第7話 響との再会。そしてその人外の能力。

 それからも僕たちは走り続けた。

 道はあいかわらず悪路で車内はとても揺れる。

 そして窓の外は単調な白い霧。

 

 

 

 ……僕はもういくつもの坂を登り、カーブを曲がったのかも憶えていない。

 景色はさっきからずっと同じなのだ。

 

 

 

 ……だから、もしかしたら僕たちは何者かに化かされていて、同じ場所をただグルグル回っているだけなんじゃないかとも考えてみる。

 

 

 

 右を見ると運転している悟郎さんは、さっきからずっと少しでもよく見えるようにとフロントガラスに顔をくっつけんばかりに近寄せている。

 僕はこんな時間が永遠に続くんじゃないかと思い始めていた。

 

 

 

 そして……、そんなときだった。

 

 

 

「ねえ! あれ人じゃない? そうよ、ヒッチハイクよ!」




 突然、沙由理さんが叫んだ。

 

 

 

 霧の中でボウッと浮かぶ黒い影が見えた。

 確かに人だった。

 小柄な人間が腕を伸ばして指を突き立てている。

 

 

 

 悟郎さんもそれに気がついたようであわててブレーキを踏む。

 車体は泥濘む路面で蛇行を繰り返しながらも目指す位置にぴたりと停まった。

 悟郎さんのドライブテクニックは、さすがだ。

 

 

 

 そして車が完全停止するのと同時だった。

 ゆらりと揺れたかと思うと人の形をした影はこちらに歩き始めた。

 徐々に霧の中からその姿が明らかになる。

 

 

 

「あ……!」

 僕は思わず声を出していた。

 それは僕が知っている人物によく似ていた。だが……、しかし……。

 

 

 

「あの子じゃない? 

 ほら、ホテルのロビーにいた子よ。

 ほら、龍児くんがずっと熱いまなざしで見ていた子じゃない?」

 

 

 

 沙由理さんが後部座席から身を乗り出して僕の肩を叩く。

 

 

 

ひびき……?」




 今、その姿は完全に霧から抜け出していた。

 それは神通かみどおり響だった。

 

 

 

「なんで、こんな山の中で……?」




 僕は車のドアを開けた。

 そして飛び出す。

 着地するとぬかるんだ地面に足をとられて一瞬転びそうになる。

 

 

 

「響? ……響だよね?」




「良かった。……元気そうね」




 目の前ににっこりする笑顔があった。

 それは間違いなく響だった。

 髪をアップにし、シャツとジーンズと言うラフな姿は制服姿よりもちょっと大人っぽく見えた。

 

 

 

「龍児、まさか知っている子なのか?」




 悟郎さんの声がする。

 

 

 

「はい。高校の後輩なんです……」




 ……僕はそこまで言うと言葉につまづいた。 

 考えてみたら僕は響のことをくわしく知らない。

 

 

 

 知っているのは、三崎丘文庫に鍵を破壊して侵入したこと、四階にある校内資料部の部室の窓から突然姿を消したこと、中学、高校と転校ばかりの暮らしをしていたらしいことだけである。

 

 

 

 ……それらの話をそのまま悟郎さんたちに伝えるには僕はちょっと抵抗があった。

 

 

 

「……あなた、そんな格好じゃ風邪引くわよ。

 いったい、どうしたの? こんな山の中で?」

 

 

 

 車から沙由理さんが降りてきた。

 その手にはバスタオルがあった。

 見ると響は確かに全身びしょ濡れだった。そうとう長い時間、霧の中にいたに違いない。

 

 

 

 ……いったいこんなところでなにをしていたんだろう? 

 お礼を言って髪や顔、衣服をタオルでぬぐっている響を僕はぼんやり見ていた。

 

 

 

「双主の里に向かうんでしょ。

 もしよかったら私を乗せてくれない?」

 

 

 

 響の形よい小さな唇がそう告げた。

 透明感のあるよく通る声だった。

 

 

 

「……かまわないけど」




 断る理由もないのに沙由理さんが躊躇した。

 僕にはその訳がわかった。

 

 

 

 それは彼女が山賊のように僕らを襲う可能性があるとか言ったそんな非現実的な事態のことじゃなくて、このような人がいるはずのない山奥である場所にたったひとりで出現したという理由からに違いない。

 

 

 

 しかし……例え道に迷ったとしても、今朝の高原ホテルからそうとうの距離である。

 いったいどんな理由でこんな霧深い山奥にいたんだろう……? 

