第5話 発見したとき死体に思えた2人との出会いと天狗の一撃の件。

「廃村?」




 チェックアウトのときである。

 悟郎さんが支払いがてら双主の里のことを尋ねたのだ。

 僕と沙由理さんは顔を見合わせた。


 


「ええ、そんなに昔ではないんですけど。リゾート開発とかでなんだったかな……? 

 名前は忘れちゃったんですけど東京の不動産会社が里ごと買い上げたんです」


 


 受け取った現金をレジに入れながらホテルのロゴが入ったエプロンをしたアルバイト風の若い男性が答えた。


 


「じゃあ今は誰もいないんですか?」




「うーん。住んでる人はいないと思いますよ……。

 ただその会社の社有地になってますから管理している社員くらいはいると思いますけど……」


 


 悟郎さんは苦り切った顔で僕たちを見た。


 


「予想外の展開ね。どうする悟郎くん?」




「……行くだけ行ってみよう。頼めば撮影させてくれる可能性もあるだろう」




 沙由理さんと僕は荷物を持って外に向かった。

 するといつの間に現れたのか……、若い女性がロビーのソファにひとり座ってこっちを見ていた。


 


 今は夏とは言え、ここは涼しい高原だ。

 僕はシャツ一枚にジーンズのその格好が軽装過ぎて気になった。

 ひょっとしてホテルのスタッフかとも考えたが、肩から降ろしたバッグを膝に抱えているところを見ると客としか思えない。


 


 そしてその顔は距離が遠くてよくわからない。

 見た目も普通で派手な化粧姿ではないことから、もしかしたら僕と同じ高校生くらいかもしれない。


 


「どうしたの? 知ってる人?」




 僕の視線の先を追って沙由理さんが話しかけてきた。


 


「まさか、違いますよ」




 そうは言ったものの僕はその姿にどことなく見覚えがあるように感じていた。


 


 だからといって「お嬢さん、僕とどこかで会いませんでした?」などと軽薄なことをいって声をかけるのは僕の性格からして絶対無理だ。


 


「その割には……、ちょっと熱心じゃない? 

 もしかして龍児くんはああ言う女の子が好み? 

 避暑地のバカンスで運命の出会いってことかしら?」


 


 沙由理さんが僕の顔をのぞき込む。


 


「ち、違いますよ。な、なに言ってんですか! からかわないでください」




 僕は強く否定した。

 だが顔が赤くなっているのは自分でもわかった。


 


「……ふーん。ま、いいわ。私たちは先に行きましょ」




 沙由理さんがにやにや笑いのまま僕の肩を叩いて歩き出す。

 振り返ると悟郎さんはホテルの人と熱心に話し込んでいた。

 どうやら更に詳しい情報を尋ね始めている様子だった。

 

 

 

「この先はカーブが多い山道だ。ぶつけないようにゆっくり走らせてくれよ」




 エンジンをかけて待っていると遅れてきた悟郎さんが助手席に乗り込みながら言った。

 真夏だと言うのにやはり高原の朝の気温はかなり低く、悟郎さんの吐く息は真っ白だった。

 

 

 

「ケチね。のんびり走ったら日が暮れちゃうじゃない」




 沙由理さんが皮肉を言うと悟郎さんは笑いながら耳をふさいだ。

 この車は悟郎さんの車で三列目までシートがある八人乗りの大きなミニバンで四輪駆動車だった。

 荷物はたっぷり積めるし山道を走るのにも都合がいい。

 

 

 

「もともと老人ばっかりの過疎地区だったから廃村になるのは時間の問題だったらしい。

 そこに不動産屋が現れたってわけだ……。

 土地に愛着があるからと立ち退きをしぶった人たちもいたらしいが、驚くほどの大金と住みやすい場所に温泉付きのマンションが与えられたとかであっと言う間に誰もいなくなったらしいよ」

 

 

 

「じゃあ今は何にもないんじゃないですか?」




 僕の脳裏にはブルドーザーやショベルカーが、かつて里人が住んでいた廃屋を押しつぶす光景が浮かんだ。

 

 

 

「それはないんじゃないかしら? 

