第7話許さない
カールライヒ伯爵は、どすどすと音を立てて息も切れ切れに駆け寄って来た。
(ぶつかる!)
前傾姿勢でこちらに向かってくる巨躯に、思わず体が反応してビクリと身構えた。
ところが、熊の様な塊は突然視界から消えてしまった。
(!???)
「これはいけない!裸足ではないか!」
見ると、カールライヒ伯爵は膝をついて私の足元で丸くなっていた。
「綺麗な足が、こんなに傷ついてしまった……あのクズ野郎…!!!!!」
ビキビキと青筋が立つ顔を上げ、ふんふんと鼻息を荒くして玄関に向かおうとした。
(何!?何なのこの人!?)
「おやめください!」「旦那様!これ以上ことを荒立てないでください!」
従者たちが止めに入るが、熊の様な伯爵は構わずズンズンと進んでいくので、鍛え上げられた大の男たちでも悉く飛ばされていった。
「カールライヒ伯爵!!!!」
私が思わず叫ぶと、巨体は動くのをやめて、緩りとこちらを振り向いた。
裸足であることも忘れて、すたすたと伯爵の元へ歩む。
(もう、お姉様にもヴァンルード侯爵にも会いたくないんだから!なんとか穏便に済ませなければ)
するりと衣擦れの音を立て丁寧に挨拶をした。
視線を上げると、カールライヒ伯爵が目の前にいたので少々驚く。
(意外に身軽だ…)
「失礼する。だが、この様子では靴さえ取りに戻れないのであろう?」
と言うと、私を両手に抱えて馬車まで連れて行ってくれた。
馬車までの短い距離でも、接触部がしっとりと湿る。
まさに、姉が嫌ったそれだ。
(まだ寒いのに、こんなに汗をかくなんて…)
そんな事を思いながら馬車に乗り込むと、薄暗いけれど確かに見覚えのある顔があった。
目を凝らして自分の目を疑う。
「マイ…ロ…?」
なぜ貴方がここに、そう言いかけた時、ハッとした。
マイロはビーズの装飾が美しい赤のハンカチをスカーフの様に首に巻いている。
私の視線に気づくと、首元のハンカチをそっと撫でた。
「私、本当に緊張してしまって。"今日で全て決まり"ホッとしております。お約束通り、このハンカチは頂けるのですよね?」
それから私の両手をギュッと握って続けた。
「奥様に嘘をつきました。申し訳ございません」
「なに…?どういうこと…?」
ギシギシと不穏な音が鳴る。そちらを見なくてもカールライヒ伯爵が馬車に乗り込んできたと分かる。
マイロは恍惚の笑みで言った。
「さあ、奥様。馬車の中ですがここから先、悪路はございませんので"七色の髪の乙女"のお髪を整えさせて頂きますね」
一気に血の気が引く。
マイロは何者なのだろう。
私が冷や汗をかきながら僅かに震えているというのに、彼女は普段と何一つ変わることなく丁寧に、それはそれは丁寧に櫛を滑らせた。
「奥様はダウンヘアがお似合いですのに、いつもアップスタイルで…私本当に悲しかったですわ。今日やっと"旦那様"が望まれた美しいお姿に仕上げさせて頂けると思うと万感の思いです」
がたがたと震える右手を同じ様に震える左手で抑える。
「マイロはヴァンルード家の侍女ではないの…?」
やっとのことでそれだけ問うた。
櫛を持つ手がぴたっと止まる。
その静止にさえ恐怖を感じるが、対して明るい声が返ってくる。
「いやだ。ちゃんとヴァンルード侯爵の面接を通り、あの屋敷で働いていましたよ。昨日辞表を出しました!」
「それで?今日からカールライヒ家の侍女なんて事はないでしょう?」
馬車はゆっくりと動き出す。玻璃の窓から遠ざかる屋敷を見たい、その気持ちを胸に仕舞い込んだ。
髪が編み込まれていく。解けてしまう不安定さのない、突っ張る感じもしない、いつもの絶妙な強さだ。
髪に指が滑る感触で分かる。信じたくはないが、彼女はマイロ本人だ。
どこから話したものかと思案していたマイロはやがて口を開いた。
「…お察しの通りです。奥様のご様子やご夫婦のご様子を逐一ご報告していました。…あ、ヴァンルード侯爵の職務に関することなどは口が裂けても告げ口などしませんからご安心を。墓場まで持って行きます」
