を守っていたのかもしれません」
「……私が言った第三の必然ね。
つまり天狗と言う異能者を頂点にして人々が集団で隠れ住む里だったってことね」
沙由理さんの言葉に僕は頷いた。
この里に来る道中にクルマの中で沙由理さんが発言した内容だ。
「はい。
里人たちは、天狗や草玉の存在を外部から守るためにカムフラージュ用にもうひとつの里を造ったんだと考えています。
そしてそれに久山興業が目をつけたんです。
同じように同じデザインの管理棟を後から二つ造ってしまえば、見分けはつきません。
ペヨーテの秘密を守るために、このカムフラージュを使えば例え警察が来てもレタス畑がある里の方に案内すれば問題ありません。
そしてそのための仕掛けが偽装された草のドアなんです」
「そうか、入り口で客にあわせて任意の里へ案内する訳か。
招かざる客は偽の里へ向かわせるんだな」
悟郎さんは頷いた。
「そして二つの里説にはそれを裏付ける根拠があります。
それは亀背島です。
湖畔に沿ったふたつの里からは当然島が見える位置が異なります。
僕たちも、それにだまされたのです」
「なるほどね。
そもそも見る場所が違うんだから、それなら亀の背中が行ったり来たりするように感じるのも納得できるわね」
「……だがな、俺には納得できないことがある」
悟郎さんが腕組みした。
「確かに龍児の説だとすべてが説明できる。
この里とシンシアたちを残してきた里が別の里だとしても、来たばかりの俺たちにはその細かい違いはわからないだろう。
それに霧に閉ざされた状態だからなおさらだ。
だがな……、俺たちが昨日泊まった里は、亀背島が目の前にあり、無線小屋もあった里だ。
それにミイラはいなかった。
だけど今朝起きたとき、亀の背中は大亀池の右端に移動していると言う、昨日とは違う里にいた。
俺たちは宿泊棟で寝ていただけなんだ。決して移動した訳じゃない。
これをどう説明するんだ?」
悟郎さんがじろりと僕を見た。
それは悪意があってのことじゃなくて、真実を知りたいだけなんだと言いたげだった。
「……ここから先は推理になります。
僕は昨夜とても早い時間に眠りました。そしてお二人もそうだったはずです」
「そう言えばそうね。なんだかとっても眠かったわ」
「うん。確かにそうだ」
悟郎さんは考え顔になる。
昨夜、まだ午後九時を回ったばかりなのに、あくびが止まらず三人ともすぐに眠ってしまったのを僕は改めてを思い出す。
「三人が三人とも眠くて仕方ありませんでした。おかしいと思いませんか?」
「……そうか!
睡眠薬か! 佐藤が用意した夕食に強い睡眠薬が混ぜてあったと言う訳だ」
「はい。
睡眠十分のはずなのに、僕は今朝目覚めが悪かったのを覚えています。
それは睡眠薬のためかもしれません。
そして薬で深く眠っていたのなら運ばれても目が覚めないと考えました。
昨日佐藤が連れてきた多すぎる手伝いは、そのための人員かもしれません」
「説得力はあるな。でもあて推量に過ぎない」
「そうね……。説明はできるけど断定はできないわね」
僕は頷いた。
「……確かにそうです。
でもシンシアさんたちが夜中に使った大型の手榴弾の爆発音に、どうして僕たちは誰も気がつかなかったんでしょうか?」
沙由理さんが、ハッと息を飲む。
「……そう言えばそうね。
私たち全員が爆発音に気がつかないことをシンシアが不思議がっていたわね」
「はい。
………洞窟があった方の里、つまりペヨーテが栽培されている方の里ではなくて、レタス畑がある里の方にすでに僕たちが運ばれていたのなら距離が遠くて聞こえなかったのも十分にあり得る話です」
悟郎さんが頷くのが見える。
「……確かにそれはそうだな。
俺も爆発音については変だと思っていた。……龍児、つづけてくれ」
悟郎さんにうながされて僕は頷く。
「……それだけではありません。
僕は昨夜、部屋の鍵をかけて眠りました。それは絶対に間違いありません。それなのに今朝……」
僕は沙由理さんを見た。
「……そう言えば龍児くんの部屋の鍵、開いていたわね」
「はい。
……僕たちが運ばれた際の不手際で、鍵をかけ忘れたのも十分に考えられるはずです。
いつ睡眠薬が切れて僕たちが目を覚ますかわからないんですから、そう言う細かい間違いが起こる可能性はかなり高いはずです」
悟郎さんと沙由理さんが同時に頷いた。
「はい。
……だからこう考えたんです。
僕たちのように招かざる客が秘匿の方の里に来てしまった場合、眠らせてカムフラージュ用の里の方に運んだんだと思います。
……そう言う用意が最初からある訳ですから、佐藤はくまなく取材して構わないと言ったんだと思います」
すべてのピースは埋まった。
僕の脳裏には双主の里のすべての謎が埋まったジグゾーパズルの完成図が浮かんだ。
「見事だ。完璧だよ」
悟郎さんが僕に握手を求めてきた。
こんなことは初めてでなんだか照れくさかった。
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