第6話 「隠れ里」の必然。
森の木々と白い濃霧に遮られて視界の効かない山道に、跳ねるように走る一台のクロスカントリータイプの四輪駆動車があった。
まるでラリーレースである。
土埃が舞い、小枝が折れて小鳥やセミがあわてて飛び去る。
『あいつら、無関係だったと思うか?』
『どうかしら? でも向かう先は同じみたいね。どこまで事情を知ってるのかは不明だけど』
運転しているのはロバートだ。
そして助手席はシンシア。
地図を見ながら弾倉の銃弾を確認している。
『森林を避けて河原でビバークしたのは悪くなかった。
木の上から狙われる確率が減るからな……。
でもとんだ目撃者を作っちまった』
『でも見つけたわ。
対象はこの森にいるってね。
あなたのその傷、そうなんでしょ?』
『ああ。
でも飛び道具を使うなんて知らなかったぞ。
この傷は石でもナイフでもない』
ロバートは腕のミミズ腫れを見せた。
傷はそれほど深くないが鋭利ななにかですっぱりと切られている。
『計算外だったわ。
それにまさか一般人が来るなんて思わないもの』
『騒ぎが大きくなる前に回収したいものだな』
『そうね。プレイヤーの多いゲームはとかくややこしくなるわ』
『とっさのことで天狗ってことにした。
良かったかな?』
『いいんじゃないかしら。
天狗のミイラがあるのは本当らしいから。それが本物かどうかは別として』
『……なるほど』
『でも「異形たちの森」は正解だったわね。
意外と早く発見できたわ』
『ああ。質より量……。
オカルト情報なんてのは新聞やテレビニュースじゃ報道されない。
確かに一握りの記者の目よりも、多数の素人の目の方が多いしな。
日本のことわざで「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ってのがある。それじゃないが、今回ははずれの中に当たりが混じってた』
ロバートが煙草に火をつけた。
シンシアは顔の前で手のひらをひらひらさせて窓を開けた。
『吸うんなら、言ってよね?』
『言ったら吸わしてくれるのか?』
『答えはノーよ』
『じゃあ俺は、やっぱり言わないで吸うよ』
短くなった煙草をロバートが灰皿に押しつける。
『息が煙草臭いから、しばらくこっち見ないでね』
『……あの場面で銃を撃つなんてらしくないな。
もしヤツだとしてもあの距離じゃ当たる訳ないだろ?』
『……あなたにしても同じじゃない。ホントにしめ殺す気かと思ったわ。
彼らどう見ても素人でしょ?
わかりそうなことじゃない?』
『すまない。
つい思い出しちまったんだ、あのときを……。
余裕ないんだな俺たち』
『あのとき?』
『……俺に妹なんかいねえぞ』
『……そうね』
『……まだ忘れ去ることはできないのか?
俺はあのときのガキだった頃と違って、ずっと強くなったぜ』
『私もそう思ってたわ』
ロバートは無言でシンシアを見つめた。
『もしあの日本人たちと再会しちまったときの話だ。
ことの成り行き上、俺は日本語がわからないで通すからな』
『……そうだったの。今わかったわ』
『人の話聞いてねえな……。
なにがわかったんだ?』
『さっきの日本人で少年がいたでしょ?
龍児って言ったわね。
龍の子……タツノコ。そうだったのよ』
『……ああ、そう言うことか。
ま、敵ではないけど目的は取材だろ?
