第25話 騎士と王子の適切な距離感

「騎士団が末席、サザナミです」

 寝室の扉をノックすると、すぐに内側から返事が聞こえる。

「失礼します」

 扉を開けると、ジャスミンの香りが鼻腔をくすぐった。

 近頃ユクスは、ジャスミンの香を好んで焚いている。正直に言うとサザナミはこの甘ったるい匂いがあまり好きではなかった。が、ユクスの好みなら口出すまいと必死に受け入れる努力をしていた最中で、ちょうどこんな優雅な香りも悪くないと思いはじめた頃だった。

「ああ、いらっしゃい」

 ユクスはいつものように髪を下ろし、ネグリジェにガウンを羽織って書き物をしていた。サザナミの姿を認めて微笑むも、すぐに小首を傾げて、腰に提げた剣に目を向けた。

「あれ、おまえ、騎士団の制服を着てきたのですか」

「ええ、護衛の任務がありますので」

 サザナミの言葉にユクスは片眉を上げた。なにかへんなことを言っただろうかとサザナミは訝しむ。

「ユクスさまが俺を護衛に推薦してくださったとアキナ団長から聞きました。光栄に思います」

「いいえ。こちらこそ引き受けてくださってありがとう。今日からおまえは私の盾。よろしくお願いしますね」

 ユクスは朗らかに笑うと、ぱんと手をたたいた。

「それでは、一緒に寝ましょうか」

 そう言うやいなや扉の前で直立するサザナミの正面まで近づき、ジャケットのボタンに手をかける。

 ふわりとジャスミンの香りが濃くなる。

 ジャケットを脱がされそうになっているとサザナミは気づき、慌てて身体を離す。

「俺は寝室の外で警備していますので」

「なぜ?」

「なぜって、俺があなたの護衛だからです」

「いやです。おまえ、さいきん私の誘いをたびたび断るじゃないですか」

「それは……」サザナミは適切な言葉を探したものの見つからず、「すみません」と口にする。

「べつに謝罪の言葉がほしいわけではないのですが」

「……お誘いはとてもうれしく思います。ですが、あまり頻繁にあなたのもとにうかがうわけにもいかないのですよ。こちらの事情もわかってはいただけませんか」

「それは重々承知しています。だから今日こそは……」

 ユクスは言葉を切ると、ばっと顔を上げてサザナミを見つめた。サザナミは、菫色の瞳に自分の醜い感情が映っていることを恐れ、ふいと顔を背ける。

「お戯れはよしてください。これが護衛と王子の適切な距離ですよ」

 なにか言いたげなユクスを無視して、外に出ていく。

 扉の外に立ち、目を閉じて雑念を振り払おうと努める。

 ――だめだ、だめだ、だめだ。あの美しい瞳に映るのは俺ではない。俺は元奴隷で、俺の身は少年趣味の下品な貴族の男たちにとっくに汚されていて、いまはただの平民で、あの人は王子だ。やめろ、なにも期待をするな。

 近頃のサザナミは、こうやって自分の価値を下げることで心の平穏を保っていた。しかし自分が汚れていると言い聞かせるごとに、その瞳が昏く沈んでいくことに、青い歳の頃の男はまだ気づいていない。

 ことり。

 扉の向こう側で小さな音がした。

 音の主は、扉を隔てたサザナミの足元にそっとしゃがみこむ。

 はあ、とサザナミはため息をついた。

「……お眠りください」

 そう告げてしばらく様子をうかがうも、一向に返事がない。

「もし間者が入ったとしても、すべて俺がなぎ払うので心配無用ですよ」

「おまえがいないと私、眠れないのです」

 扉の向こうでユクスがわずかに動いた気配がする。

 サザナミが聞こえないふりをしていると、ユクスはふたたび口を開いた。

「……一人が不安で、怖くて、寂しくて仕方がないのです。おまえに出会う前はこんなことを考えたこともなかったのに」

 縋るような声色に堪えきれなくなって扉を開けると、ユクスはかつて夫人が贈ったブランケットにくるまり、一人震えていた。

 サザナミはそっとしゃがんでユクスの頬に片手を当て、菫色の瞳を覗き込む。

 ――泣いてるのかと思った。

 心の内で安堵していると、ユクスから顔を逸らされる。

「ごめんなさい、ぜんぶ私のわがままです。どうか忘れてください」

「忘れられるわけ……」

 サザナミはぐっと腹に力を込め、衝動的に口を衝いた言葉を止めた。

 感情が漏れでないように注意を払い、いっとうやさしい声色を意識して「ベッドに行きましょう」とささやいた。

 手を差し出すと、ユクスが瞳を揺らす。

「でも……迷惑でしょう」

「護衛対象が倒れてしまっては、団長から怒られてしまいますから」

 おずおずと手を取ったユクスの薄い手を握り返しながら、片手で器用にジャケットを脱ぎ捨てる。剣をサイドテーブルに置いてベッドに潜り込むと、ユクスが慣れた動作で腕のなかに収まった。

 ユクスが眠りにつくまで、サザナミは彼から目を離さなかった。ユクスは安心したのか、しばらくするとすぐに夢のなかに落ちた。規則正しい寝息がサザナミの胸を湿らせる。

 それから太陽が二人をふたたび照らすまで、サザナミは一睡もせずに呼吸に揺れる金色のまつ毛を眺めていた。

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