 少なくとも撮影されたときは里はまだ無事だったんだから」

 

 

 

 二列目のシートに座った沙由理さんが指摘した。

 

 

 

「あ、そっか、そう言えばそうですね」




 エリーさんとリーフさんの二人が『異形たちの森』のブログに双主の里での件を投稿したのは、間違いなく三日前だった。

 

 

 

「そう言うことだ。ま、行ってこの目で確かめてみよう」




 助手席の悟郎さんが出発の合図のつもりらしく僕の肩を叩いた。

 僕はゆっくりとアクセルを踏んだ。

 道は未舗装の砂利道なのでとにかく慎重に車を走らせようと思ったのだ。

 

 

 

「本当にきれいな景色ね。

 いつもこんな風景が見られるなら、私でもきっと毎日早起きしちゃうわ」

 

 

 

 走り出してすぐのことだった。

 後部座席の沙由理さんがうっとりと言う。

 

 

 沙由理さんは朝が本当に苦手のようで今朝も悟郎さんが起こしに行くまで部屋から出てこなかったのだ。

 そのため僕たちはあやうく朝食抜きになりそうだったのである。

 

 

 

「谷がすっかり隠れちゃってますね。

 雲が地面より下にあるなんて、なんか嘘みたいです」

 

 

 

 僕はちらりと窓の外を見て言った。

 

 

 

 東の空すべてが紫色に染まっていた夜明けのときは晴れ渡っていたが、今は辺り一面が雲だった。

 だけどその雲は見下ろす斜面の下なのだ。

 

 

 

 この高原を挟むように両脇にそびえる山との間に深々と広がっていた渓谷が、今はすっかり真っ白な雲にふたをされたようになっているのである。

 

 

 

「本当ね。すごく気持ちいいわ。

 辺りに大きな木が一本も生えてないから視界は三百六十度見渡せるし……、まさにパノラマね……。

 ねえ、雲が真っ平らで地面みたいだわ。

 なんだか向こうの山までずっと歩いて行けそうよ」

 

 

 

「お望みなら、どうぞ。俺は止めないぜ」




 後部座席の沙由理さんが朝陽を受けて残雪を黄金色に輝かせている険しい峰を指さすと、助手席の悟郎さんが後ろを振り返りにやにや言う。

 

 

 

「ホント……、あなたってどこまで現実主義者ね。

 乙女のロマンティックな気分をぶち壊す、そう言う部分が悟郎くんの悪いところよ」

 

 

 

 沙由理さんににらまれた悟郎さんは舌を出して前に向き直った。

 もちろん僕は声を出して笑っていた。

 

 

 

「でも背の低い木は生えているんですね。なんだろう? ……松かな?」




 前方の道の両脇に地面にはいつくばるように木が生えていた。

 枝はうねってヘビのようにも見える。

 

 

 

「ハイマツさ。

 ここは高度二千メートル以上あるからな。この辺りが森林限界なんだよ」

 

 

 

 悟郎さんが地面を見て言う。

 

 

 

「森林限界って、なに?」




 沙由理さんが後部座席から身を乗り出した。

 

 

 

「木が背高く成長できない場所、つまり森の高度の限界のことさ。

 年間を通して気温が低いからね。

 だからこう言う場所は見晴らしがいいんだ」

 

 

 

「そうなの。

 ……そうよねえ。夏でさえこんなに涼しいんだものね。

 ……ねえ、よく見たら枝がぜんぶ同じ方向に向かって伸びているけど、どうして?」

 

 

 

 よく見ると沙由理さんの言う通り、枝はすべて同じ方向に向いているのがわかった。

 枝は上に向かっているのじゃなくて、みんな地面をはうように真横に枝を伸ばしているのだ。

 

 

 

「それも森林限界の証明なんだ。風や雪の影響で枝はすべて一方方向へと茂るんだ」




 悟郎さんの説明に沙由理さんは深く納得したようだった。

 だがそれは僕も同じだった。

 

 

 

「おい見ろよ。すごいな、もうあんなところまで登っている」




 悟郎さんが斜め前方の丘を指さした。

 遠くの高い山の万年雪を背景にしている険しい丘だった。

 

 

 

「ホントね。あの人たち、私たちと同じホテルに泊まっていた人たちでしょ?」




 沙由理さんが感嘆の声を漏らす。

 

 

 

 はるか向こうの丘の上に大勢の人たちがゴマ粒のように小さく見えた。

 そこは登山道でつづら折りの山道を一列に進んで行く姿が見えたのだ。 

 

 

 

 昨夜からの宿泊客は僕たちを除けばほとんどが本格装備をした登山客ばかりだった。

 なので間違いなくあの人たちはそうに違いない。

 

 

 

 そのとき僕の頭にはロビーで見かけた女の子の姿が浮かんだ。

 シャツ一枚にジーンズ姿の軽装の女の子だ。

 

 

 

 あの子……、どこに向かうんだろう? 

