第6話可哀想なケーキ

マイロは帰れただろうか。

両家の顔合わせに遅れては大変だ。

今自分の目の前にある全てを放棄して、そんなことを思う。


ペンをぎゅうと握りしめて、それからテーブルに置いた。

「ひとつだけお願いがあります」


旦那様は眉間に宿る苛立ちを必死に隠して、「何だ」と問うた。


「料理長のジミーが今日のためにケーキを作ったのだそうです。せっかくですから、せめてそれだけでも見に行きませんか」


旦那様の口元が戦慄き、ため息一つついて「わかった」と短く言うと、いつもの倍はあるのではないかという歩幅でズンズンとキッチンへ進んだ。

私も早足でその後に続いた。


ジミーがキッチンの扉の前でオロオロとしていたが、旦那様が「通せ」と言ったので慌てて扉を開け放った。


(いつもの旦那様ではないわ。侍女や料理長に対してこんな言動をするような方ではない)

フォレスティーヌに感化されたのか、カールライヒ伯爵邸の馬車が到着したことで、焦りの気持ちが抑えられないのか。

または、そのどちらもか。


(毎晩「愛している」などと言って、おでこに口付けしていたのだって、フォレスティーヌに愛を囁いたその唇だわ)

そう思うと、すごくゾッとした。


開かれたキッチンの扉の奥に、出番を失ったケーキが可哀想な程にしょんぼりして見えた。

私の目は涙で曇っていたけれど、二段のデコレーションケーキにはチョコレートの装飾で「旦那様、奥様、おめでとうございます」と書いてあった。


「ああ、ジミー…あなたこんなに素敵なケーキを?きっとすごく甘くて美味しいのでしょうね。食べられなくて残念だわ。ありがとう…」

「奥様…」

くしゃくしゃの顔をしたジミーは、両手をだらしなく下げていた。

その時

「もう見たから良いだろう!?戻って離縁届けを書いてくれ」


私はこの言葉に、離縁届けにサインすることを決めた。

ジミーが一生懸命に作ったケーキを、みんなのお祝いの気持ちを、横目で見てあしらうみたいなその態度がどうしても許せなかった。

(この方はもう、私の愛した旦那様ではない)


ジミーが膝をついて嗚咽を漏らす。

「最後の夕食が食べられなかったわ。ごめんなさいね」

とだけ告げて、ジミーの横を通り過ぎる。

食卓の上に置いたペンをぞんざいに取り、離縁届けにギリギリ読める様な字で立ったままサインを書いた。


「書いたのなら、早く行ったほうが良いわ。随分長く馬車を待たせているのだから」

まるで悪さをした子どもを謝りに行かせる母親の様な言い草で、フォレスティーヌは至って真剣な顔で私を見た。


「私の部屋の荷物を…」

これには旦那様が反応した。

「カールライヒ伯爵に何でも買って貰えば良い。君の荷物はこちらで処分しよう」


一つの荷物さえ持つことを許されなかった私は、ふらふらと玄関まで歩んでいく。

「旦那様…いえ、ヴァンルード伯爵。毎晩『愛している』と言ってくださったのは嘘ですか?」

「嘘ではないさ。リリアのことは、どうしても妹みたいにしか思えないんだ。…君を女として求めたことなど…なかっただろう?」

「ヴァンルード伯爵が私に触れるのは、おでこだけでしたね」


玄関の扉が開け放たれる。

冷たい風が一気に屋敷中を駆け巡った。

ダウンヘアにしていた髪が風に踊る。


(ああ、やはり結っていたほうが良かったかしら)


月光を背負い、振り向く。旦那様とフォレスティーヌと屋敷のみんながいる。マイロの姿はなかった。


(良かった、マイロ。きっと間に合ったわね。さようならが言えなかったのが残念だったけれど)


月の光を浴びた銀髪は七色に輝く。

風に煽られるのを嫌って、ふりふりと頭を振るった。

振るうたびに髪がキラキラと輝く。


ヴァンルード伯爵は、初めてその光景を目の当たりにして口を閉じるのも忘れて見入った。

扉が閉ざされるその瞬間が来ても、いつまでもいつまでも魅入っていた。


(痛い)

足元をよく見れば、いつの間にか靴が脱げていた。

靴を取りに戻ることも許されない屋敷を振り返り、ぴったりと閉ざされた扉を睨む。

「私は、絶対に幸せになってみせる。今度はお姉様に触れられない様に、ヴァンルード伯爵が嫉妬するほどに」

ぽそりと呟いた言葉は夜風に紛れて消えた。


その時

馬車から大きく軋む音がして、ふと見るとカールライヒ伯爵その人だった。

驚いて声を漏らすと、ぱちっと目が合う。

私を見るなり、大きなお腹を揺らして近づいた。

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