第18話 騎士団長の休日
王城前でエーミールとサザナミと別れたアキナは、一人城下を歩いていた。
路地裏に入って三回曲がると、薄汚い路地に出る。古びたコンクリート造りの建物の前で周囲に人の気配がないことを確認し、錆びた階段を下がっていく。
重たいドアを開けると、外装からは想像もつかないオーセンティックな空間が広がる。
アキナが酒を飲めるようになってから足しげく通っているバーの一つだ。
自然なそぶりで視線をさまよわせ、バーの中に誰もいないことを確認してからアキナはカウンターの隅に座った。
接客用の柔和な笑みを浮かべて近づいてきた長身の店主は、アキナに気づくと軽く身を乗り出して握り拳を差し出した。
アキナは右手の拳をマスターの拳に合わせ、「ひさしぶり」と笑う。
「しばらく見ていないから誰かと思ったよ」
「ここさいきん忙しくてな」
「注文は?」
「酒以外で」
マスターは「バーに来たのに酒を飲まないのはおまえくらいだよ」と笑い、カウンターの向こうに消えていった。
アキナはけっして下戸ではないが、騎士団長に就任してからは一度も酒を口にしていなかった。一種の願掛けのようなものだ。
マスターのうしろ姿を目で追い、腰までしかない背もたれに体を預けると大きなため息をついた。
先日、アルバス国内にあるホムラの難民が暮らす地区で、難民たちが気がかりなことを口にしていたと騎士団員から報告を受けた。
『アルバスの王子がホムラ復興の要』
東の小国ホムラは、五年前からはじまった北との戦争により滅んだ。
その後、行き場を失ったホムラの民らを受け入れるために、アルバスを筆頭に諸国が立ち上がり、各地に難民地区が設置された。とはいえ公に保護された幸運な民は全体の数から見ると圧倒的に少数で、飢餓に震える非公式の難民地区がかつてホムラがあった土地に乱立している。あの東の子ども――サザナミの一家は、彼の語り口からするとおそらく後者であったのだろう。
そして此度の戦をしかけた国主の一族はおおむね自害。なんとも後味の悪い結末であった。
しかし、この北と東の戦争にはいまだに大きな問題が残っている。
終戦以来、ホムラの国主が表舞台に出てきたことが一度もないのだ。
戦に巻き込まれて死んだとか、投身自殺したとか、神隠しにあったとか、流浪の民に身を落としたとか、市井にはさまざまな噂がされているが、真相は闇の中。連合国軍は血眼になって行方を追っている。
そんななか、今回の件だ。
ホムラの民は、厳しい土地に生まれたからなのか団結力が強いと聞く。自国への誇りもいっとう高く、ホムラ滅亡の直前まで政治を仕切っていたのはいわゆる過激派と呼ばれる貴族たちだ。
アキナはテーブルに目線を落とす。
今後、ホムラ復興をめざす過激派がユクスに接触しようとする可能性があるだろう。
――せっかく友だちもできてかつての明るさを取り戻しつつあると思っていたんだがな。しばらく外出は控えてもらうしかない。
「どうしたんだ、難しい顔をして」
上から声が降ってきて顔を上げると、マスターのジルバが気遣わしげにアキナの顔を覗き込んでいた。
「ああ、いや」とアキナはかぶりを振る。
「仕事のことか?」
アイスコーヒーの入ったグラスが置かれる。
「まあそんな感じだ」
ジルバはアキナがこれ以上この話を続ける意思がないことを察知すると、カウンターを出て扉を施錠し、アキナの左隣に座った。
「店じまいにはまだ早いだろう」
「ひさしぶりにおまえに会えたんだ。仕事なんてしている場合か」
ジルバは自分用の酒を手に、アキナの右隣に腰を下ろした。
アキナはそれを横目で見て、アイスコーヒーを一口飲む。
ユクスの母シラユキはホムラの国主の末娘であった。アルバスとのパイプづくりのためにわずか十七歳で嫁いできた。
ホムラでは桜が咲く季節のこと。
シラユキ姫は城下で馬車を降り、わずかな供を連れて徒歩で王城に入城した。好奇の目に晒されていたにもかかわらず、彼女の朱色の瞳は最初からひとつの恐れも映さず覚悟の色に染まっていた。幼くして己の使命を全うせんとする姿勢に、若かりし頃のアキナは尊敬の念を覚えた。
アルバスの民には、姫の濡羽色の髪に朱色の瞳という東の民特有の見た目がめずらしく映った。東の民はみなあのような見た目なのかと、時間と金を持て余した貴族が視察と称して外遊に行くくらいには。
そのめずらしさを抜きしても、シラユキの容姿はいっとう美しかった。彼女の長い髪が風にはためくたびにそこかしこから嘆息があがるような、麗しい少女だった。
しかし、その息子であるユクスには東の見た目がいっさい現れていない。金髪菫色はまさにアルバスの王家特有の見た目だ。
――似ているのは性善説を信じてやまない根っからのお人よしぐあいと、意外と頑固な性格くらいか。
アキナはかねてから抱いている違和感の箱を、つついていいものかと決めかねていた。
――俺がつつこうとしているのは禁断の果実か、それとも……。
東の少年と手を繋いで歩く王子の後ろ姿を思い浮かべ、はあとため息をついた。
それにしてもユクスのあれはたんなる庇護欲なのか、子どもらしい執着心なのか、それとももっと別の感情なのか。
いずれにせよ、これから彼が歩む王族としての人生に確実に不要な感情が芽吹きはじめているのを、アキナはひしひしと感じていた。
おもむろにアキナの右手にジルバの手が重ねられる。はっとして彼を見ると、挑発的な笑みを浮かべていた。
「それで、このあとは?」
「言わなくてもわかっているだろうが」
挑発的な言葉を返すと、ジルバの瞳はみるみる愉悦の色に染まっていった。
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