 

 

 

 ……わからない。

 僕には初対面のときからの響の謎が、さらに蓄積されたのを理解した。

 

 

 

「お嬢さん、こんな車でよかったら乗ってきなよ」




 悟郎さんは快くオッケーしたので響が車に乗り込んできた。

 てっきり二列目の沙由理さんの横に座るのかと思ったら三列目のシートにひとりで腰かけた。

 

 

 

 座った瞬間、僕と目が合った。

 するとウインクしてきたので僕はあわてて視線をそらした。

 心臓がドクンと跳ねた気がした。

 

 

 

 やがて車は走り出す。

 

 

 

「君は誰かとはぐれたのかい? 

 それとも車が故障したとか?」

 

 

 

 悟郎さんがミラー越しに響に尋ねた。

 

 

 

「ううん……。私ひとり。

 それに車じゃないわ。歩いてきたから」

 

 

 

「歩いてだってっ!? どうやって?」




 悟郎さんがあまりの驚きで運転中にも関わらず後ろを振り返って尋ねた。

 

 

 

「車より歩いた方が速いこともあるの……。

 歩きだと山をまっすぐ直線に登って来ればいいから。

 車だと急カーブの九十九折りの道ばかりで、距離ばっかり長いでしょ?」

 

 

 

 ……ホントなのだろうか? 

 響はまるで当たり前のことのように言う。

 

 

 

 僕は少し考えてみる。

 ……百歩譲ったとして仮定した場合、響の言葉に正しい可能性は確かにある。

 

 

 

 僕たちはいくら車に乗っているとは言え、深い霧の中の悪路の山道でスピードはまったく出せない。

 それに数え切れないほどの九十九折りのカーブを曲がって来たのだ。 

 それよりはまっすぐ直線に頂上に目指した方が明らかに最短距離である。

 

 

 

 だから場合によっては徒歩の方が速いこともあるだろう。 

 ……だがここは人里を遠く離れた山奥なのだ。 

 郊外にある自然公園の丘のように手入れされた遊歩道がある訳ではない。

 

 

 

 そして道は僕たちが車で通ったこの山道一本しかないのである。

 つまり響の言葉を信じるならば、響は道なき道を獣のように走破して来たことになる。

 

 

 

 悟郎さんは信じられない表情で絶句していた。

 沙由理さんはそんな悟郎さんの耳元で「冗談よ、冗談。悟郎くん、からかわれてるのよ」とささやいている。

 

 

 

 だが……僕には響が言うことがやはりホントのように思える。

 

 

 

 三崎丘文庫の隠しカメラに映った異常な速度の映像や、体重百キロ近い松田を片手で軽々とぶん投げたこと。

 そして部室の四階の窓から一瞬で姿を消したことをこの目で見ているからである。

 

 

 

 それだけのことができるなら、やっぱり徒歩でここまで走破できるんじゃないか……?

 

 

 

「ねえ、あなた名前はなんて言うの? 

 私は片瀬かたせ沙由理さゆりって言うの。雑誌の編集者をしているわ。

 

 で、運転してるのが佐々木ささき悟郎ごろうっていってフリーのルポライター。 

 そして、あなたの先輩になるこの津久見つくみ龍児りゅうじくんは、悟郎くんの甥っ子でオカルト信者なの」

 

 

 

 オカルト信者はないだろう……?

 決して間違いじゃないけど、それじゃ体裁が悪いですよ。

 

 

 

 僕は沙由理さんに抗議の顔を見せたのだが、まったく無視された。

 

 

 

「私は……、神通響です」




 にっこりと笑って響は答える。

 美しい造りの顔が途端に柔和な愛らしい表情になる。

 

 

 

 僕は響を観察した。

 だが響はなにか考えごとがあるのか、やがてしんみりとした顔になり真っ白に煙った霧の景色をながめ始めた。

 

 

 

 そしてしばらくすると響はなにかを拾い上げた。

 それは警察官が渡したチラシだった。

 昨日インターチェンジを降りた交差点で僕たちが受け取ったものだ。

 

 

 響はそれを食い入るようにじっと見つめている。

 そして僕はその響をじっと見つめている。

 

 

 

「あら、なーに? 龍児くん? 