同行はできればしたくはないな』
突然、前方を見つめるシンシアの顔に緊張が走った。
ところどころ霧が薄くなっている木々の枝を高速で滑空する黒い物体が見えたのだ。
『見つけた! あそこあの木の上!』
『ど、どこだ!』
ロバートが顔をフロントガラスに近寄せた。
視線は頭上の枝をにらんでいる。
『ねえ……』
『うん?』
『目の前、枝よ』
強力なブレーキでロバートとシンシアはシートベルトに羽交い締めされた。
そして激しい衝撃とともに車がスピンした。
ロバートは獣のような叫び声をあげてギアを落とし車体をコントロールする……。
□ □
僕たちがずいぶん先に進んだときだった。
あれから峠をふたつ越えたころから真っ白な霧が発生している。
霧は進むにつれてだんだんと濃くなった。
フロントガラスは雨の中にいるように水滴がどんどん付着している。
僕は霧と言うのは気体なんかじゃなくて、ホントは液体だったんだと考えを改めようとしていた。
ワイパーを回し、ヘッドライトをつけた。
それでも視界は悪くて、もはや歩くような速度でしか車を走らせることができなくなった。
「ホントにホントだったんだな……。
悟郎さんが窓の外の霧を見てしみじみした口調で言う。
「常白の里? ああ、そう言えば昨日の夜、言ってましたね?」
僕が問い返すと悟郎さんは頷いた。
僕はそのことは昨夜聞かされている。
だからたぶん後ろの席の沙由理さんに説明しているのだと思った。
「ああ、春から秋にかけては濃い霧、冬は雪と年中白いかららしいんだが……。
たいがいこう言う呼び名があるところは他との交流を避けていた地域が多いんだ」
地図とにらめっこしながら悟郎さんが説明している。
今話題のドラマとかにはまったく知識も興味もない人だが、こう言うことには妙に詳しかったりする。
それも棒暗記したような通り一遍な知識じゃなくて、自分なりの回答を持ち合わせているタイプだ。
「なるほど。……でも交流がないんだったら余計に住みにくい土地でもあったんでしょうね?
どうしてそんなところに人が住んでいたんでしょうか?
僕は前々からこう言うの気になっていたんです……」
僕が質問すると悟郎さんは少し考え顔になる。
「さあなあ……、住めば都って言う言葉もあるくらいだから、生まれ育った人にはそれが当たり前なのかもしれないね。
でも確かに最初にそこを開拓して住もうと思った創始者と言うか先祖と言うか、そう言う人たちには興味がわくね」
「どんな興味です?」
「……そこに住む必然かな?」
「……必然?」
「ああ、隠れ里だよ。探せば日本中にいっぱいある……。
古くは平家の落武者伝説だな。
戦いに敗れた平家の残党が勝利者である鎌倉幕府からの追っ手を逃れて隠れ住む訳だ。
……女子供を一切を引き連れてね。相当きつい旅だったんじゃないかな……?
そして刀を隠して田畑を耕しながらも、そのことを忘れず暮らしている……。
いつの日かの復権を夢見ながら……。
当時は江戸時代なんかの士農工商みたいに、はっきり武士としての階級が分かれたんじゃなくて、武士といえども半分は農業をして暮らしていた訳なんだけど……。
ま、武装地主とでも言った方がいいのかな……。
それが落ちぶれて隠れ住まなくちゃならないんだ。
それもいつ来るかわからない追っ手に怯えてね。
相当なストレスがあったんじゃないかと俺は想像してるんだがね」
僕は頷いた。
「つまり政府から指名手配された者たちが隠れ暮らす。
ま、これが隠れ里の必然の一番目だ」
「おもしろい話ですね」
僕は話を聞きながらもずっと気になっていたことがあった。
それは沙由理さんだ。
後部座席の沙由理さんはさっきから無言だった。
……シンシアさんたちと別れてからずっとそうなのである。
「ああ、他にも隠れ里には必然がある」
「他にも必然はあるんですか?」
「ある。これは俺よりも龍児の方が好きそうな必然だがね。
――例えば
「異能者?」
僕はその言葉にぴくんと反応する。
確かに好物のジャンルだ。
「ああ、普通の人間にはない能力……。
例えば忍者なんかもそれに当てはまるんじゃないのかな?
そう言う特別な能力を持つ者たちは、その力を持つ血縁者だけで集まるだろうし、また異能者として世間から身を守るために隠れ住む必要があるだろう?」
「あれ? どうして身を隠す必要があるんでしょうか?
もし僕がそうだったらその力を見せつけて自分を売り込みますけど……」
「うん。だが力を売り込めるのは権力者――例えば戦国武将とかにだけだろう?