 ……登山以外に訪れるとすれば牧場見学ぐらいだろうけど、ひとりでわざわざ観光するような場所ではない。

 

 

 

 ようやくホテルの敷地を抜けた。

 僕は舗装路に出ると車を左折させた。

 

 

 

 この道を右に回れば麓のインターチェンジがある町へとつながっている昨日僕たちが通ってきた道だ。

 だが僕らはその逆へと向かうのだ。

 

 

 

 地図によれば双主の里に向かうにはいったんこの山を下りていくつか先の山に入るらしい。

 高度はこの山よりも低いはずだが、そのためにうっそうとした森ばかりの峠道が待っているのは間違いない。

 

 

 

 そしてだいぶ道を下ったところだった。

 さっき聞いた森林限界とやらを抜けたらしく、木々が密集する薄暗い道へと僕たちが乗る車は進んでいた。

 

 


 □ □

 

 


 しばらくすると道は悪路になった。

 国道をそれて林道に入ったのだ。

 

 

 道は狭く未舗装でところどころ大きな石が路面に露出している。

 そのためスピードは出てないのに車はとても揺れた。

 僕はシートベルトになんども羽交いじめにされた。

 

 

 

「予想してたとはいえ、すごい道だな」




 悟郎さんはグリップにつかまっていた。 

 その腕に力が入っているのがわかる。

 

 

 

「ねえ、なんか嫌な感じ。

 さっきから他の車と出会わないし、森ばっかりで昼間なのに道が暗いし、ねえ……、空も陰ってきたわ……。 一雨降りそう……。

 なにかが出ても不思議じゃないわね……」

 

 

 

「なにかって、なんだ?」




 不安そうな沙由理さんの声に悟郎さんが尋ねる。

 

 

 

「うーん。

 ……例えば枝にぶら下がった首つり死体が見えるとか。

 そうね……、排気ガス自殺の車が放置されてるとかかしら……?」

 

 

 

 ぞっとした……。

 この場所では妙に現実感がある例えだった。

 嫌なことを言わないで欲しい。

 

 

 

 僕は確かにUMAとか妖怪とかオカルト方面に興味はあるけど基本的には恐がりなのだ。

 臆病者の怖いもの見たさだけなのである。

 ハンドルを握る手のひらがしめっているのは決して道が悪いからだけではない。

 

 

 

 それからしばらく車内が静かになった。

 道の左側は相変わらず深い森だったが、右手は木々がまばらになり明るい日差しがところどころ地面を照らしていた。

 どうやらその向こうは開けた空間があるように思える。

 

 

 

「おいっ! なんだ! あれっ!?」




 突然、悟郎さんが叫んだ。

 

 

 

 まばらな木々が途絶えて視界が急に開けた。

 突然の明るさに僕は目を細める。

 

 

 

 すると見上げるほど巨大な一枚岩に流れを遮られた渓流が大きくカーブしている場所があり、そしてその向こうは緩やかな傾斜面で石だらけの広い河原があった。

 ……そこに一台の車が停まっていたのだ。

 

 

 

「嘘でしょ! なんてこと……」




 沙由理さんが息をのむのがわかった。

 

 

 

 捨てられた車……? 

 とにかくボロボロの車だった。

 

 

 

 それはクロカン四駆と呼ばれる屋根のあるジープと言った車で、そのボディはあちこちがベコベコに凹んでいる。

 車体は斜めに傾いていて片輪は大きな岩に乗っているが、もう片方のタイヤは半分が水の流れにつかっているのがわかる。

 

 

 

「行く……、しかないだろうな……」




 心なしか悟郎さんの声は小さくなった。

 

 

 

「そうね……。ホントは嫌だけど、見過ごすと後味悪いし……。

 あ、でも私は見ないからね」

 

 

 

 確かに見たくはない。あれは排気ガス自殺の車かも知れないのだ。 

 ……でも行かなくては駄目なのが僕にもわかった。

 

 

 

