第4話 急接近の冬


 翌日。熱が下がったようで、雪門が登校してきた。

 彼女は変わった席順を間違えることなく、おれの隣の席へ座った。

 いつも通りに授業の準備を整え、背筋を伸ばすように姿勢を正し――


「昨日はありがとう」


「……どういたしまして。自覚がない熱なら仕方ないよな、体温計を見て熱があると自覚したら一気に気分が悪くなることもあるし」


 逆に、いくらしんどかったとしても、体温計で平熱が出れば体調が回復することもある。

 人間は数値に左右される簡単な生き物なのだ。


「早めに気づいたことで、回復するのも早かったから……神谷くんのおかげだよ。よく周りを見ているのね」


 周りと言うか……雪門を、だけど――とは言わなかった。だって気持ち悪くないか?

 自制心が働いてくれて良かった……それに、恩を売るつもりもなかったしな。これで距離を縮めるつもりがあっても、助けたことを理由におれの好意に応えてくれと言うつもりもなかった。


 ……そんなの意味がない。

 好きな子が隣にいればいい……それだけじゃないのだ。

 ――それでいいわけがない。雪門をトロフィー扱いをする気はない。


「貸し借りなしにしたいなら……そうだな……調子が悪そうに見えたら声をかけてくれよ。しんどい時に心配してくれるとこっちの気も楽になるからな」

「分かったわ。……注意深く、見てるから……」

「それはそれで緊張するから……たまに見るくらいでいいけど」


 隣の席だから見られる機会は多いだろう。見られる意識ができたせいか、見られている、と強く感じるのはおれの勝手な想像かもしれないが……。


 それでも、雪門の意識がおれに向く頻度が多くなった気がする。

 教室以外でも、廊下ですれ違えば軽く手を振るくらいの距離感にはなっていた。

 勘違いでなければ、……ちょっとだけ、距離が縮まったのだと思う。



 卒業式を目前にして、おれは大怪我をした。――した、という『てい』なのだけど。


 おれは少し特殊な体質で、人間よりも頑丈にできている。

 そして回復も早い。事情を知らなければ、「……おかしい」と思われるくらいには。


 だからあの場合、怪我をしたことにしなければ「偶然」では誤魔化せなかったのだ。

 盛大に血が出たのもまずかった……。

 必要のない心配と負い目を残してしまったのは、不本意だった。



 卒業式の会場設営の準備中だった。卒業するおれたちがなんで準備をするんだ、という意見もあったけど、おれたちの卒業式だからこそ準備するのだ、という意見もある。

 賛否はあったが、結果的に、全学年で準備をすることになった。

 例年通りなので、文句や不満が出てもボイコットのような騒動はなかったが。


 設営準備と言ってもやることは決まっている。複雑な準備は大人の役目なので生徒がすることは力仕事がメインだ。パイプ椅子を運んだり、垂れ幕を設置したり……。

 パイプ椅子は必要な数が多いので多くの生徒が動いていた。

 雪門も、おれも、例外ではなく働かされている。


 パイプ椅子を抱えた雪門の後ろにいたのは偶然だった。作業前、説明の時の班が違うのでおれも彼女がどこでどんな準備をしているのかは知らなかった……さすがに準備中まで雪門のあとをつけることはしない……いくらなんでも。

 とは言え、調べようと思えば調べられたけど。おれだって時と場所は選ぶのだ。学校だと理由があるから話しかけられるけど、プライベートだと一気に話しかけづらくなる……なんでだろうな。


 ともかく、パイプ椅子を抱え、同じように椅子を持って階段を上がる雪門の後ろをついていく。


 道順があるのだから仕方ない。尾行しているわけではなく、おれと雪門の目的地が同じなのだ。


 運ぶ先は体育館だが……最短距離が設営道具で塞がれているために、一度、上の階へ上がらなければいけなかった。無駄な迂回だ……。

 校庭を使えば階段を上がらずに済んだが、不運にも今日は大雨だ。

 必然、ルートが決まってしまう。

 下級生の中には雨に打たれながら運ぶ生徒もいたが、雪門がそんなことをするはずもなかった。


「雪門、気をつけろよ」

「あ、神谷くん。……大丈夫よ、考えて、持つ量を減らしてるから」


 動きづらくなるほどの量を抱えて持つほどバカじゃない、と言いたいのか?