貧しい生活をしているお百姓に忍者の暗殺能力なんかまったく必要ないし、もし力を行使しても報酬は米一俵とかだろう?
とてもじゃないが一族全部を養える報酬じゃない」
「ああ、そう言えばそうですね」
「他にもある。
世間はそう言う異能の力にひれ伏すが、また同時に恐れてもいる。
自分たちにその力が降りかかることが怖いんだ。それがポイントなんだな」
「どう言う意味です?」
僕は助手席の悟郎さんを見た。
悟郎さんは少し考えているようだった。
「例えがかなり強引だがね。
……昔のヨーロッパの魔女狩りなんかそれに近い群集心理があったんじゃないのかな?」
話が忍者から魔女へと飛躍した。
それでも僕の好物のジャンルには違いないので、なんだかワクワクしてきた。
「……あれはキリスト教の教会が異端として処罰したんじゃないですか?
もし魔女がホントに実在したとしても死刑にされた数が多すぎるけど……。
だからえん罪だったと思いますけど」
僕は考え考え言う。
「うん、確かにそれもある。
だがね……、かなりの女性が被害にあったんだ。
魔女や魔法の実在云々は別としても、実害は甚大だ。
とてもじゃないが処罰された女性全員が魔法を使うところをキリスト教会に目撃された結果、処刑にされた訳じゃないはずだ。
魔女と言う特異な能力を持つ者を恐れた群衆心理が働いたはずなんだと俺は思う……。
自分らには絶対に持てない能力を持つ者は殺すべきだと……。
ネコの世界にトラやライオンはいらないんだ」
「どう言うことです?」
僕は尋ねた。悟郎さんが話を続ける。
「……教会も国王もするどい爪はあっても所詮はネコの親分のレベルだからね。
理解できる力を予想できる範囲で行使するから群衆に取って心の底からの恐怖はない。
群衆はそれらの言葉に従っていればいい……。
だが予想外の力を持つ異能者は別だ。
例えば生まれてくる赤ん坊をヘビやネズミに変えてしまう力があるのかもしれないと、いくらでも悪い方に想像されてしまう。
だから噂が噂を呼んで伝言ゲームの結果のように話に尾ひれがどんどん付いて広まってしまう……。
とかく噂ってのは悪い噂ほど広がる力も速度も強いものだからね……。
それでもし魔女が実在して、彼女らがその力を群衆に取って善意に使うつもりであっても、とてもじゃないが全員に恩恵を与えることはできない……。
……つまり魔女たちに釈明できる余地はないんだ。
だから……、トラやライオンの方もその圧倒的な能力を世間に悟らせぬように自ら身を隠す必然があった訳だ……。
ネコの世界に合わせてだ」
「どうしてです?
トラやライオンならネコたちなんか全くもって怖くないと思うんですけど……」
「うん、それが一対一なら万に一つも負けることはない。
……でも異能者、例えば忍者が暗殺とかで活躍できるのは世の中が平和であるときだけだろう?
いざ戦になったら主役は槍を持った足軽兵だ。
足軽はそのほとんどが出世を夢見る百姓たち……。
手柄を狙ってね。
戦闘のプロでは決してないけど数は恐ろしいほどいるからね。
殺しても殺しても後から後からどんどん湧いてくる。
いくら忍者が殺人術の達人でも体力や武器がいつまでも持つ訳じゃない。
だから、これは恐怖だろう?
