第12話 いなくなる子
「雪門? いや、黒冬さんの方か」
彼女は今日も和服姿だった。昨日とは違う柄と色だ……、きっとばあちゃんが選んで着せたのだろう。黒冬さんがうちにきて一番喜んでいるのは、ばあちゃんなんじゃないか……?
サイズが合う雛姉も
黒冬さんと体型がそっくりな雪門も、和服は動きづらくて苦手そうだ。
着てくれるのは黒冬さんだけなのかも……。
「いるけど……どうした?」
「神谷くんは宿題やらないの?」
「………………それどころじゃない」
「ひとりで暇そうにしてるじゃない」
「暇そうに見えても、いつでも動けるように待機してるんだよ――」
雪門に問題が起こった時、すぐに駆け付けられるようにな。
「でも、待機しながらでも宿題はできるんじゃない?」
正論だった。その通りである。黒冬さんの宿題は雪門の宿題でもある。今後、雪門が学校に出るなら、黒冬さんが宿題をするわけにはいかない、と思ったのだろう。
だから今、暇してる……とか?
おれの宿題を代わりにやってくれるわけではない――のは当たり前。
なら、おれに声をかけてどういうつもりだ?
「急に勉強しなくてもいい、と言われても……苦しいものよ。神谷くんには分からないでしょうけど」
出されたプリントには手をつけずに、宿題には手をつければいいのでは? もっと言えばネットを見れば問題なんていくらでも転がっている。まさか前世の人間だからって今世のインターネットに疎いわけでもないだろう。スマホの扱いには慣れているはずだし。
それとも未来のない自分に勉強は不要だと? いやでも、今が退屈なら未来どうこう以前に『楽しいから』やるならやってもいいと思うけど……。
聡明な黒冬さんの抜けている部分……というより、別の理由がありそうだ。それがなんであれ、義務でもないのに勉強をするのは、おれには理解できない。
……その表情を見て察したのだろう、黒冬さんが苦笑した。
彼女自身も、勉強が好きな自分は少数派である自覚はあるようだ。
「ちょうどいいから教えてあげようか? 神谷くんも成績が良い方では……ないよね?」
良くはない。赤点を取るほど悪いわけでもないが……まあ、中の下くらいか。
油断をすればすぐに下位へ落ちる成績ではあるな。
「だったら私が教えてあげる。昼でも夜でも好きな時間にね」
「じゃあ夜がいいな……」
深い意味はない。ただ気が進まないので後回しにしただけだ。
……結局、今が暇な黒冬さんの退屈を紛らわすことはできないのでは?
「大丈夫よ。あなたのおじい様と昔話でもしているから」
「昔話……? ああ、そっか、黒冬さんは前世の…………どんな時代だったんだ?」
黒冬さんが生きていた頃の時代。
そう言えば聞いていなかった、と思ってあらためて聞いてみる。
黒冬さんも隠す気はないようで、あっさりと教えてくれた。
「侍の時代よ」
「じゃあ……江戸?」
「まあ、そのあたりの時代ね」
濁された。
まあ詳しく時代を言われても分からないけど……。現代のように時代が大きく分かれているわけではない。江戸時代は元号が多かった気がする……、一切、中身は分からないけど。
そのあたりのことも、勉強を教えてもらえば分かるのかもしれない。
興味の引き方とやる気の出させ方は、さすが年の功がある……上手だ。
「それじゃあ、夜に教えてあげるわね。夜に眠くならないよう、昼間の居眠りには目を瞑ってあげるわ」
「目を瞑るのは昼寝をするおれの方だよ」
ふふ、と黒冬さん。また夜に、と言い残して襖を閉めて去っていった。
……なんだ、雑談でもしにきたのかと思えば、座ることもなかったな……約束しただけだ。
ひとりで暇そうにしてるけど、と分かっていたなら腰くらい下ろせば良かったのに。優先度の低い用事でもあったのかもしれない。
年が近い(……近い?)じいちゃんとばあちゃんとは、いくらでも話が合うのだろうな。
「…………あれ? ひとりで、暇してる……?」
いや、対面に蝶々もいたはずだけど……というか話の途中だった。黒冬さんが割り込んできたのだ。ふと思い出して目の前を見れば――――いない。黒冬さんと話している最中に、気を遣って部屋を出ていったわけではない……もしそうならおれか黒冬さんが気づいたはずなのだから。
