第16話 蝕みの感情

 上の妹、舞衣は陸上部に所属している。


 短距離も長距離もいけるオールラウンダーらしい。基本的に運動能力が高いため、突き詰めれば全ての種目で上位を狙える力がある。

 ただし時間は平等だ……努力ができる時間は限られているわけで……。

 今の舞衣だと、ひとつかふたつしか極められない。


 だから舞衣は、中でも『走る』ことを選んだのだ。


 ――なぜそれを選んだのか、聞いたことがある。


 その時に舞衣はこう言った――「陸上以外でも使えるから」

 確かに走ることは日常生活でもよく使う。砲丸投げ、やり投げ、走り高跳びなどは陸上競技でしかやらないだろう。ようは使い方なので、砲丸投げをしていれば腕力が上がり、走り高跳びは脚力が鍛えられるので無駄になることはないが……。


 走ることに関してはそのまま使える。

 そう考えると、長距離も短距離も、鍛えれば鍛えるほど、将来役に立つだろう。

 意外と考えているんだなあ、と思ったけど、たぶん偶然だ。

 将来役に立つから、という理由で真摯に打ち込むには、動機が薄い気がする……。

 単純に、舞衣は走ることが好きなのだと思えばしっくりくる。


 昔から、体を動かすことが好きな妹だった。付き合わされた蝶々は舞衣のスパルタな運動量に嫌気が差して、おれに泣きついてきた――怯える末っ子の相手をおれがして、舞衣の相手を飛鳥がする、というのが恒例になっていた。


 ……のだけど。

 その飛鳥がいないということは、蝶々も舞衣も、おれが面倒を見ることになる。


 まあ、昔と違っておれがいないとなにもできない子供でもない。

 雛姉だっているし。わがままも甘えたい気持ちも、おれよりも雛姉に言った方がいい。存分に甘やかしてくれるはずだ。それは本人たちもよく分かっているはず――。


「おかえり、舞衣」

「あ……。兄貴……」


 ばっさりと切った黒髪は陸上を始めた時に「邪魔だから」という理由で自分で切っていた。ざくざくと……。大胆な散髪を雛姉が止めて、なんとか切り過ぎないように調整していたけど、本人が気にしないとしても見ている側が不安になることもある。


 不安というか怖かった。それくらい、あの時の断髪は思い切りが良過ぎた……。

 おれよりも短くするつもりだったのか?


 今だって、耳が出るくらいに充分に短いけど……不安を煽るような短さではない。男装をすれば完全に男子に見える――とも言い切れないのは、舞衣のスタイルが良いからだろう。


 運動しているから体は健康的で、引き締まってるし……雛姉と飛鳥の妹だから、舞衣も成長すれば色気がある女性らしくなっていくのだろう。


 いずれ蝶々もこうなるのかなあ。

 ……と思うと、男子がいやらしい目で見るだろうから……心配だ。


「シャワー、入るだろ?」

「…………私の汗だくのシャツをどうするつもりなわけ……?」

「は? 洗濯するんだけど」


 部活が終わってすぐにタオルで拭いただろうけど、帰宅中にも汗をかくのは仕方ない。今日も気温が高く、立っているだけで汗をかく日だ。


 運動をするならさらに過酷になってくる……。こんな日に部活をするなんて――と言い出したら、運動部は夏に活動ができなくなる。

 無理やりならともかく、生徒が好きでやっているなら誰も止められないよな。


 大きな玉のような汗を流しながら、舞衣が持っていたタオルで顔を拭く。

 既に使った後のタオルだったようで、湿ったタオルに「うえ」と顔をしかめた。

 それ、お前の汗だぞ。……それでも嫌なものは嫌か。


「あ、カレーなんだ?」

「ああ。……食えるか? 夏バテとかさ……」

「大丈夫」


 初めての夏でもないし、暑さには慣れてるか。

 昔は最高気温が三十度前後で……それでひいひい言っていたと大人が言うのだから信じられない。今は四十度になることもある……。


 昔の人が未来の夏にやってきたら、まず最初に干からびるんじゃないだろうか。

 そう言えば黒冬さんは……――大昔の人だけど、タイムスリップしたわけではないから関係ないか。雪女は暑さで溶けるよりも先に自分の冷気で体温を調節できるため、夏バテなんかしないのかもしれない。


「シャワー入ってから食う、でいいんだよな?」


「そりゃそうでしょ。

 汗だくで食べたくないし……あ、でも辛いなら結局また汗かくのかな……」


「いや、甘口だったぞ。雪門が作ったからな」


 ――すると、突然、舞衣の動きがぴたりと止まった。……え?