だからいくら忍者といっても数百数千の大軍には手も足も出ない。
いっぺんに襲われたらお終いなんだ」
「ああ、そっか。
つまりその異能の力を持つ集団が隠れ住むのは群集心理に駆られた大衆たちから身を守る必然があったからですね。
……なるほど」
僕は頷いた。
「少数の特殊な能力を持つ者たちが自らの身を守るために隠れ住む。
これが隠れ里の必然の第二番目だ。
……ま、それらにはそれぞれが生まれた必然がある。
それらのある程度は、その時代の背景を調べればそれなりに説得力のある説明ができるものだと、俺は思うね」
霧は一向に晴れる気配がない。
そして路面の悪さもあいかわらずだった。
すでにラジオも入らなくなり受信が悪いのかカーナビもあさってを指し示していた。
車内に沈黙が訪れた。
「……第三の必然もあるんじゃないかしら?」
ふいに沙由理さんの声がした。
「どう言うことだい? 三番目ってのは?」
悟郎さんが後部座席を振り返る。
「……隠れ里に住むのは他にもいるんじゃないかしらってこと。
……例えば人間をはるかに超越した能力を持つ人物を頂点に抱き、その異能者の力の恩恵を預かっている普通の人々が、その異能者の存在を隠し守り続けるために集団で隠れ住む……。
第二の必然と近いけど少し違うのは、異能者がほんのひと握りってこと。
その場合……、異能者は
沙由理さんが発言した。
ミラー越しに僕は沙由理さんの顔を見る。
その顔は遠くを見つめているような表情だった。
「やれやれ……。そっちの方に話を持ってきたか」
「異能者は……、例えば天狗。
……ううん、呼び名はこの際どうでもいいの。
でもそう言う者たちを祭った里はいくらでもあるわ」
「おいおい、君にまで龍児が移ったのか?」
「そうかもしれない。
……私ははっきり言うけど今回の取材はどうでもよかったの。
悟郎くんには悪いけど所詮はPC雑誌の番外欄の息抜き記事だし、取材が断られればそれはそれで記事になると思ったのよ。
断られればなにかを隠していると思わせるニュアンスの文章で書けば、それはそれでエンターテイメントなんだと読者に伝えようと思ったの」
沙由理さんの顔は真剣だった。
「だけどね……。私、見ちゃったのよ。
ロバートが龍児くんを離した瞬間、あの木から黒いものが飛び立ったの。
ううん……、あれは飛ぶって言うよりも滑空するって言う方が正しいかもしれない。
とにかく人間みたいな大きなものが飛んだのよ」
「それで?」
悟郎さんはにやにやしていた。
もしかしたらこう言う話題をすれば僕が喜ぶんじゃなくて、さっきからずっと無言だった沙由理さんが発言することがわかっていて、それでこう言う方面に話題を振ったのかもしれない。
「ロバートがね。言ってたでしょ? テングーって……。
あれって最初、私が知らない名詞の英単語かと思ってたの。
でもね、あれはやっぱり天狗なのよ。
龍児くんを救ったのは天狗……。
神出鬼没で空を舞う天狗なの。
で、私たちが向かう双主の里には天狗のミイラがあるわ。
……あのブログの投稿だってそうでしょ?
あのあとエリーって人からは、いっさいの書き込みがない。
これも考えたら変な話よね?」
今までの無言を挽回するかのように沙由理さん饒舌になった。
「シンシアたちにしてもそうだわ……。
確かにロバートの妹さんの悲劇は同情する。でもここは日本でしょ?
あれだけ日本語が上手なんだもの、日本の治安がアメリカ並みではないことくらい絶対に知っているわ。
だから、あんなものを持っているなんて物騒すぎるじゃない?」
「あんなもの?」
悟郎さんの目がするどくなる。
「シンシアが持ってたものよ。
彼女あれはエア・ガンって言ってたけど本当かしら?」
「……たぶん本物なんだろうな。
ロバートが地面から拾っていたのは、おそらく空薬莢だろう」
「本物? でも音がしませんでしたよ」
僕はシンシアさんが空に向かって撃っていたのを思い出した。
「消音器付きなんだろう?
彼女らは軍人だといっていた。手に入れることは可能だろうな。
ただこの国で持ち歩いていて、ぶっ放すってのは尋常じゃないのは確かだ」
シンシアさんたちがキャンプしていて襲われた話は嘘じゃないとは思う。
ロバートさんの表情があまりにも痛々しかったのはとても演技とは考えられない。
でもそのことを思い出してしまってとっさに撃ってしまったのは確かに疑問がある。
僕の喉はまだ痛んでいる。
痛めつけられていたのはロバートさんではなく僕なのだ。
あの状況で銃を撃つには確かに不自然だ。
「こうは考えられないかしら?