 確かに、おれは雪門の倍以上のパイプ椅子を無理やり抱えているけど……動きづらいさ、もちろん。だが……男ならこれくらい持てるだろ、という先生の圧もある。


 それに、仲間内での意味のない競争でもあった。する必要はないんだけど……。

 でも、その時、おれも一緒になって盛り上がったのだから同罪だろう。

 身から出た錆だ。


「まあ、雪門が持つ量なら転んだりしないか」

「しないわよ。小さな子供じゃないのよ?」


 そういう慢心が……と警戒した時だった。雪門の前を歩いていた下級生二名がふざけ合っていたせいで、ひとりの肘が雪門にぶつかったのだ。


「ぅ、」と声を漏らし、バランスを崩した雪門がパイプ椅子の重さに引っ張られ、一歩下がる。

 平地ならそれで立て直すことができただろうけど、ここは階段の途中だ。


 あと一歩で踊り場に乗る、というところで足を踏み外せば――落差は最大だった。

 最上段から真っ逆さまに転がり落ちることになる。


「あ」


 ゆっくりに見えているのは……錯覚だ。

 雪門が、落ちてくる――――。

 おれは咄嗟にパイプ椅子を落として、彼女の背中を両手で受け止める。

 しかし、ダメだ……足場が悪くて踏ん張れない。


 ――雪門がどうこうではなく。人ひとりを支えるなら平地でないと難しい。


 階段では……無理だった。だから、もう落ちることは覚悟した。

 幸い、おれの後ろには誰もいなかった。

 列に空間ができていたのは嬉しい偶然だ。誰もいなければ、巻き込むこともない。

 このままおれがクッションになればいい――それしか考えられなかった。


 雪門を後ろから抱きしめる。――文句ならあとで聞く!

 そして彼女の後頭部に手を添え、頭を打つことを避けるようにして――

 さらに時間がゆっくりに感じられた。


 落下まで、長い時間だった……。


 おれと雪門は、ふたりで階段から落下した。


 後ろにできるだけ跳んだので、段差に体を打つことはなかった。おかげで背中から硬い床に直接、着地することになったけど……それが良くなかったのかもしれない。

 咄嗟だった……あの状況でこれが正解かどうかなんて分からない。


 背中から、床に強く叩きつけられる。

 雪門を抱えているので受け身も取れなかった。

 太く強い衝撃が、体の芯に届いた感覚……ぅ、嫌な音がしたな……。

 やっぱり頑丈な体でも、身構えているかどうかで変わってくるか。

 地に足をついているかどうかでも違いがあるみたいだ。この発見は、大きい……――。


「――神谷ッッ!」


 近くにいた男の先生が駆け寄ってくる。落下のタイミングを見ていたのだろう……、パイプ椅子を落とした時の音が呼び鈴になってくれたか。


 先生は顔を青くしていた。そっちが? と思ったけど、高さや落下の時の音を考えれば、大怪我だと判断するだろう……。管理下の生徒が怪我をすれば、先生は気が気じゃないか……。


 しかし、心配し、慌てて駆け付けてくれたが、これで誤魔化せなくなった。

 仕方ないとは言え、パイプ椅子を落とすんじゃなかったな……失敗を言えばそこだろう。


「ぅ……う――え? か、かみや、くん……?」

「――雪門、怪我はないか?」

「ない、けど……だけどっ、神谷くんが!!」


 大声を出して取り乱す雪門とは、珍しいものを見た。

 いつもクールで、冷静沈着なのに――と言うのは酷いか。自分を庇って大怪我をしたクラスメイトを前にして取り乱さないのは、それはそれで強めの人格否定だ。


「おれは、大丈夫だ」

「そんなわけないだろう。この高さから落ちて、音も……。どこか骨が折れているかもしれん。念のために病院へ、」

「大げさですよ。痛いですけど、病院にいくほどでは――――」


 不意にやってきた体内の違和感。落下の時に体の芯を揺さぶった一撃は、恐らくは肋骨を折り、その骨が内臓を突き刺したのかもしれない……。


 激しい嘔吐感。


 反射的に手で口を塞げば、次の瞬間には、手では抑え切れないほどの溢れんばかりの赤い血が。


 ――真っ赤だった。


 作りものじゃない赤色。……うわぁ、と、おれ自身が引いてしまった。


 それを目の前で見た雪門は、もっとショックだろう。


「ぁ、あぁ……っっ」



「――救急車だ!!」



「雪、かど……、」


 こんなのすぐに治る、とは言えなかった。

 安心しろ、と言うよりも先に――ふら、と体の支柱が消えたように上体を起こしていられなかった。崩れる体重に任せて横に倒れる。


 その時、おれはなにを口走っていたのか……確実なことは分からない。

 でも、たぶんこう言ったのだと思う――。



「……守ったぞ」



 ――と。

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