第20話 小さな夜

 口から心臓が出るくらいの心持ちでユクスが待つ寝室の扉を開けると、ユクスは入口を背に置かれたソファの奥にある丸テーブルに座り、書き物をしていた。薄暗い部屋でよく見えないが、日記かなにかだろうか。

 中に入っていいものか考えあぐねたサザナミは、室内をそろりと見回す。

 部屋の最奥にある、天蓋付きのキングサイズのベッドが目に入った。

 ――ここが寝室? 俺の部屋の十倍以上はあるんじゃないだろうか。

 ユクスはそんなサザナミに気づくと、手元の紙を伏せて顔を上げた。灯りが最小限に落とされた部屋で、菫色の瞳がサザナミをとらえる。

 いまさら畏怖の念を覚えたサザナミは、扉に手をかけたまま固まってしまう。

「ミルダ夫人はもう衣装を届けてくださったのですか」

 ユクスはいつもどおりの声色で、いつもどおりの微笑みをたたえてそう問いかけた。

 少し安心したサザナミは、「はい」と頷きながら部屋へと一歩足を進める。

「あの日、私が選んだ服ですね」

「そうです」

「寝るだけなのに、わざわざ着てきてくださったんですね」

「はい」

 くすくす、とユクスは笑う。

 彼はシルクのネグリジェに、丈の長いガウンを羽織っていた。

「敬語、いらないですよ」

「……うん」

 サザナミがおずおずと頷くと、ユクスは満足気に口角を上げた。

 菫色の瞳に幼い独占欲の色が灯るのを、彼よりももっと幼いサザナミはまだ気づいていない。

「私の寝間着ならあると思いますが、持ってこさせましょうか?」

「いや、いいよ」

「せっかくのお洋服がシワになりますよ」

「まあそうなんだけど……」

 ユクスは部屋に入ったっきり所在なげに立ちすくむサザナミを見かねて、彼のそばまで歩み寄る。手を差し出すと、サザナミはわずかに顎を引いてユクスを見上げ、困惑した表情で自分の手を重ねた。

「あの……ほんとうに一緒に寝るんですか」

「ええ。なにか問題でも?」

「あ、いや、べつに問題はないんだけど、」

 サザナミはちらりとユクスを窺うと、ぱっと目をそらしてしまった。

 その煮えきらない態度にユクスはめずらしく苛立ちを覚える。彼のためを思って呼んだのに、なぜ喜んでもらえないのだろう、と。

 ユクスはサザナミの手を思いっきり引っ張り、そのままベットに放り投げた。

 サザナミは、ぼふん、と音を立てて顔面からベッドに着地する。ユクスの力が思っていたよりも強くてびっくりしてしまう。

 ユクスはその隣に仰向けに寝転がった。

 その振動がサザナミの体をまた揺らす。

「おい」

 サザナミが抗議の目を向けると、ユクスは愉快そうに目を輝かせて口を開いた。

「私、わかりました」

「なんです」

「おまえ、恥ずかしいんでしょう」

「……違いますよ」

「じゃあなんですか?」

 挑むような瞳で見つめられ、サザナミの頬に熱くなるのを感じる。

 実際のところ、サザナミは気恥しさを感じていたが、そんなことよりも王子のプライベートな空間に招かれたという事実がもたらす緊張が上回っていた。

 そして、どぎまぎするサザナミを見て愉悦の表情を隠さないユクスに、言いようのない苛立ちを覚えていた。

 ――年下だからって舐めやがって。たしかに俺たちは友だちらしいけどさ、妹以外と一緒に寝たことなんてないから緊張くらいしたっていいだろう。

 抗議の言葉は口にせずにユクスを睨むと、彼は心外だと言わんばかりに眉毛を下げた。

「私はこんなの初めてですよ。こんな、お友だちと、一緒に眠るの。……だから、ちょっとくらい浮かれたっていいじゃないですか」

 最後のほうは小声になってそう呟いた。

「俺も初めてだよ」

 サザナミは、こんどは自分の耳が熱くなるのを感じた。

 その感情を誤魔化すために、話を変えようと試みる。

「そういえば、ミルダ夫人から預かっているものがあったんだ」

 そう口にし、がばっとベッドから起き上がる。入口近くのサイドテーブルに置きっぱなしにしていた小包を手に取り、ベッドサイドに腰かけるユクスに差し出す。

 ぐしゃぐしゃに包み直された小包を見て、ユクスが不思議そうに見上げた。

「ああ、ごめん。ここに来る前に衛兵に中身を確認されたから開けちゃったんだけど」

 小包の中には、名残惜しそうに見ていたブランケットが入っていた。

 ユクスはブランケットを手に取ると、瞳を揺らした。

「ユクスさまが気に入っているようにみえたから、だって」

「夫人は目敏いですね」

 ユクスはブランケットをぎゅっと握りしめた。

「母さまは刺繍が好きだったんです。手慰みにハンカチーフに刺繍を刺して、よく私にくださいました。ちょうどこのような模様のデザインでしたね」

 ユクスに手を引かれ、サザナミはベッドに入る。手を繋がれたまま、二人は向かい合う。

 それからユクスは、雨の日の静けさのような声色で、ぽつりぽつりと思い出話を口にした。

 王城の離宮で「母さま」と数人の侍女とで暮らしていたこと。「みんな」やさしかったこと。「母さま」はいつも自分を抱きしめて眠っていたこと。ときどき遊びにきてくれる「姉さま」や「兄さま」たちもやさしくて、だいすきだったこと。でも、「姉さま」も「兄さま」も、毒と火と刃でみな殺されてしまったこと。それからすぐに「母さま」は病で亡くなってしまったこと。自分が一人きりになったこと。