シンシアはロバートが格闘しているのを見て撃ったんじゃなくて、なにかがいたから撃ったのよ」
「……つまり天狗?」
「ええ。……理由はわからないけど、銃を持ち歩いているのはそれが必要だから。
……それできっとシンシアたちが訪ねる友人がいるのは双主の里なんじゃないかしら?
もしあの人たちが、また道に迷ってこの先に向かったんだとしても、さっきからすれ違こともない。
あの人たちの目的地はきっとこの先なの……。
私、今、震えてるの。なんだかとんでもない世界に足を踏み入れちゃったのよ」
沈黙の間がしばらく開いた。
僕たちは互いに無言になり、次の言葉を探していた。
そして……口を開いたのは悟郎さんだった。
「じゃあ、やめるかい? 編集者は君だ。今ならまだ引き返せるぜ」
「いじわるね。きっとこれは武者震いなのよ。
……龍児くん、悪いけど車停めてくれる?」
僕は道の脇に車を停めた。
沙由理さんが先に降り、そして悟郎さんが続いて降りた。
女性にしては背の高い沙由理さん。
そして僕よりもずっと背が高い悟郎さん。二人は車の後部に向かった。
そして二人のシルエットが真っ白な霧の中でひとつに重なった。
二人は……キス。……僕はミラーをあさっての方向にねじ曲げた。
□ □
外はあいかわらず真っ白である。
横を見ると窓を伝う水滴は途切れることがなく実はここは白い湖の水底で、この車は潜水艦だったんじゃないかとバカな想像をしてしまう。
時刻は昼を回っていた。
二人はさっきのことで僕になんにも説明はしなかった。
だが僕も彼らになにかを言うほど野暮じゃないつもりだ。
……だけど大人の恋愛を見せつけられた気がしてなんだが気持ちは落ち付かなかった。
途中僕たちは車内で軽めの昼食を取った。
ホテルの人にお願いして特別に作ってもらったおにぎりだった。
「こんなにおにぎりがうまいと思ったことはないな」
「ホント。具はぜんぶ梅干しなのにね」
途中のアクシデントで三人とも死ぬ思いをしたからだろうか、おにぎりはホントにうまかった。
飲み物はポットに入れたコーヒーで組み合わせとしては悪食なんだろうけど、疲れた身体にはとても上等な食事に思えた。
「あれ? ミカンもあるんですね。
こんなのホテルの人、用意しれくれましたっけ?」
僕はミカンの皮をむいて食べてみた。
「……すっぱい」
「それは私が持って来たの。
スーパーで買ってきたんだけどやっぱりすっぱいわね」
「ビニール栽培とかだろう? 味は旬のものに比べたら気の毒さ」
「そうね。でもお金さえ払えばいつでも好きなものを食べられるって考えたら不思議よね?」
「どうしたんですか? いきなり」
僕は沙由理さんに尋ねた。
「ううん。なんでもないわ。
双主の里とかにもし生まれ育ってたら、こう言う季節はずれのものを食べる機会も少ないんだろうなあ、って思っただけなのよ」
「そう言えば、そうですね」
「まだあるけど、龍児くん食べる?」
「……じゃあ、ひとつだけ」
でも僕は今はそれ以上食べる気もしなくてポケットにしまった。
続けて食べるにはあまりにもすっぱかったからだ。
そのあと僕たちは再び走り始めた。
道幅が狭くなり、道に沿って生えている木々のシルエットが見えて両脇にボウッと浮かび、消える。
やがて右手には木々が見えなくなり真っ白な深い霧に覆われた。
きっと下は崖なんだろうと話し合っていたのだが道が右にそれたことで湖畔を走っていることがわかった。
「たぶん、これが大亀池なんだろうな」
悟郎さんが地図を見ながら言った。
「意外に大きいのね。池って言うからもっと小さいと思った」
霧に包まれているのでその大きさはわからないが、悟郎さんの話ではほぼ円形のその池の直径は一キロもあるらしい。
「うん。それにだいぶ深そうだね。
「リクスイガク?」
僕は耳慣れない言葉に思わず尋ねた。
「うん。陸の上にある湖や池、沼なんかの学問だ。
池と湖の違いってのは、意外といい加減でね。深さが五メートル以上あれば学問上は湖なんだ」
「へー。たったそれだけの違いなんですか?」
「じゃあ広さは関係ないの?