だけどおれたちは気づけずに……蝶々はいつの間にか居間から姿を消していた。
…………ったく。
「また『存在』を消したな? ……ひとりになりたいほど追い詰められることなんて、今の短い時間にあったか……?」
思い当たることはない。それとも蓄積していたものがなにかの拍子に弾けたか。
ともかく……蝶々を探さないと。
姿は見えないけど、おれは蝶々のことを『覚えて』いる。
まだ、なす術がないわけではない。
居間から出られる縁側から先、庭に出た。
蝶々がいきそうな場所と言えば――――
庭には大きな池がある。
大きいと言ってもいつでも全部の水を抜けるような程度のものだ。
ただ、一般家庭にはないだろう……、池のひとつあるだけで、うちがよそとは違う立派な家であることがすぐに分かるはずだ。
池に近づく。すると、飼っている十数匹の鯉が顔を出していた。
よく見れば餌が既に撒かれていた……数時間前のものがまだ残っているわけではなく、ついさっき――いや、今も隣で撒いているように思えた。
だから、手を伸ばす。
「このへんか?」
口では説明できないけど、きっとここにいるだろうと分かって、おれは右手をなにもない宙に伸ばした。
それから、ぽん、と。
なにもなかった空間に一瞬で姿を見せたのが、蝶々だった。
ぴったりだ――おれの右手は蝶々の頭を撫でることができる位置にある。
「急に隠れて……どうしたんだよ」
「……餌の時間だったから。ふたりの話を止めるのも悪いと思って……。そーっと出るくらいなら、『存在』を消した方が楽だったし」
確かに、音も立てずに出ようとすれば、おれと黒冬さんは意識してしまったはずだ。一声かけて出ていくことを嫌がった蝶々だ、たとえ会話の邪魔になっていなくとも、流れを止めることが嫌だったのだろう。
だからって、自分の存在ごと消して出ていくなんてな……。上手く能力を扱えているからいいけど、困った時に使ってばかりいると、また全人類から忘れられてしまうかもしれないぞ?
――いなかったことにされてしまう。
それで苦しんでいる妹を、何度もこの目で見ていたのだから。
「……にいさんは忘れないでいてくれるから……困らないよ」
「そりゃそうだけど……念のためだ、多用はしない方がいいぞ」
おれは蝶々のことを覚え続けることができているけど、次もそうだとは限らない。昔は蝶々の意識とは別に、能力だけがひとり歩きしているようなものだった。
気づけば蝶々はいなかったことにされていて……(おれは見えているけど)目の前にいるのに、周りの人は蝶々を『見えていない』『存在していない』ものとして扱っていた。
それは身内も例外ではなく――。
雛姉まで蝶々の存在を忘れていた時は、当事者でないのにショックだった……。
蝶々が消えたことで、舞衣が末っ子の認識になっていたのだ。
そんな中で、おれだけが覚えていた。
それから成長し、蝶々は自分で能力を扱えるようになってきている。これがさらに成長すれば、おれから『蝶々』の存在を消すこともできるようになるのではないか――。
「……なあ、やっぱりさっき、嫌なことがあったんだろ? だから存在を消して、部屋を出たんだ……。蝶々、嫌なことは嫌って言わないと分からないよ」
黙って部屋を出ていくなら、おれの落ち度だってことが分かりやすい……。だけど存在を消して出ていったとなれば、おれの落ち度でもあるけど、蝶々自身にも落ち度があったのだと自覚があるのかもしれない……。
だから分かりやすく訴えてはこなかったのか? しかし、このやり方はかえって重く捉えてしまう。不満を言わないからと言って納得しているわけではない。抱え込んで、気づかない内に爆発している方がよっぽど怖い。
蝶々の場合は、気づけるのはおれしかいないとも言えるのだから――。
「…………した、のに……」
「え?」
まばたきをした一瞬に――蝶々の姿が消えていた。
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