 僕が運転する車は場所を選んで慎重に路肩に停めた。

 可能性は低いけど対向車が来たら通れるだけの幅を作ったのだ。

 万が一と言うこともある。現にあそこに一台停車しているのだから……。

 

 

 

 先頭は悟郎さん、そして沙由理さん、最後が僕だった。

 この順番は沙由理さんが僕らを引っぱって勝手に決めたもので、真ん中がいちばん怖くなさそうだからであるのは誰が見ても明らかである。

 

 

 

「私がさっきあんなこと言ったからだわ……。

 もう変なこといわないから。反省してるから、ね、お願い」

 

 

 

 沙由理さんが両手を合わせて僕たちにお願いしていた。

 

 

 

 都会の編集部でてきぱきと働いている姿とはうって変わって弱気だった。

 僕は沙由理さんの意外な一面を見た気がした。

 

 

 

「俺だって怖いんだ。ま、でも仕方ないか」




 悟郎さんが歩き始めた。

 ……怖いのは僕だけじゃないんだ。なんだか少し安心した。

 

 

 

 ……どこをどうやって運転したらあそこまで行けるんだろう? と、本気で考えたくなるほど渓流までの道のりは悪かった。

 

 

 

 とがった大きな岩がそこかしこにあり、大木の根っこが大蛇みたいにうねって僕らの行く手をさえぎっていた。

 日差しは高く、周りを取り囲んだ木々からはセミの大合唱が鳴り響いている。

 瀬の流れは速くごうごうとした水音が聞こえてくる。

 

 

 

「妙だな、米軍関係者か……?」




 先頭の悟郎さんが急に足を止めた。

 つられて沙由理さんと僕も立ち止まる。

 

 

 

「どうしてわかるの?」




「ナンバーを見てみろ。

 数字の前に『Y』と入ってるだろ。

 あれは日本で暮らすアメリカ軍人に発行されるナンバープレートなんだ」

 

 

 

 その車には確かに『Y』と書かれたナンバーがあった。

 普通なら、ひらがなが入る部分だ。

 しかもナンバープレートの地名はここから遠く離れた県のものだった。

 

 

 

「じゃあ乗ってきたのは軍人なんですか?」




 僕は悟郎さんに尋ねた。

 

 

 

「さあ……、そこまでは。その家族だっているだろう?」




「ああ、そうね。そう言う可能性もあるわね」




「……ちょっと見てみろよ」




 あちこち凹んだその車に先に到着した悟郎さんが車内を覗いてそう言った。

 

 

 

「なに? なにが見えるの?」




 思わず立ち止まった沙由理さんはそう言ったがそこから動きそうもない。

 

 

 

 ……もしかしたら血まみれの死体でもあるのかもしれない。

 僕は自分の想像にぞっとしたが、頭を振って沙由理さんを追い越した。

 そして深呼吸をひとつして車の屋根に手をかけて悟郎さんが指さす先をのぞいてみた。

 

 

 

「……外国人ですね」




 白人女性がいた。

 シートを倒し仰向けになって静かに目を閉じていた。

 髪は肩までの金髪で年齢は沙由理さんくらいの女性……。きれいな人だった。

 

 

 

 暴れた形跡も着衣の乱れもない。

 薄茶色のジャケットの胸元に右手を差し入れたままの姿勢。

 

 

 

 そしてギアのシフトレバーを見ると、この車は外人が乗るには珍しいマニュアル・ミッション車で車体が絶対に前方――渓流に落ちないようにギアはリーバスにしてあった。

 

 

 

「も、も、もしかして……、し、死んでるの……?」




 いつのまにか沙由理さんもやって来た。

 もし死体だとしても僕らの会話から見るに堪えない状態ではないことを悟ったらしい。

 

 

 

「さあ……、どうだろう」




 僕はドアノブをがちゃがちゃさせていた。

 

 

 

「駄目ですね。鍵がかかってます」




 そのときだった。

 

 

 

「きゃー!」




 突然、沙由理さんが叫んだ!