もしかしたら深いけど小さい池もあるんじゃない?」
「うん。広さは関係ないんじゃないかな?
俺は専門家じゃないから耳学問なんだけどね。あくまで深さが基準らしいんだ」
「じゃあホントは大亀湖って言うんですか?」
「違うだろう? あくまで学問上の話なんじゃないかな?
古くからの呼び名の方が一般的には優先されているんだろう」
僕は学問上の大亀湖を見たいと思ったが、道の視界ははっきり言って最悪で前方からまったく目を離すことができない。
「ねえあれが例の亀背島かしら?
ほらあそこにぼんやり見えるじゃない」
「おお、見えた。あれか……うん。確かに形はなんとなく亀の背中に見えるね」
「あれが移動するのね。本当だったらすごい話だわ」
「俺は錯覚だと思うね。
ここらはとにかく霧が多いんだから目測なんかを誤った結果じゃないかと思っているよ」
二人には双主の一方の主である大亀が見えたらしい。
そのときだった。ガガガ……ッ、っと嫌な音がしたのだ。
僕は急ブレーキを踏む。車が横揺れに揺れた。なにがが車に引っかかった手応えがしたのだ。
「きゃ! 龍児くん、大丈夫?」
「すみません。なにか引っかけたようです」
「枝かなにかかな? ……龍児、降りてみよう」
「はい」
僕たちは車外に降りた。
ドアを開けると濃密な霧が流れ込んできた。
外はかなり気温が低い。
改めて僕はここが普通とは違う白い闇の世界なのだと実感した。
視界がまったく効かないこの土地は、僕たちにとって異世界と同じだ。
例えば、ほんの目と鼻の先に殺意を持った何者かが息を潜めていても、僕たちは襲われるその瞬間までその姿を目撃することができない。
いや、もしかしたら、死の瞬間まで相手の姿がわからないのかも知れないのだ。
僕はその恐怖に、ぞくりとした。
僕はかがんで車体の下を見た。
すると太い木の枝がバンパーに引っかかり前輪の後ろまで伸びているのが見えた。
大きな傷がバンパーからヘッドライトまでついていたのだ。
新車は無惨にも傷物になってしまった。
「ごめんなさい。見えなかったんです」
僕は悟郎さんに謝った。まったく見えなかったのだ。
「なにがだい?」
悟郎さんが枝を引っぱって車体からはずしながら尋ねた。
そしてその太い枝を地面に投げる。
枝はすぐに深い霧の中に姿を消した。そして地面に落ちて、ごとんと硬い音がした。
「傷がついちゃいました。ごめんなさい」
「これは龍児の責任じゃない。
この車の運転を依頼したのは俺だ。これは不慮の事故だ。
予測できないことの責任まで俺は甥っ子に転嫁する叔父じゃないつもりだ」
悟郎さんは僕の肩をぽんと叩いた。
「不幸中の幸いね。これ、本当なら運転席に直撃したのかも……」
真っ白い霧の中で沙由理さんの声だけが聞こえた。
「なんだって? どう言う意味だ?」
僕と悟郎さんが声の方角に駆けよった。
すると真っ白な霧の中から沙由理さんのシルエットが浮かび上がる。
沙由理さんは悟郎さんがさっき地面に捨てた太い枝を抱えていた。
「この枝。すでに折れてたのよ。見て……」
深い霧なのでまったく見えなかった大木が今は見えた。
沙由理さんはそれを指さし、僕は絶句した。
その木からは僕が引っかけた枝と同じ太さの枝の傷跡があり、悟郎さんが枝を持ち寄ると傷口は見事に一致した。
「俺たちの先に走っていた誰かが、先にこの枝にぶち当たったんだ……」
悟郎さんがなにかに思い当たった顔で呟いた。
「……シンシア!」
沙由理さんが叫んだ。
地面を観察すると激しくぶれた轍がわかった。
道はぬかるんでいてすっかり泥になっていた。
太く刻まれた轍はソリのように道をそれ、茂みを破壊し道から数メートル下には……、大木に突き刺さった『Y』ナンバーの4WDが見えたのだ……。
「……いないな」
急斜面をロープで降りた悟郎さんが言った。
大木に突き刺さった車の先は真っ逆さまの崖になっていたと登ってきた悟郎さんが報告してくれた。
「車の中には誰もいない。
ドアは両側とも開いていたのだから二人は脱出したのは間違いない。
荷物も空だから、必要な物は全部持って行ったのも間違いないだろう」
「怪我とかしたんじゃない? 大丈夫かしら?」
心配顔で沙由理さんが悟郎さんに尋ねる。
「血痕はなかったな。
運転してたのはロバートだろう?