 彼女のことじっと見ちゃって……」

 

 

 

「確かにかわいい子だな。うん、わかるわかる。

 ……ちょっと変わってるがね」

 

 

 台詞の最後の部分は小声にして悟郎さんも言う。

 

 

 

「……ち、違うよ。もう勝手に」




 あわてて否定したが二人の目は笑っている。

 いや……それに二人が言ったことは、間違いではないかも知れない。

 

 

 

「ねえねえ、響ちゃん。

 私たちは取材が目的なんだけど、あなたは双主の里になんの目的があるの?」

 

 

 

 後ろを振り返りながら沙由理さんが響に尋ねた。

 響がチラシから視線を上げるのが見える。

 

 

 

「知りたいの?」




「ええ、とっても。

 聞けば双主の里は廃村だって言うし、あなたみたいな若い女の子がぜひ行きたいって言うのが気になるわ」

 

 

 

「……若い子は先週も来たわ」




 僕はびっくりした。

 いや、僕だけではなかった。悟郎さんも沙由理さんも言葉を失っている。

 

 

 

 ……いや、待てよ。

 響は『異形たちの森』のサイトを知っていた。

 だからエリーさんとリーフさんが双主の里を訪ねたのは知っている可能性はある。

 

 

 

 だが……しかし……。

 

 

 

「え? ……響ちゃん、知ってるの? 

 もしかしてその女の子たちの知り合い?」

 

 

 

 沙由理さんが尋ねた。

 

 

 

「違うわ。実際に会ったことないもの」




「……そう」




「私が行くのはきっとあなたたちと同じ。

 天狗と亀に会いに行くんでしょ?」

 

 

 

 響が視線を沙由理さんから僕に移した。

 

 

 

「うん……。確かにそうなんだけど」




 僕は返事をにごした。

 響の目的がわからない以上、余計なことはいわない方がいいと思ったからである。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

 悟郎さんが、うわっ、と声をあげて急ブレーキを踏む。

 車は前のめりになり僕たちは身体を前方に持って行かれそうになってシートベルトに羽交い締めにされる。

 

 

 

「ちょっと、いきなりなによ!」




 沙由理さんが悟郎さんに抗議の声をあげる。

 

 

 

「道がないんだ……」




 見ると霧の中にボウッと浮かぶ大きなフェンスがあった。

 それは僕たちの行く手をふさぐように立ちはだかっていた。

 

 

 

 僕たちは車を降りた。

 

 

 

久山くやま興業こうぎょう株式会社か……。どこかで聞いた名前だな。これ開かないのかな?」




 悟郎さんが掲げられた看板に目をやり、そしてフェンスの扉に手を触れようとした。

 

 

 

「やめた方がいいわ。

 そのフェンスには警報機が付いていて、すぐに警備員がやってくるから」

 

 

 

 響のその言葉に悟郎さんは伸ばした手を止める。

 

 

 

「なんだって?」




「響ちゃん。あなたどうしてそんなこと知ってるの? 

 もしかして、あなたはこの会社の人?」

 

 

 

 沙由理さんが響に尋ねた。

 

 

 

「違うわ。でも昨日確かめたから」




「響ちゃん……。昨日も来てたの?」




「ええ、来たわ。

 中にはたちがいる。何匹かしとめたけど、まだたくさんいるみたい」

 

 

 

「……しとめた?」




 僕はその言葉が引っかかる。

 悟郎さんも沙由理さんも訳がわからず口をあんぐりと開けている。

 

 

 

 ……いったいどう言う意味なんだろう?

 

 

 

「……異形の者? 

 それはなんだい? 人なのか?」




 咳払いをひとつして悟郎さんが尋ねた。

 

 

 

「人じゃないわ。獣なんだけど初めて見る生き物だった」




 悟郎さんと沙由理さんが顔を見合わせた。

 

 

 

 僕はそれが番犬――シェパードのようなものかな? と考えた。

 怖くはあるけど警備員が持つ綱につながれた存在だと思ったのだ。 

 だとしても『しとめた』と言うのは穏やかな表現じゃない。

 

 

 

 僕はフェンスの向こうを凝視してみたが濃い霧のために十メートル以上先は、まったくわからない。

 

 

 

「神通くんと言ったね。

 ちょっと訊きたいことがあるんだけどいいかな?」




 悟郎さんが響の前に進んだ。

 悟郎さんと響の身長差はかなりあった。

 響の頭は悟郎さんの胸元の位置にある。

 

 

 

「ええ、どうぞ」




 響がそう言って頷くのが見える。

 

 

 

「君はいったい何者なんだ? 

