第漆話
第26話 混浴
7
時間が経てば傷は治る。が、服を濡らした血が消えるわけではない。
べたべたしている体を洗うために、おれは風呂場へ向かった。
うちの風呂は昔の名残で、まるで温泉旅館のように広い。
普段は時間帯で男女を区切ることになっているが……今はおれだけのための特別措置だ。
飛鳥を待たせている……さっと血を洗い流して出てしまおう。
「――陽ちゃん、濡れた服、渡してくれる?」
「雛姉……。なんで普通に入ってきてるの?」
おれが着替えてるって分かってるはずだよな?
脱いだ服ならカゴの中に入れておくつもりだったから、おれが風呂に入っている間に回収すればいいはずだ。それに思い至らない雛姉ではないはずだけど……。
「それでね、ちょっとだけでいいから、お腹の傷、私に見せてくれる?」
診せて、ではなく『見せて』だったから、軽く見るくらいなのだろう。
「いいけど、もう治ってるよ。……ほら、刺さったけど、傷跡も見えないでしょ?」
「…………うん、そうね、見た感じは大丈夫そうだけど……表面は、ね」
「体の中の傷はさすがに……まあ体調が悪いわけでもないし、大丈夫だと思うけどね」
屈んでおれのお腹の傷を見ていた雛姉が、楽観的な意見にキッと視線を鋭くさせた。
上目遣いで睨みつけられる……やべ、怒らせた?
「そうやって放置すると大きな病気に繋がったりするの!
私たちが心配する気持ちも分かってよ……っ!」
う。そう言われるとごめんとしか言えなくなる。
おれからすればどんなに痛くてもすぐに治って、寝てしまえば怪我なんて「……してたっけ?」と気にしなくなる――それの繰り返しだ。
しかしそういうものだと思っていたおれとは違って、雛姉からすればお腹に穴が空くほど深々とナイフが刺されば、楽観的には考えられない。あらゆる後遺症を考えてしまっていたはずだ。
見た目、治っていても、今も体に異常を与え続けているのでは? ……と不安なのだろう。
確かに、もしも舞衣や蝶々が同じ状態だったら……おれも心配だ。たとえ本人が「もう治ってるし大丈夫だから」と強く言っても、何度も何度も確認すると思う……。
そう考えれば、雛姉の行動は大きなお世話とも言えないのだ。
きょうだいとしては、当たり前の反応で――。
「他に気になるところはない?」
「特にないよ。腕も上がるし両足で跳ねても痛みもない……大丈夫だって」
「…………」
じー、と。疑う視線が突き刺さる。
どうしたら信用してくれるのだろうか……。
「……分かったわ。それだけ言うなら信用してあげる」
と、言っているけど、全然納得してなさそうだった。
雛姉は「些細なことでも、違和感があったら教えてね……――絶対ね!」と言い残し、脱衣所から出ていった。……雛姉の心配はありがたいけど、たまに過剰で鬱陶しく思う時もある。おれのためだって分かってはいるんだけどね……。
廊下が騒がしいな、と感じながらも、雛姉と飛鳥がまた衝突しているのだろうと思って気にせず、浴室へ入る。さすがに露天風呂ではないけど、石造りで造花もある、雰囲気がある風呂だ。
毎日見ているので、今更感動もなにもないけど。
誰かに見られたらぎょっとされるような量の赤黒い血を洗い流してから――湯に浸かる。
怪我はすぐに治るけど、溜まった疲れは取れない。回復速度が早いと言っても外傷だけのようだ。……疲れまで回復できるなら万能過ぎるからな。バランスを取っているのかも。
……疲れを取るため肩まで湯に浸かり、腰を下ろす。
ふう、と一息つくと、それだけで感じていなかった疲労が一気に認識できた。
このまま溶けて、湯に混ざりそうなほど脱力してしまう……。
さっと洗ってさっと出るつもりが、このままだと長くなりそうだった。
……順番、待ち、してる飛鳥に、怒鳴られ……――――
ふ、と意識が戻ったのは大きな音があったからだ。
……あれ、何分寝てた!? いや、ほんの一瞬だったかもしれない。ぐっすり寝た感じがするのは深い眠りだったおかげだろう。危なかった……、風呂場で熟睡するところだった……。
ところで、目が覚めた時の大きな音は、なんだ?