 ある一点を指さして固まっている。

 

 

 

「冗談じゃない! ……なんてことだ!」




 悟郎さんが叫んだ。

 そして僕はなにもいえずに固まってしまった。

 

 

 

 ……人が、……ぶら下がっていた。

 大きな木の枝から風もないのにぶらぶらと二本の足が揺れていたのだ。 

 

 

 

「け、警察……あ、救急車! もーこんなときはどっちが先なのよ!」




 沙由理さんがスマホを取り出しながら叫ぶ。

 

 

 

「どっちでもいい! どっちでもいいから早く!」




「あーん。でもここの住所とかわかんないし!」




「道順を言えばいい! ホテルからの道順を言うんだ!」




 沙由理さんはあわてていてスマホを落としそうになりながらも、なんとかボタンをタッチした。

 

 

 

「……駄目。つながらない。……電波来てないの」




 人里からかなり離れた山奥だ。

 通じないのはむしろ当たり前かもしれない。 

 

 

 

「龍児……。降ろしてみよう。まだ息があるかもしれない」




「……そうですね」




 もはや選択の余地はなかった。

 僕らはできる限りの事をしなければならない。

 見えたのは膝から下だけだった。兵隊が履く迷彩色のズボンとブーツだけが茂った下枝の間から見えていた。

 

 

 

 僕と悟郎さんは互いを見てひとつ頷いた。

 そしてぶらぶら揺れる足に近づいた。

 

 

 

 ……そのとき僕にはセミの声も水音も聞こえなかった。

 すべての五感は太い足に集中していた。

 

 

 ――そして、その瞬間だった。

 

 

 

「うわっー……!」

「うおっー……!」




 僕と悟郎さんは声の限り叫んだ。

 それは……、いきなりだった。 

 でっかい男がなんの前触れもなく地面に落ちてきたのだ。

 

 

 

 僕はなにもできずに口だけを金魚みたいにぱくぱくさせていた。

 

 

 

 だが驚いたのは僕たちだけではなかった。

 赤毛短髪の巨大な白人男性がひっくり返って目をまん丸にさせている。

 

 

 男は耳には大きなヘッドフォンをしている。

 そしてそれをかきむしった。そこからヘビーロックがガンガン鳴り響いていた。

 

 

 

「……!」




 大男は立ち上がると僕と向かい合った。

 ……でかい。

 僕は巨大グマのグリズリーを思い出していた。

 

 

 

 背が高いだけじゃない。

 身体の横幅も厚みも僕とはまったく全然違っていて、僕の視界のすべては大男の巨大な胸板だった。

 

 

 

 そして大男はいきなり怒鳴り始めた。

 頭上からものすごい大声でガンガン英単語が降ってきた。

 僕になにがなんだがさっぱりわからないのだが、とにかくものすごい剣幕だったのだ。

 

 

 

 そして見上げた僕と視線が合ったときだった。

 突然ブンッと風を切って拳が飛んできたのだ。

 

 

 

 それは赤毛の大男の丸太のような太い腕だった。

 すんでのとこで僕はバックステップでかわす。

 瞬間、二の腕にある赤い入れ墨が見えた。

 

 

 

「わ、わ、ちょっと待って……!」




 僕は後ずさりながら悟郎さんを見た。

 悟郎さんは日常会話ならなんなくこなせる英語力がある。

 仕事柄外国に行くことが多いのだ。

 

 

 

 だが……、あまりのことにとっさに英語が浮かばないようだった。

 そしてその向こうには沙由理さんが完全に凝固してるのが見えた。

 語学留学までしたことのある完全なるバイリンガルだと聞いていたんだったんだけど……。 

 

 

 

「アイムハングリー……アーユーハッピー?」




 僕はとっさに浮かんだ英語を口にした。

 元々語学力がない上に、あわてていたものだから仕方ないが……、我ながら悲しくなった。

 だが、そんな僕のとんちんかんな返答は大男をますますいきり立たせたようだった。 

 

 

 

「うわっ!」

 大男は僕をぐいと持ち上げたのだ。

 すごい怪力だった。しかも片手だ。

 僕は天地がさかさまになった気がした。

 

 

 

 なんとか逃れようと足掻いてみたのだが大男の腕はぴくりとも緩まなかった。

 そして大男の太い腕が僕の首に巻き付いたのだ。

 それはとんでもない力でぎりぎりと締め付けてくる。僕は首の骨がきしむ音を聞いた気がした。

 

 

 

「く、くるしい……」




 ゴホゴホと咳が止まらない。

 呼吸ができないので肺の酸素だけがどんどん薄くなる感じがした。

 涙もどんどんあふれてくる。

 

 

 

