第玖話(終)

第35話 雪門深月の夏休み初日のこと


 黒冬さんがいなくなった。


 夏休み初日、朝――あたしは目を覚ました。……え、なんで? どうしてあたしが目を覚ますの? だって――昼間は黒冬さんの時間だ。黒冬さんが引っ込む夜しか、あたしはこの体を使うことができない……これは生まれた時から決まっていたあたしたちのルールなのだから。


 なのに……それが崩れてしまっていた。なんで? どうして!?


 あたしの背中にはいつも黒冬さんがいてくれた。肩にそっと手を置いて、するべきことを耳打ちしてくれていた。だからこそ、あたしは黒冬さんが作ってくれた雪門深月という、クールな女の子を演じることができていたのだ。


 なのに……ふと気づけばいつも傍にいてくれるお姉さんがいなくなっていた。

 ……初めて、だ。あたしはひとりで、広い世界に放り出された。


 黒冬さんがいないと不安で仕方なかった。

 黒冬さんがいれば……――だからまずは、黒冬さんを探さなければいけなかった。

 とりあえず、行く当てなんてなかったけれど、外に出た。

 家の中を探したって、黒冬さんの姿も手がかりも、見つかりそうになかったから……。


 行き先は歩きながら探そう。

 暑い中、外を歩き、目についた気になったところへ足を運べば、そこに黒冬さんの手がかりがあるかもしれない――そう思うしかなかったのだ。



 ――駄菓子屋。

 いつもは黒冬さんの肩口からそっと覗くだけだった。


 前から気になっていた面白そうなゲームがそこにあって、黒冬さんを探さないとって分かってはいるんだけど、興味が足ではなく手を動かしていた。

 見様見真似で、ゲームを遊ぶ。

 近くにいた小学生……かな? ――に、やり方を教わりながら、コツを掴めそうになったり、でもクリアできなくてヤキモキしたり……。


 ――そんな時に出会ったのが、神谷くんだった。


「ねーちゃんをストーキングしてた不審者だ!」


 え。あたしを?

 誤解を解くかと思いきや、神谷くんは舌打ちして「見られてたのか……」と言った。


 えぇ……? ストーキングしてたの……? あたし、じゃなくて……黒冬さんの方だと思うけど。……そっか、神谷くんは、黒冬さんのことを……。


 ――まるで自分のことのように、嬉しく思えた。


「尾行してたの? あっ、一緒に遊びたかった?」


 神谷くんはあたしのお誘いに戸惑っていて……あたしが誘ったからじゃない……かな。

 たぶん、あたしと黒冬さんの違いに戸惑っているんだ。

 黒冬さんを追いかけていたならすぐに差が分かるもんね……。


 巻き込むべきじゃなかった。


 助けてほしい気持ちはあったけど、あたしと黒冬さんのことは他人に教えていい関係性ではないと思ったから……。このあと、神谷くんとどう自然に別れるか考えていた。

 平気な顔して必死に考えて……でも。


 黒冬さんのアドバイスを頼りにしていたあたしに、自分自身でどうこうする方法なんて思いつかなくて……――やっぱり、事情を話して彼を頼ることしかできなかった。


 不安だったの。ここで神谷くんと別れてしまえば、あたしはまたひとりになる……。

 背中を預けられる誰かがそこにいてほしかった。


 ――今思えば、神谷くんでなくともよかったのかもしれない。

 知り合いだったら、その場にいたなら誰でもよくて――――


 だから、頼ったのが神谷くんだったのは運が良かったし、神谷くん以外に事情を話さなかったのも良かった。


 神谷くんだったから、親身になってくれたし、誰にも言わないでいてくれた。

 神谷くんのお姉さんや妹ちゃんは知っているけど、そこは仕方ないことだった。


 頼りになる人が増えたのは素直に嬉しいし、それに…………黒冬さんとまた会えたから。

 神谷くんと出会わなければ、黒冬さんとも再会できていなかったのだ。



 ――黒冬さんが元に戻ることはもうないらしい。


 こうしてひとつの体からふたつの体に分かれたら、あたしはあたしで、黒冬さんは黒冬さんなのだ。……黒冬さんは、もうあたしじゃない。


 それってつまり、黒冬さんが作ってくれた雪門深月というクールな女の子がいなくなってしまうことになる。

 夏休み明けの学校で、あたしが今のこの『素の自分』を見せれば、以前までを知るみんなはガッカリするだろう……それだけ、黒冬さんは完璧でクールだった。

 その理想像を、壊したくなかった――絶対に。


 だからこの夏休み中に、あたしは黒冬さんにならなければいけない……。

 黒冬さんになりきらなくとも、黒冬さんに近い立ち振る舞いを覚えないと。

 努力できる時間は、長く見えても短いのだ。


 クールで大人びたお姉さん。――になるため、神谷くんのお姉さんに教えてもらうことにした。

 見ていて一番黒冬さんに似ていたし、女性として魅力的で、見ていて参考になると思ったから。


 花嫁修業、と言ったのは、事情の全部をまとめて簡単に一言にしてみただけだった。

 言うと、神谷くんは焦っていたけど、あたしは文字通りの意味もあったのだ……。


 少なくとも、これから毎日、神谷くんと会うことを嫌だとは思っていなかったから。

 黒冬さんを好きになってくれた男の子を、あたしが嫌いになるはずないじゃん。



 それから、神谷家に毎日通った。

 花嫁修業をして、勉強会もして――たまに天体観測にも付き合って(当然、その時はお泊りになったけど)……。


 上の妹ちゃんと一緒にジョギングもしたし、道場でお姉さんに何度も投げられた。

 毎日顔を出せば、みんな、あたしのことを受け入れてくれて……面倒を見てくれた。

 中でもおばあちゃんが一番、あたしのことを可愛がってくれた。


 おばあちゃんと仲良くしているところを見られて、蝶々ちゃんに嫉妬されたりしたけど。

 ……ちょっといじわるしたくなって、おばあちゃんをわざと独占してみたり……。

 喧嘩しても、仲直りは早かった。



 ――海にいった。山でキャンプもした。夏祭りにもいった――。

 八月に入ってからはイベントが盛りだくさんだった。


 こんな日々がずっと続けばいいのにって思うほど、あたしは神谷家に馴染んでいた。

 ……これまでの人生で、一番楽しい夏休みだって、自信を持って言える。

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