第22話 恋とか愛とか

 騎士団長のアキナは、食堂でコーヒーを片手に新聞を広げていた。

 粗野な言葉遣いをするわりにまめな彼は、非番の日は朝から部屋の掃除と洗濯に勤しむと決めている。ひととおり家事を終わらせたあとは、暇を持て余してだいたい食堂で溜まりに溜まった新聞を眺めるのだ。

 今日もそんな日常的な休日を満喫していたアキナだったが、ふと人の気配を感じて顔を上げると目を丸くした。

 目の前にユクスが立っていたのだ。

 四年前までは重度の引きこもりだったユクスだが、ここさいきん外にでることが増えたとはいえ、一人で出歩くのは滅多にないことであった。

「おう、坊ちゃん。食堂で食事か? ずいぶんめずらしいじゃないの」

「いえ、食事ではないんですけれど」

 ユクスは心なしかぼんやりとした表情をしている。

「じゃあなんです? 供もつけずに」

「アキナに恋愛のことを聞こうと思って……」

 アキナは手に持っていたコーヒーカップを落としそうになる。

 幸い、昼休憩のさわがしい時間帯をすぎた食堂にはひと気がなかった。それでも一応アキナは室内に目を配り、自分たち以外に人がいないのを確認してから声をかける。

「ま、まあ、お座りくださいよ」

 ユクスはアキナの正面に座ると、思案顔のまま口を開いた。

「ヴァルト公爵から縁談の話をいただきまして」

 ああ、とアキナは唸る。

 ――恋愛の話って婚約話か。

 第一王子のユクスに、国内外から縁談の話がいくつも舞い込んでいることは、騎士団長であるアキナも知っていた。

 ヴァルト公爵家は古くからアルバス王家に忠誠を尽くす穏健派筆頭。あの家の令嬢なら王子の婚約者としてはかなり妥当だ。

 アルバス国内で有力貴族はほかにあれど、ヴァルド公爵家の右に出る家はないだろう。エーミールのオルロランド家も公爵の爵位を拝しているが、あそこはもともと北の民だ。賢く慎ましいオルロランド家当主は、アルバスの政治の中枢まで食い込むことは考えていないだろう。そもそも、あそこの家に女児はいなかった。

「ヴァルド公爵家というと、一人娘のローレライ嬢ですか」

 ユクスが頷く。

「俺の記憶違いではなければ、今年十六ぐらいじゃなかっただろうか。坊ちゃんと歳も近くて、話も合うんじゃないですか」

「ええ、十六と聞きました。幼いころに一度、公務でお会いしたことがあるらしいのですが、あんまり覚えていないのですよね」

 ユクスは悩ましげにそう呟いた。

 アキナはその姿をぬすみ見て、内心苦笑いをする。

 ――坊ちゃん、耽美的な表情がいちいち様になるんだよな。いつの間にか大きくなっちゃって……

「ご存じのとおり、私はこれまで縁談の話を避けてきました。でもそろそろ成人しますし、断る理由がどんどんなくなってしまっているのです。ヴァルド家の影響力もありますし、」

「婚約に前向きになれない理由はあるんですか」

 アキナの問いかけに、ユクスはわずかに瞳を揺らした。そのまま、ついと目を逸らされる。

「……私、あんまり、他人と、しゃべるのが、好きではなくて」

「いま俺としゃべっているじゃないですか」

「アキナは他人ではないでしょう」

「俺だって最初は他人でしたよ」

「おまえは私が幼いときから私のそばにいましたから」

「ああ、まあそうね」

 ユクスは頬に手を当て、窓の外に目をやった。

 アキナは前々から言っていいものか悩んでいたことを口にする。

「……サザナミのことが気になるんですか」

 ユクスはアキナを見て、え、と呟いた。

「どうしてサザナミの名前が出てくるのです?」

「いや、あのね、だってあんたたち、」

 首を傾げるユクス。

「え、そういう関係ではないの?」

「そういう関係とは……アキナがなにを言っているのか私にはわからないのですが」

 アキナは自分の背中に冷や汗が伝うのを感じる。

「いや、なんでもないです。すみません、いまのは忘れてください。おじさんの心はちょっと汚れているのかもしれないです」

 アキナはがっくりと肩を落とした。

「サザナミといえば、彼にも縁談のことを言ったのですけど、あまり興味がなさそうでした」

「まあ、平民の彼からしたらお貴族さまの婚約事情はいまいちピンとこないのかもしれません」

「そういうものなのですか。私と彼の仲なのに?」

 アキナは閉口する。

 さすがのアキナも「じゃあどういう仲なんですか」とは聞けない。

 ――まさかほんとうにこの四年間、坊ちゃんとサザナミは一緒に寝るだけの仲なのか。友だちにしては身分の差がありすぎるが、少なくともユクスさまがサザナミをそういう目で見ているようには思えない。でも、サザナミは……

 アキナはぶんぶんと首を振った。

 ――いや、よそう。本人が悩んでいるならいざ知らず、人の気持ちを詮索するのはよくない。

「今度、ローレライ嬢とお会いすることになりました。私なんかとお話しなんてしてもたいして楽しくないでしょうに、わざわざ王宮に来ていただくことになってしまったのです」

 アキナは注意深くユクスを観察した。

 目の前の王子からローレライ嬢に対する嫌悪感はいまのところ感じられない。それはそうだ。本人は会ったことを覚えていないくらいだから、いまのところ好感も嫌悪感もないだろう。

 ――しかし、会ってみてマイナスの印象に傾いてしまうくらいであれば、陛下に進言するしかないか。俺の言葉なんてたいした影響力はないだろうが。

「ユクスさまのお気持ちはわかりました。まわりはあれこれ言うと思いますが、俺としては苦手なことを無理をする必要はないと思いますよ。とはいえ、これからもずっと縁談から逃げてまわることはできませんから、どこかで折り合いをつけていただくしかないでしょうが」

「ええ」

 ユクスは悩まし気な表情のまま、食堂を去っていた。

 その背中を見守りながら、アキナは独りごつ。

「恋を知る前に愛を知ってしまったのかもな」

 ユクス・アルバス、十八歳。

 燃えるような感情を、彼はまだ知らない。

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