律儀なのか、不義理なのか、よく分からなくなる。
ゴロゴロと音を立てて馬車は速度を上げた。
「そう。あの家で本当のことを探す方が難しいわね。ヴァンルード侯爵の愛も、花嫁も。マイロ、あなたも」
嘘ばっかりじゃないか。
「あら」と空々しくマイロは言った。
「奥様の美しさは本物です」
(ついていけない)
カールライヒ伯爵を横目に見る。
さっき走ったのが良くなかったのか、ふうと息をついている。
玻璃の窓に視線を移すと、まるで鏡の様に私たちが映し出された。
マイロが楽しそうにダイヤやパールを髪の毛にあしらっている。
一時間ほど走っただろうか。馬車の速度がややゆっくりとなり、やがて止まった。
外から御者がノックをするのとほぼ同時に、手を止めたマイロは言った。
「さあ、出来上がりました」
伯爵に手を取られて馬車を降りた。
見上げたそこは、カールライヒ伯爵邸だ。
(ヴァンルード家から意外と近い)
目線を前に戻すと、伯爵は私をじっと見つめたきり微動だにしない。
「何か?」
よく見れば、ふるふると震えている。
「なんと美しい。パ…パールは正解だ。七色に輝く髪の美しさが際立つ。ああ、ダイヤは失敗だな、主張しあってむしろ良くない」
品定めする様に、様々な角度でじろじろと見られる。
(私を飾りにしか思っていないんだわ)
「では明日からそのように」
私の後ろでマイロが言った。
その瞬間、伯爵はテカテカとした顔の眉毛だけが下がって、なんとも堪らないと言う表情になる。
私は困ってしまい、じっと伯爵を見た。
困り顔に気づいたのか、誤魔化す様にモゴモゴと口を動かしている。
「に…庭にな、噴水があるのだ。明日の夜はそこでぜひよく見せてほしい」
そう言って歩き出す。
エスコートされるまま進もうとすると、足に痛みが襲って躓いた。
それだけのことだった。
振り向いた伯爵が「ふっ」と一言微かに呟いたかと思うと、胸に手を当てて前屈みになり、次の瞬間には急に背伸びをする様な格好をしたかと思うと、仰向けに倒れた。
丁度屋敷の中から出迎えの従者が来たところで、大勢が叫びながら伯爵の元に駆け寄った。
(痙攣している!)
わあわあと騒ぎ、慌てるばかりの人たちは、文字通り右往左往していた。
その光景に、私は思わず叫んだ。
「あなた達!落ち着きなさい!マイロ、この屋敷に従医は!?」
青い顔をした彼女はこくこくと頷いた。
「そこの足の早そうな貴方!今すぐ呼んできなさい!」
指を指された若者は「呼んできます!」と言うなり駆けて行った。
「それからそこの門番二人!その槍を貸しなさい!そこのメイド!適当にシーツを持って来て!槍に縛り付けて担架にしなさい!」
それぞれが「はい!」と殆ど泣き声でそう言って、侍女は屋敷の中へ、門番は槍をしっかり持ってこちらに走ってくる。
はあ、と息をついてカールライヒ伯爵を見ると白目を剥いていた。
「マイロ!リボンを貸して!」
ぶるぶる震える彼女の手からリボンを奪うと、なおざりに髪を結んだ。勢いに任せて結んだ髪から、パールやダイヤがぽろぽろと溢れていく。
間も無くシーツを数枚手に持って現れた侍女が槍にそのシーツをくくりつけたのを見て私はまた叫ぶ。
「体格の良さそうな貴方と貴方!伯爵の両脇を持って!門番の二人は両足を持って担架に乗せて!」
大の大人四人がかりでも、苦戦しながら担架に乗せられた伯爵の口元に耳を寄せる。
(息をしていない)
次に心臓のあたりに耳を当てる。
(鼓動が聞こえない。死んでしまったのかもしれない)
私はだんだん怒りが込み上げてきた。
心臓目掛けてどんどんと拳を叩きつける。
「ふざけないでよ!私がどんな思いでここに来たと思っているの!?ねえ!」
なぜか涙が溢れて止まらない。
「死ぬなんてッッ!!許さないから!!!」
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