 ……君は俺の車にヒッチハイクした。ま、それは別にいいんだけど、君は昨日も来たと言った。 

 昨日も今日も簡単にここまで来られるんなら別に俺の車に乗る必要はないんじゃないかな?」

 

 

 

 悟郎さんが疑問を口にした。

 だがそれは、僕も思っていたことだ。

 そしてそれは沙由理さんも同じだったようだ。

 

 

 

「それにあなたはやたら詳しいじゃない。警報機とか……。

 それになんだか変な者がいるんでしょ? 

 そんなことまで知ってるなんて変だわ?」

 

 

 

「そう……? 

 ああ、そっか。そう言えばそうね」

 

 

 

 響は少しだけ笑った。

 

 

 

「私は……『風の民』。

 だからタツノコたちがなんのためにここに来たのは知ってるのよ」

 

 

 

――突然強い風が吹いた。




 僕たちを包んでいた霧のかたまりが、ちぎれるように飛び去った。

 響はシャツの裾を風でひらひらさせて立っている。

 

 

 

「君が……、『風の民』だって……?」




 僕は叫ぶように尋ねていた。

 視界の先で響が頷くのが見えた。

 

 

 

「……『風の民』? と、言うことは龍児とメールのやり取りをしていた、って人物だな。

 ……って言うか、女の子だったのか?」

 

 

 

「……確か『異形たちの森』に龍児くんの後に書き込みをした人ね。

 そう言えば『風の民』はここに来るって書いていたわね?」

 

 

 

 悟郎さんと沙由理さんが互いの記憶を確かめるように言う。

 確かに、……だとしたら、響が僕の姿を見れば僕たちが双主の里に向かっていることを知っていてもおかしくはない。 

 響はすでに僕がタツノコだと知っているのだから。

 

 

 

 ……でも、でも、疑問は残る。

 目的地は同じなのだから確かに響が僕たちと同行するのはわかる。

 だけど響は昨日もここに来ていて、しかも異形の者だとか言う変な生き物をしとめたと言う。

 

 

 

 ……響の目的はなに? 

 僕の中で響に対する安心できない気持ちがわきあがっていた。

 

 

 

 そのときだった。 

 ふいに響が右手を一閃させた。



 

 きらりと反射する何かがとんでもない高速で僕の頭上を越えて行った。

 そして間が開いて、遠くでバチッと音がした。

 

 

 

 なんだ……? と思った僕は背後を振り返った。

 そして、ぞっとする。

 

 

 

「ど、どう言うこと? 

 まさかあれ、あなたがやったの?」

 

 

 

 沙由理さんが響に質問する。

 見ればフェンスのすぐ側に送電用の電柱があり、その高い部分から四角い機械がケーブルにぶら下がってゆらゆらと揺れていた。

 

 

 

「監視カメラか……」




 悟郎さんが呟く。

 

 

 

「こっちに向きを変えようとしてたから、ちょっと休んでもらったの」




 響がとんでもないことを、さらりと言う。

 

 

 

 それは確かに監視用のカメラだった。

 カメラは固定器具を破壊されてケーブルで宙ぶらりんになり、あさっての方角へレンズを向けていた。

 

 

 

「正直に言うわ。

 ……ここから先はかなり危険なの。

 だから、あなたたちが心配だから私は同行しようと思ったの。今は信じて」

 

 

 

 僕は思わず響を見つめていた。

 

 

 

「危険? 危険って、さっき響が言った異形たちのこと?」




 響はこくんと頷いた。

 それを見て悟郎さんと沙由理さんが互いに顔を見合わせる。

 

 

 

「正直に言う、って言われても、危険なんだ、と言われても……、俺はなんとも返答できないな」




「ええ、響ちゃんには悪いけど、私も悟郎くんの意見に賛成だわ」




「でも、悟郎さんも沙由理さんも響があのカメラを壊したのを見ましたよね?」




 でも……、二人の言葉に無理はないと僕も思う。

 僕だって高校で響が見せた行動を知らなければ、見た目はかわいいが頭がちょっとイカレている女の子だと、同情する視線で見つめてしまっていたかも知れない。

 

 

  

 僕は改めて響を見た。

 だが響はまるで二人の疑問など興味がないように、真っ白に煙ったフェンスの向こうを睨んでいた。

 