 僕はもがいた。とにかく必死に手足をばたばたさせた。

 涙でくもった視界の隅には悟郎さんが大男に組みついてなにか叫んでいるのが見える。

 だがそれもなんの効果もなくて僕の息はどんどん詰まってくる。 

 

 

 

 ……そのとき僕の頭上高くの梢でなにかが動いた。

 

 

 

 キラリ……、と、小さななにかが光るのが見えたのだ。

 

 

 遠くなりかけた意識の中で僕は、ひゅッ、と風を切る音を聞いた。

 そして、その直後、大男が獣のように吠えたのだ。

 

 

 

 ……僕は背中からどすんと地面に落ちた。

 激しい痛みで視界がくらくらする。ゴホゴホと咳き込みながらも悟郎さんの助けを借りて、なんとか立ち上がった。

 

 

 

 見ると……、大男はうめき声をあげていた。

 腕を抱えて蹲っている。

 濃緑色のタンクトップ姿のその太い腕には大きなミミズ腫れが走っていた。血がじわじわと滲んでいるのが見える。

 

 

 

 ……どうやら助かったらしい。

 僕はほっと息をついたとたん、玉のような汗が噴き出すのがわかった。

 

 

  

 そのときだった。短く、よく通る声が響いたのだ。

 

 

 

 声の方角に視線を向けると、さっきのボコボコの車から女性が現れてなにか叫んでいた。

 目を閉じて横たわっていたあの金髪の女性だった。

 

 

 

「シンシア!」




 大きな叫び声がして蹲っていた巨大な男がものすごいスピードで僕たちの横を駆け抜けて行った。

 そして、パス、パス、パス……と、どこか間の抜けた音が三つ鳴った。

 それは女性が手にした黒い物から発せられたものだった。

 

 

 

 ……拳銃!

 

 

 

 僕は全身固まった。

 静寂が訪れた。セミたちがいきなり静まったのがわかる。

 

 

 

 女性はしばらくの間僕たちの頭上の木のてっぺんをにらんでいる。

 辺りは急に暗くなり真っ白に日に焼けた石に黒い染みができる。

 ぽつりぽつりと大粒の雨が降り出したのだ。

 

 

 

 そんな中、金髪女性が惚けたように立ちつくす沙由理さんに話しかけるのが見えた。

 無論英語だ。

 大男はその横で肩をすくめながら地面から何かを拾っていた。

 

 

 

 始めは互いにどちらもとんちんかんな顔をしていた。

 しかし会話が進むにつれ、しだいに表情も穏やかになって……、険悪な雰囲気は完全になくなり、互いにバツの悪そうな顔がやがて笑顔になり、最後には握手となった。

 

 

 

 やがて雨はすぐにあがった。

 気がつくと大男が僕の前に来ていた。

 そしてすまなそうな顔をして僕の右手をつかんだ。

 

 

 握手だった。

 そして分厚いその手の力はやっぱり強かった。

 

 

 

 ……僕にはまったくわからない会話が沙由理さんと金髪女性の間でずいぶん交わされた。

 だが会話はしだいに日本語になった。

 

 

 そして金髪女性は驚くほど流暢な日本語を話した。

 アクセントなども完璧で目をつぶって聞いていれば間違いなく日本人に思えるほどだった。

 

 

 

「あなたたちを泥棒だと思ったのよ。

 目が覚めたらなんだか周りが騒がしくて……」

 

 

 

「びっくりしたわよ……。あなたはピストルみたいなものを撃ち出すし」




 沙由理さんがそう女性に話しかける。




「あー、悪かったわ。これエア・ガンなのよ。

 なんか変なものが見えた気がして……。

 ごめんね。怪我はなかったようだし許して」

 

 

 

 金髪女性はこう言った。

 だが脇にしまった銃は決して見せなかった。

 

 

 

「まあそうなの。びっくりしたけど……。

 でも、いったいこんなとこでなにしてたの?」

 

 

 

「私たちはここで野宿してたの」




「野宿? どうして?」




「あー、友人に会いに来たのよ。

 そうしたら道に迷ってしまって……昨夜から山の中をぐるぐる回ってたの」

 

 

 

 金髪女性はそういって自分の指先をぐるぐる回した。

 こうやって流暢に日本語を話していても会話に身振り手振りが入るのはいかにもアメリカ人だと思った。

 

 

 

「え? 心中かと思った? 

 あー、そうね。確かにそう思われても仕方ないわね」

 

 

 

 沙由理さんがした質問に金髪女性は目を丸くした。

 

 

 

「だってこんな山の中でしょ? 