「父さま」とはそれ以来、公務以外では会っていないこと。

 そしてユクスはこう言った。

「私は幸せ者なのです。生あるかぎり、この国に尽くすことができる」

 サザナミはなにも言えなかった。

「ごめんなさい、お話ししすぎてしまいましたね。眠れそうですか?」

 サザナミは頷く。

「ならよかった。手を繋いでいる効果は感じますか?」

「わからないけど、落ちつくのほ確かです」

「そう、じゃあ今日おまえを呼んだかいはありました。私はまいにちでもこうしたいのだけれど、さすがにそれはまわりが許さないでしょうね……。今日だってお友だちを呼ぶからということでなんとか許していただけたのですから」

 ユクスは遠慮がちに目を伏せた。

 サザナミはずっと前から考えていたお礼をいまこそ言わなければと思った。

「あ、あの!」

 サザナミがそう勢いよく言うと、ユクスは顔を上げた。

「ユクスさま、ありがとうございます」

「いいえ、私はとくになにも、」

「ほんとに、いつもありがとう」

 ユクスは小首を傾げ、サザナミをじっと見つめた。

 サザナミの言葉が足りないとき、ユクスはときどきこういう仕草を見せる。サザナミが異国の言葉をまだうまく操れないから、言葉以上のことを汲み取ろうとしているのだろう。

 ――だめだ、ぜんぜん伝わってない。

 これまでサザナミは、ユクスのこういうやさしさに甘えていた。ユクスは他人の感情の機微に敏いから、ちゃんと言わなくてもなんとなくわかってくれると。

 しかし、アルバスの言葉が上手にしゃべれないことを言い訳にして、自分の気持ちを伝えるのをないがしろにしていいわけではない。

 ――こんなんじゃだめなんだ。俺が言いたいんだ。

 サザナミはユクスと出会ってからのことを瞼の裏に思い浮かべ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺、この国に来てからずっとたのしいんです。まいにち騎士団の先輩方に交じって鍛錬したり、馬やエルマの世話をしたり、ときどきあなたとお話ししたり」

 つまりながら言葉を操るサザナミを、ユクスは変わらず見つめていた。

「妹が死んでからずっと世界が淀んで見えていたんです。でも、さいきん自分の目に映る世界が、自分が思っていたよりも綺麗だと思えるようになったんだ。あなたはその綺麗な世界の陽だまりにいて、俺はすこし暗いところからそれを見ている。まだ陽の下に出るのは怖いけれど、綺麗な世界の近くにいることをゆるされているのは感じる。ときどき不安で、でもずっと心地がいい、そんな気分です」

 ――伝わっただろうか。

 おそるおそるユクスを見ると、菫色の瞳を細めて微笑んだ。

「いつか陽だまりの下で笑い合いましょうね」

 サザナミは安堵して頷くと、おもむろにユクスが体を近づけ、そろりと背中に手をまわされる。一回り大きいユクスの腕のなかにすっぽりと収められるかたちになる。

「こっちのほうがいいかもしれないですね」

 ユクスはそう呟くと、震えるほど小さな声で歌を口ずさみはじめた。

 目を閉じ、ユクスの鼻歌を聴く。

 聴き馴染みのある子守唄。

 幼少期にサザナミの母親が歌っていた民謡と似ている気がして、体をよじってユクスを見上げる。

「その曲、」

「ん? 母さまがよく歌ってくれた子守唄です。おまえも聞いたことがありますか」

「はい」

「母さまはおまえと同じ東の生まれだったんですよ。だからでしょうか」

「え」

 サザナミは絶句する。

 戦が起こる前、ホムラの国主の姫がアルバスに嫁いだことは知っていた。

 ――でも、ユクスさまはどこからどう見てもアルバスの民らしい容姿だ……。

「顔かたちのどこにも東の特徴がないって思ったでしょう。そうなんです。私と母さまはまったく似ていないんです。なぜか」

 うっとりするような優雅な顔で笑うと、サザナミの唇に人差し指を当てた。

「みんな知っていることです。でも、誰にも言っちゃダメですよ。アキナにも、エーミールにも」

 サザナミはこくりと頷く。頷くことしかできなかった。

「おやすみ、愛しい子」

 そのままユクスに抱きしめられて眠った。

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