 

 

 そして……また右手を一閃させた。

 バチッと再び音がすると、先ほどとは別の電柱から黒いかたまりが一瞬揺れたあとケーブルが切れてポトリと落下した。

 そして監視カメラが地上に激突して破壊されたグシャとした音が聞こえてきた。

 

 

 

「信じる、信じないは後で判断してもらっても私は構わない。

 でもカメラがぜんぶ壊れたことでまもなく警備員が駆けつける。

 

 それに……この先でエリーさんやリーフさんたちが行方不明になったのは本当の話。

 それにね……私の叔父も同じく行方不明なの。

 ……ううん。違う。叔父の方はすでに死んだわ」

 

 

 

 響は俯いた。

 

 

 

「死んだ? 死んだって? 

 響の叔父さんって、確か民族学科の神通かみどおり霧島きりしま准教授だよね?」

 

 

 

「うん」




 僕は口を開けたまま言葉が出なかった。 

 神通准教授とはまったく面識はない。

 

 だけど僕が通う三崎丘高校と同じ敷地にある附属大学の先生と言う立場から、やはり他人事とは思えなかった。

 ましてこの響がいっしょに暮らしていた身内なのだ。

 僕はなんて言っていいのかわからなかった。

 

 

 

「……! 神通霧島准教授だってっ!? 

 もしかして民俗学の神通先生のことか?」

 

 

 

 突然、悟郎さんが叫んだ。

 響が頷くのが見える。

 

 

 

「どう言うこと?」




 沙由理さんが悟郎さんに尋ねる。

 

 

 

「神通先生は俺が大学に通っていたとき臨時講師として来ていたんだ。

 他の教授たちと全然違った。

 

 フィールドに出ることなんかまったくなくて研究室に籠もりっぱなしの頭でっかちの他の講師なんかと全然違って、実際に自分の足で日本中を駆けめぐって現地を綿密に調べていた尊敬できる先生だった。

 

 ……俺がアウトドア派になったのも双主の里のことが載っている古本を探し回ったのもぜんぶ神通先生の影響なんだ。

 ……風の噂でどっかの大学の准教授になったと聞いていたが……。あの先生が亡くなったって?」

 

 

 

 僕は意外な事実に驚いた。 

 そして悟郎さんは懐かしさと悔しさを混ぜた複雑な表情になり、両手で顔を覆った。

 よほど悟郎さんに影響を与えた先生だったんだろう。それは悲しみの深さでわかった。

 

 

 

「だとすると……。響ちゃんは悟郎くんの恩師の姪っ子になるってことよね?」




 沙由理さんが念を押すように確認する。

 

 

 

「ああ、そう言うことになるな。

 そうか……。先生は双主の里を調べていたのか。

 ……でも神通先生はどうして死んだんだ? まさか転落事故か?」

 

 

 

「それはあり得ないわ。『風の民』が転落事故を起こすなんて絶対にあり得ない」




「『風の民』? 

 神通先生も龍児のサイトに書き込みをしていたのか?」

 

 

 

 悟郎さんが尋ねると響は首を横に振る。

 

 

 

「ううん。タツノコの『異形たちの森』に書き込みをしていたのは私だけ。

『風の民』と言うのは私たちのを表す呼び名のこと」



「ど、どう言うこと?」




 僕は訳がわからなくなり尋ねてみた。

 

 

 

「それは後で説明するわ。

 もうまもなく警備員がやってくる。時間があまりないの」

 

 

 

「わかった。俺は響くんを信じる」




 悟郎さんが強く言う。

 

 

 

 世の中すべてのことにまずは疑いの目で見るような悟郎さんだが響が神通先生の姪と言うことはかなりの説得力があったらしい。

 そして沙由理さんも深く頷いた。

 こうして僕たちは響と取材をともにすることになったのである。

 

 


 □ □

 

 


 僕たちは響の発案で車を茂みに隠した。

 背の高い草とそして深い霧が隠してくれた。

 

 

 

 だけど本気で捜索されたら、たちまち見つかってしまうに違いない。

 あくまで気休めである。

 

 

 

 そして草深い山へと足を踏み入れた。

 正面が閉ざされているのなら迂回して里に入ろうと思ったのだ。

 

 

 

 僕たちは絶えずフェンスが見える位置で移動している。

 他に目印が一切ない山の中であるからだ。

 もしそれを見失ったらこの深い霧の中で僕たちは、たちどころに遭難してしまうだろうことは簡単に予想できた。

 

 

 

「でも、大丈夫なんですか? 

