第13話 消えない子
――やられたっ! 鯉が跳ねたことにも意識が持っていかれていた。蝶々から注意を外した一瞬で……、あいつ、かなり能力を使いこなしているな。
幸い、蝶々の存在はおれの中から消えてはいない……覚えているなら見つけられる。
蝶々がその気になれば、おれの前から姿を消すことはこんなにも簡単なのだ。忘れることはないが……、蝶々が本気で逃げようと思えば見つけ出すのは至難の業だ。
それ以上に、不可能に近い難易度になってくる。
あてがなければ行き先だって絞れない。まさか町全体を探すわけにもいかないし……、おれがまだ小学生だった時は、消えた蝶々を探して電車で一時間もかかる海までいったことがある。その時は蝶々の姿が見えていたからいいけど……見えていなければ絶対に見つけられなかった。
行動範囲が当時よりも広がっているなら、極端なことを言えば日本全域になる。狭めても関東地方は探索範囲になってしまう……小学生でも、もう高学年だ。
蝶々だってひとりで電車に乗り、終点まではいけるのだから。
「蝶々っ!」
暗闇を探るような手の動きで近くにいるかもしれない蝶々を捕まえようとしてみるけど、そこにはいなかった……既に距離を取られている可能性もある。
……触れた感触は分かるんだよな? 分からなければ……触れても意味がない。
庭にはいない……? サンダルを蹴るように脱いで、縁側へ戻る。蝶々の姿が見えなくなって存在が消えたのだとしても、蝶々が移動している痕跡はあるはずなのだ。
床に残っている、僅かな温もりを辿れば……。
かなり難しい手がかりだが、他になければ頼るしかない。
足裏で探り、温もりを辿って……――先にいたのは黒冬さんだった。
部屋から出てきたところで、ばったりと。
「あ」
と、お互いに声が出た。
……なんでここに……、じいちゃんと昔話をするつもりじゃなかったのか?
黒冬さんの和服は、さっきよりも整っているように見えた。
「…………違う」
「直したばかりなのに? いえ、人の顔を見て否定をする前に、まずはぶつかりそうになったことを謝るべきじゃないの? びっくりしたわよ……どうしたの?」
おれが言った「違う」はそういうことじゃない。けど……勢いがあったわけではないが、ぶつかりそうになったのは事実だ。しかし、それどころではなかったのだ――。
足裏で入念に確認すれば、床の温もりはここで途切れていた。もしかして蝶々ではなく、黒冬さんが歩いた軌跡を辿っていただけだった……?
「…………はぁ」
「ちょっとっ、今度は溜息!? なんなの!?」
「いや……、気にしないでくれ。黒冬さんが悪いわけじゃないんだ……」
蝶々のことを忘れている黒冬さんに聞いても仕方ないことだ……というのが顔に出ていたのだろう、黒冬さんは「なにかあった」ことを察してくれた。
「困りごと?」
「そうだけど、黒冬さんには分からないことだよ」
冷たく拒絶したように聞こえてしまっただろうけど、言ったことは事実だ。
黒冬さんには、分からない――。
聞いたところで、答えを出す以前に質問が理解できないはずだ。蝶々の居場所が分からないのだけど、と聞けば、きっと彼女は虫の方を想像するだろうし……。
黒冬さんの中ではもう、蝶々と言えば宙を飛ぶ方だ。
「……なんでもない。えっと…………蝶々のことで」
分からないだろうけど、誤魔化すために嘘をつきたくはなかった。
蝶々のことで考えごとをしていたから、というのは間違っていない。覚えていない黒冬さんからすれば関係ないことだろう。
おれに構わずじいちゃんばあちゃんと昔話でもしててくれ――と思っていると、
「困りごとって、蝶々ちゃんのこと?」
――と、言った。
そう、蝶々の……え?
「ちゃん……?」
神谷蝶々を「ちゃん付け」するなら分かるけど、飛んでいる方を「ちゃん付け」することはないだろう……。幼い子供も、伝える大人も、ちょうちょ「さん」が多いだろうし……ゾウさんキリンさん、ちょうちょさん、みたいに。
だから――もしかして黒冬さんは、蝶々のことを、覚えてる……?
「雪門! 蝶々のことを覚えてるのか!?」
思わず昔のように呼んでしまったが、それどころではない。もしかしたら、彼女が運良く庭を見ていたなら、移動する蝶々の姿を見ていたかもしれない。
低い可能性だけど、どうせ手がかりがないんだ……ここは彼女に薄い期待をする。期待外れでも彼女のせいではない。
「覚えてるわよ。それに、見えてるもの」
「どこにいったか分かるか!?」
「そこ」
黒冬さんが指を差した。――おれ? いや、その背後を――。
振り向けば、おれの背中、シャツをつまんでいる蝶々が見えた。
「……ずっと、後ろにいたのか……?」
「…………」
蝶々がぐっとおれを引っ張った。シャツにしわができる、なんて文句は言えなかった。
それくらい、蝶々には必死さがあって――守りたいものがある強い意志が感じられたのだ。
「蝶々……?」
「ダメ、だから……っ」
その言葉はおれではなく、さらに向こう側……黒冬さんに向けられていた。
「え、私?」
「夜は、ダメ……にいさんはわたしと、星を見るの……」
「星……? あ、天体観測?」
星を見ることをすぐに天体観測と言い換えられるところは、黒冬さんというよりはよく知る方の雪門の印象だった。
どうしても妖怪として見てしまうけど、黒冬さんはおれと同じ時間、学校に通っていたのだから……妖怪でもあるけど学生でもある。
黒冬さんは合点がいった、と手を打った。
「蝶々ちゃんは、私にお兄さんが取られると思ったのね?」
「…………星、見るから……夜に勉強を教えるのは、ダメ……なの」
「そっか……先約があったのね。そういうスケジュール管理は神谷くんがしっかりしていないとダメなんだけど……」
黒冬さんの厳しい視線が突き刺さる。
「……まあ、そういうところはやっぱりだらしないわよねえ」
「ほんとそう」
あれよあれよという間に、蝶々と黒冬さんが意気投合している。
というか、あれ? 話が進んでいるけど、結局蝶々の不機嫌は直ったのか?
「神谷くん、ダブルブッキングをした場合に優先されるのは先約があった方よ。当たり前だけど……。それに、私との宿題は昼間でもできるのだから、蝶々ちゃんにきちんと付き合ってあげないとダメよ?」
妹を蔑ろにした弟をたしなめるような言い方だった。
……落ち度はおれにある。刺さっているので言い返せない……。
「分かってるよ……でも、夜に天体観測、昼間に宿題……? おれ、いつ寝るの?」
「ずっと起きていればいいんじゃない?」
黒冬さんは冷たかった……雪女だからかな?
「約束を破ると、蝶々ちゃん、本当にいなくなっちゃうかもしれないのだから……あなたが守ってあげないとダメだからね?」
ぐうの音も出なかった。
約束したことを忘れて別の約束を入れてしまうなんて……蝶々が怒るのも無理なかった。
ただはっきりと「いついつの夜」と約束したわけではないが、それを言えば火に油を注ぐだけだ――言うべきではない。
蝶々に、おれの夜の時間を渡したようなものなのだから、夏休みの間は責任を持って付き合うべきだ。――可愛い末っ子からのお誘いだ、無下にはしない。
おれは蝶々の、「お兄ちゃん」なのだから。
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