あいつだったら咄嗟の判断で最低限のリスクを選んだ結果、あそこにぶつけたはずだ……。たぶん大丈夫だろう」
「どうしてわかるの?」
「さっきの河原での運転を君も見ていただろう?
車を道具として使っていると言ったのは君だぜ。やつの運転は君も見ただろう?」
「……」
「運転席と助手席のエアバッグが両方とも開いていた。
そしてあの二人はシートベルトをしていた。
エアバッグとシートベルトが作動すれば、車体が大破してもそうそう大怪我をすることはない」
僕は僕たちから去るときに二人がシートベルトをしている姿を思い出した。
「……あの車はマニュアル車だ。
アメリカって国は、日本にオートマチック車が普及する前にほとんどの車がオートマだった国だ。
とにかく広くでかい国だからね、山道に弱いオートマの弱点なんか問題にならない国だ。
とにかく真っ平らな国土を何日もまっすぐ走る国なんだ。
そんな国から来た人間がわざわざマニュアルに乗ってる。
運転に相当の自信を持っていると考えるのもおかしくないだろう?」
「……じゃあ、二人は無事なのかしら?」
沙由理さんの顔にほっとした表情が浮かぶ。
「脱出した、って考えるのが普通だろう?
それにあの二人は軍人なんだ。それなりの訓練は受けているはずだ」
「……シンシアも軍人なの?」
沙由理さんは信じられない、って顔だった。
ロバートさんはともかくシンシアさんも軍人だってってのが信じられないって表情だ。
だが僕もそう思っていた。
「おいおい。龍児までそうなのか?
女の軍人ってのは向こうでは珍しくないぜ。
それも後方勤務じゃなくて、バリバリの前線部隊にいっぱいいるんだ。シンシアの銃の扱い見ただろう?」
悟郎さんは当然の知識だといわんばかりだった。
僕と沙由理さんは互いに顔を見合わせた。
その後、僕たちは声を出してシンシアさんたちを呼んでみた。だが返ってくるのはこだまだけだった。
霧は一向に晴れる気配がない。
運転は僕に代わって悟郎さんがしていた。
「いいの? 免停中なんでしょ?」
沙由理さんが後部座席から尋ねる。
「こんなとこに警察なんて来るか。それにこんなに悪路じゃ龍児には無理だ」
それは本当だった。
道が急に狭くなって一度では曲がりきれないカーブがいくつもあった。
僕はなんども切り返したが元々運転技術が未熟な上に慣れてない車なので車両感覚がつかめないのだ。
それで悟郎さんが運転の交代を提案したのであった。
悟郎さんはスポーツ万能であるだけじゃなくて大学時代は自動車部に在籍していただけあって、僕の運転とはまったく別物だった。
車は水を得た魚のようにいきなりきびきびと走り始めた。
視界の悪さはまったく感じさせない完璧な運転だった。
ハンドルの切り方やアクセル、ブレーキの使い方も適切で僕は改めて叔父のその操作に見とれていた。
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