 言いにくいんですけど、これって間違いなく不法侵入ですよね?」

 

 

 

 僕は心配になって尋ねた。

 すると悟郎さんが振り返った。 

 

 

 

「龍児はこの業界を知らないからな。

 ……説明すると雑誌を含めた、いわゆるマスコミってのは取材のすべてが事前に許可をもらっている訳じゃないんだ」

 

 

 

「そうなんですか?」




「ええ、もしそうならスクープってのはあり得ないでしょ? 

 だからフェンスが閉じてあった、それで迂回して入り口を探したら迷い込んだって説明が成り立つの」

 

 

 

 悟郎さんだけじゃなく同じ業界人である沙由理さんからも説明があった。

 

 

 

「なるほど……そう言うものですか」




 なかなか太い神経じゃなくちゃやれない仕事だと思った。

 振り返れば斜面の下の道はもう見えなかった。

 密度濃い茂みと真っ白な濃霧ですっかり覆われてしまっていた。

 

 

  

「急ぎましょ、この先にシンシアたちがいるわ」




 先頭を歩く響は振り返って言う。 

 

 

 

 響の足はおそろしく速く、傾斜も崖もまるで平地のように走破する。

 ときには背丈くらいの障害物など軽くジャンプしてあっさり飛び越えてしまうのだ。 

 だからこうやってときおり立ち止まり僕たちを待っているのだ。

 

 

 

「あなた、シンシアたちを知ってるの?」




 沙由理さんが驚いて尋ねる。

 

 

 

「話したことはないわ。

 でもシンシアも『異形たちの森』の住民だから」

 

 

 

「どう言うこと?」




 僕は瞬時にひらめいた。

 思わず叫んでしまう。

 

 

 

「あ、そうか!」




「どうしたの? 龍児くん。驚いたわ」




 僕の突然の声に沙由理さんがびっくりしているのが見える。

 

 

 

「わかったんです。シンシアさんて、あのシンシアのことだったのか?」




「どう言うことだい?」




 悟郎さんが立ち止まって振り返る。

 

 

 

「ほら『異形たちの森』の常連ですよ。

 僕も響もそう。エリーさんやリーフさんもそう、そしてシンシアもそうなんです」

 

 

 

「……そう言えばシンシアって言うハンドルネームあったわね」




 沙由理さんがぽんと手のひらを打ちながら言う。

 

 

「ええ。

 ……驚いたなあ。女性だと思っていましたけど完全に日本人だと思ってました」

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

「気をつけて……。声が大きいと獣が来るわ」




 響のよく通る低い声だった。 

 最後尾にいる僕は驚いて響を見る。

 響は沙由理さん、悟郎さんの前で僕たちの先頭に立っているのに、その声はまるで耳元にささやかれたようだったのだ。

 

 

 

「……獣って君が言ってたヤツかい?」




 悟郎さんが尋ねると響は頷く。

 

 

 

「ええ、かなり耳がいいの。

 たぶん私よりは聞こえないと思うけど」

 

 

 

「……」




「シンシアたち警戒してるわ。

 いきなり行くとあの人たち銃を持ってるから私が先に行く。

 道はこのまま真っ直ぐでいいから、ゆっくりと慎重に来て」

 

 

 

 そう言って響は自分の背丈よりもずっと高い位置にある枝にふわりと飛び乗ると、姿をすっと消してしまった。 残された僕たちは、いったいなにが起こったのかわからずに互いに顔を見合わせる。

 

 

 

「……異形の者って実はあの子自身のことじゃないのか?」




 悟郎さんがそう言った。

 だが響には失礼だけど僕もそう思っていた。

 

 

 

 僕たちの周りには、見上げるほどの巨木たちが無言で立ちつくしている。

 そしてその梢は真っ白な霧に包まれている。

 耳に聞こえてくるのはかすかな鳥の鳴き声だけだった。

 

 

 

「……確か響くんはこのまま真っ直ぐに来い、って言ってたよな?」




 悟郎さんがこわごわと右手で真っ白な闇に閉ざされた前方を指さす。

 僕と沙由理さんは無言で頷いた。

 響がたったひとり欠けただけで僕たちは無力で臆病になってしまっていた。

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