 あなたは死んだように眠ってたし、男の人は枝にぶら下がっていたし……」

 

 

 

「あー、あのマッチョの朝の日課なのよ。

 pull-up……。あー、日本語だとなんて言うのかな?」

 

 

 

「chin-up? もしかして懸垂運動のことかしら?」




「あー。それそれ懸垂ね」




 マッチョはさっきの枝でわざわざ実演してくれた。

 しかも片手でホイホイと苦もなく繰り返す。

 ……とてもじゃないが僕と同じ人類とは思えない。

 

 

 

 ……話をまとめるとこう言うことらしい。

 水色の瞳を持つ金髪女性はシンシア・ハイトマンさんと言う名前で米軍基地に住んでいるアメリカ人だった。 そして連れのマッチョ大男はロバートさんと言う陸軍の兵隊で、どうやら二人は遊びに来ていたらしい。

 

 

 

 そして日本人である僕には初耳だったがアメリカでは人里離れてキャンプしている連中を専門に襲う犯罪集団がいるらしく、シンシアさんたちも以前に被害にあったことがあると言う。 

 連中はずるがしこくて物陰に隠れてひとりになった人物を、次々と襲うと言うのだ。

 

 

 

「……そのときのことを私はとっさに思い出してしまった。

 きっとロバートもそうだったと思う」

 

 

 

「怪我とかしたの? もしかして?」




 沙由理さんがシンシアさんに尋ねる。

 

 

 

「……私たちは幸い大丈夫だった。でも……、彼の妹が今でもまだ立ち直れないの」




「ひどい……、怪我だったの?」




「……レイプされたの。まだ十四歳だったわ」




 僕は思わずロバートさんを見てしまった。

 そのロバートさんはシンシアさんをじっと見ていた。その顔は悲しそうだった。 

 そしてその腕には流れた血が乾いた跡があり、ミミズ腫れからまだ血がにじんでいる。

 

 

 

「そう言えばロバートのあの怪我はいったいどうしたんだろうな? 

 まさか龍児が斬りつけたとか?」

 

 

 

 悟郎さんが僕に話しかけた。

 悟郎さんも僕と同じようにロバートさんの腕を見ていたのだ。

 

 

 

「まさか、僕にそんなことできませんよ」




 僕はロバートさんの傷口ではなく二の腕に注目した。

 そこにはぎょろりと目をむいて鼻が長い、真っ赤な顔色の人間ようなタトゥーが掘られてあった。

 

 

 

 そして僕のその視線に気がついたロバートさんが頭上を指さして英語でなにかをいい始めた。

 

 

 

「あー、あの木の上に何かいたらしいの」




 そのロバートさんの言葉をシンシアさんが訳してくれた。

 

 

 

「木の上に何がいたんです?」




 僕は尋ねた。

 不気味さを感じて背中がぞくりとした。

 

 

 

「……テングー」




 ロバートさんが自分の腕の入れ墨を指さした。

 その顔は真剣だった。

 

 

 

「……テングー? ……て、天狗のこと?」




 僕は改めてロバートさんの腕の入れ墨を見る。

 いわれてみれが確かに日本の昔話に登場する天狗の顔をデザインしたものだった。

 

 

 

「この腕の怪我は天狗がつけたっていってるぜ。

 おいおい、しっかりしてくれよ」

 

 

 

 悟郎さんは疑わしげな目だ。

 ホントなのだろうか……? 

 

 

 

 ……そう言えばあの瞬間、僕がロバートさんにしめつけられているとき梢の上で何か見た気がした。

 僕を手放したのもその傷の痛みと無関係ではないはずだ。

 

 

 

 ……でも、まさか? 