まるで浴室の戸が乱暴に開いたような音だったけど……?
「いつまで入ってんだよ、陽壱」
「…………飛鳥……?」
バスタオルを体に巻きもしないで入ってきている……。まあ姉だし、別にいいんだけど……。
昔から見慣れていると言えばそうだ。だからと言って、じゃあ同じ時間帯に、一緒に風呂へ入ろう、とはならない。
やっぱり、思春期同士の男女としては、本能で避けているところなのだ。理由はないし説明できないけど、なんか嫌だ。
たとえ嫌っていない姉でも、一緒に風呂へ入るのは……気まずいし……。
「……おれ、そんなに長風呂だったか?」
「十分くらいだな」
全然入っていなかった。体を洗って湯に浸かって一息ついたら、それくらいだろう。意識が落ちたのはほんの一瞬のことだったらしい。
なのに、飛鳥はその短時間も待てなかったのか。朝方に出かけて昼に帰ってきたとは言え、日中、高い気温で汗だくだったのなら、待てない気持ちも分かるけど。
「ごめん、もう出るよ」
「いいよ出なくて。そこで待ってろ」
飛鳥はさっと体を洗い流した。今はトレードマークのポニーテールも解いている……長い黒髪が真っ直ぐに下りた。
髪型ひとつで印象が変わるものだなあ……。
雪門の例があるからあらためて……、姉の背中を見てそう思った。
こうして見ると、やっぱり雛姉にそっくりだ。昔は舞衣も髪が長かったし、今の蝶々もそうだけど、みんな、雛姉に似ているのだ。……当たり前だけど。
「あん? なにじろじろ見てんだよ」
「飛鳥、傷が……」
「ああ……喧嘩の痕だよ。今更だ。昨日今日できた傷じゃない」
普通はそうなのだろう……おれは傷が治るから、カサブタもできたことがない。
傷ひとつないと言うとおかしな表現だ(怪我はしているのだから)。
治ってしまえば、おれの体は生まれたばかりのように綺麗なままだ――変わらない。
ある意味、生きている勲章がないと言えた。
怪我を自慢するわけではないけどさ。
体を洗い終えた飛鳥が足を湯に浸けた。
それから水を蹴る。ばしゃ、と塊になった水がおれの顔に飛んできて――「ぶへ!?」
急になんだ!?
反射的に目を閉じてしまい、それが狙いだったのだとすぐに分かった。
飛鳥が湯に飛び込んだ。そしておれの背後に回って――、
伸びた手が、指が、おれの腹を探る。くすぐったいけど、くすぐっているわけではない。
飛鳥も雛姉と同じだ……おれの傷を確かめている。
水飛沫で目を潰されたけど、それも一瞬のことだ。
傷を探っている飛鳥の腕を水中で掴む。
「いや、普通に言えよ。傷見せて、って言えば、見せたし……もう治ってるけど」
「素直に見せるか? お前が? ……信用できないからこうして不意打ちして確かめてるんだよ。……昔から傷がすぐに治るってのは分かっていたけど、擦り傷だったり骨折だったり……比較的軽傷だっただろ? さすがに今回の大怪我はあたしだって肝を冷やしたんだ。ちゃんと治るのか心配したっておかしなことじゃないだろ?」
骨折は軽傷……? 今回と比べてしまえば大半が軽傷になるか。
ナイフの根本まで、深々とお腹に突き刺さっていた……。おれでなければ死んでいてもおかしくはなかった大怪我だ。治るとしても不安要素は残る……そりゃそうか。
自分のことだから大したことないと分かっていても、外から見れば違うのだ。
飛鳥でもそういう心配をするんだな……――なんてことを思った。
「あんたはさ……あたしのことを薄情者だと思ってるだろ?」
「薄情者と言うか……ガサツだとは思ってるけど」
「お前、あとで覚えておけよ?」
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