「雪門……深月さん、だっけ? 兄貴の同級生の――」


 内容は普通の確認なのに、声に棘があった。

 雪門を刺しているのではなく、おれを刺している……。


「花嫁修業……? なんだよね?」


「まあ……うん。ただあれは言葉の綾だし、おれが意中の相手とは言ってないぞ? 仮におれが相手だったとしてもさ……舞衣が怒る筋合い、ないと思うけどな」


「妹なんだけど」

「おれが結婚する時って、妹の許可が必要なの?」


 反対されているなら説得した方がいいけどさ……必要ではないと言えばそうだ。

 強行突破もできるけど……今後、付き合いづらくなるのは避けられない。

 ……雪門とはそういう関係ではないけど、舞衣も仲良くしてほしいのは本音だ。


「ふん。べつに、兄貴のことなんかどうだっていいけど」


 ……あ。

 舞衣の顔色が変わった。元々溜め込んでしまう体質とは言え、吐き出す時はスイッチのオンとオフを切り替えることが多かった……けど。


 今日のは、おれが強制的にスイッチを切り替えてしまったようだ。


 舞衣も、心の準備ができていないだろうなあ……。

 これは仕方ない。


 舞衣は目の色を変え、いつも以上に熱が入る。

 ……そう、おれへの私的な怒りも多分に含ませて。


 ――舞衣が、シャワーを浴びる前の汗臭い体のまま、ぐっと近づいてくる。



「兄貴はさ、どうしようもないクズ人間だよね」


「…………」


「姉と妹がいるのに同級生の女の子を家に連れてくるかな……しかも連日。今後もあの人は家にいるわけでしょ? 我が家を他人に浸食されていく不愉快な気分とか分からないのかな?

 ……兄貴はいいよね、だって知っている人なんだから。家に連れてくるくらいなんだもん、関係性は良いんでしょ? 良くないと男子の家に上がって花嫁修業なんかするわけないじゃん。――兄貴にちょっとでも気があるから、それを理由にしてるのかもしれないね……いいご身分。部活もしないでふらふらふらふらしててさ……家の事情があるからと言っても、部活をしながらでもできるでしょ。兄貴がいたから陸上部に入ったのに……いなくなっちゃって……」


「いや、卒業したらどうせおれは部からいなくなってたけど……」

「口答えしないで」

「あ、あい……」


 ついつい、言い返してしまった……今はそういう時間ではない。


 その後、数分間。

 舞衣から罵詈雑言を浴びせられた。人格否定はもちろん、生活態度も非難される。将来のおれのお嫁さんは不幸になる、とまで言われて……。どうしてそこまで言われなければならないのか。不満がないと言えば嘘になるが、そんな感情は既に通り越していた。


 おれは正座をして、黙って聞いているだけだ。


「……だから、兄貴はキモイって言ってんの」

「す、すみませんね……」

「なんで私の兄貴って、こんな――」と、言いかけたところで舞衣が止まった。


 はっとして、口を押さえた……さすがに理由がある罵倒だったとしても、越えてはいけない一線がある。越えてしまったと、自覚したのだろうか……、全然いいけど。


 言われた側が気にしていなくとも、言った側が気にすることはある。

 失言に最も傷ついているのは、言った側ということも……。


 舞衣は自分の発言を許せなかったのだろう。

 せっかく中和していたのに、さらにヒートアップしてしまう。

 ……おれを見下す目が強くなり、いくところまでいって、今度は冷たくなっていった。


 分かっていても勘違いしてしまいそうになる目だ。


「……ほんと、ムカつく……ッッ」


「――うん」

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