 見るとロバートさんが大きな声でまくし立てていた、それをシンシアさんがいちいち確認している。

 どうやらロバートさんのいい回しに問題があって、それを日本語に訳すのに手間取っているようだった。

 

 

 

 そのとき僕は沙由理さんを見た。

 自分の語学能力を棚に上げているのはわかっていたのだが、どうして完璧な英語力を持つ沙由理さんが助け船を出さないのだろうかと疑問に思ったのだ。

 

 

 

 ……沙由理さんは木を見上げていた。どこか遠い目で。

 

 

 

「あー、色はよく見えなかったけど、この天狗とは違って赤くはなかったらしいって言ってるわ。

 なにか黒いものが動いたのを見たって言うの」

 

 

 

 和訳してくれたシンシアさんがまたロバートさんに確認した。

 

 

 

「あー、ロバートの母方のおばあさんは日本の人なの。

 それで小さいときに日本の天狗の話を聞いたのね。

 空を飛んで自由に風を使う神様なんだけど、ときどき怖い神さまになるって……。

 自分が見たのはきっとそれに違いないって説明してるわ」

 

 

 

 ……巨漢のロバートさんに日本人の血が流れているのは意外だった。

 が、それは別として空を舞い風を使う神と言うのは間違っていない。

 

 

 

 ……それにあの風を切る音。

 ロバートさんに首をしめられた僕を救ったとき……。

 風を使う荒ぶる神の仕業と言えば説明はつく。

 

 

 

 僕はブルッと震えが来て思わず身を固くした。

 

 

 

 ……もしかしたら今、この瞬間にもロバートさんを襲った天狗がこの森の木々に姿を隠して僕たちの行動を監視しているのかも知れない。

 

 

 

 ……流れの強い渓流の水音、辺り一面から鳴り響くセミの声、そう言うものに紛れて僕たちを狙っている可能性も否定できない。

 

 

 

 天狗のような者がもし本当にいたとしたならば、僕たちはあまりにも無力で無防備なのだと言うことを改めて実感した。

 

 

 

 そのとき……突然の羽音に僕は振り返った。

 

 

 

「……まさか、あいつなんてことはないよな?」




 遠くの梢から飛び立ったのは真っ黒なカラスたちの群れだった。

 

 

 

「ひょっとして天狗でも現れたと思ったのか?」




 悟郎さんが僕に話しかけてきた。

 

 

 

「いや、全然違います。

 ただ音がしたんで振り向いただけです」




 僕がそう答えると悟郎さんはにやにや笑っている。

 絶対に僕が天狗の話ににびびっているのをわかっていて質問してきたのは間違いない。

 だから強がってとぼけて見せたのだが悟郎さんはますますにやにや笑いを強めて僕を見ていた。

 

 

 

 やがて別れのあいさつをしたシンシアさんとロバートさんが自分たちの車に乗り込んだ。

 

 

 

「道に迷っていたんだろう? どこへ向かおうとしていたんだい? 

 よかったら教えてくれないか?」

 

 

 

 悟郎さんがシンシアさんに話しかけた。だが無言で首を振る。

 そして言った。

 

 

 

「迷惑をかけたのは謝るわ。でも……言えない事情があるの。

 今は昼間だし、もう迷うことはないと思うの。機会があったらまたお会いしましょう。

 あー、そうね基地に遊びに来て。

 そしたら今回のお詫びにとびっきりの手料理を振る舞うわ」

 

 

 

 ロバートさんがエンジンをかけた車にシンシアさんが乗り込みながら答えた。

 シートベルトを締めるカチッとした音が聞こえる。

 

 

 

 そして大排気量の野太いブオーンと言うエンジン音とザザザっと地を蹴る激しい音がした。

 Yナンバーの4WDは豪快に砂を巻き上げて走り出したのだ。

 

 

 

 車体のことなどまるでお構いなしにデコボコした河原を走らせるものだから車はあっちこっちにはね回って今にもタイヤがもげそうである。

 

 

 

「さすがアメリカ人ってとこね……。

 車は移動するための道具であって、見せびらかせるシンボルだと勘違いしてるどこかの国民とは違うわね」

 

 

 

「俺に対する皮肉かい? 

 冗談じゃない。俺の車はまだ三年もローンが残ってるんだ」

 

 

 

 感心している沙由理さんと悟郎さんの苦笑は対照的だった。

 

 

 

「あれ? あの二人、道を間違えてるんじゃないですか?」




 道まで登った車が町に向かうには別の方向――つまり僕たちが目指すべき方向へと走り出したからだ。

 あの先には廃村である双主の里しかないはずだ。

 

 

 

「そう言えば友人に会いに行くって言ってたわね。いいのかしら?」




「ま、いいんじゃないか? 

 追いかけたってあのスピードじゃ追いつけないだろうし、間違えたと気が付けば戻ってくるだろう」

 

 

 

 思わぬ寄り道をしたが僕たちは再び車に乗って旅を再開した。

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