9 リプカ
寝心地の良いベッドで体を休めていたカイは、窓から射し込む日の光に、まぶしげに瞬きを繰り返した。
目を開けたカイがそこに見つけたのは、視界全体を覆いつくすように自分を覗き込む黒い影。
どうやらそれは、赤い目をしていたらしい。
視線が合うと、ジッと自分を見下ろしているのが分かる。シルエットの中には耳があった。カイはそれに見覚えがあり、挨拶を口にする。
「……おはよう?」
すると、そこにいた黒い影――昨日カイが助けた黒猫は、静かな声で語りかけてきた。
『何を視ていた?』
「え?……夢、かな? 大きな樹と、綺麗な人が居た気がする」
突然の質問に戸惑いながら答えれば、黒猫はただじっとカイを見つめていた。その反応がまるで、こちらを見透かしているようで落ち着かない。
カイは一瞬逃げるように視線を逸らし、そしてふと我に返る。そもそも、猫はどうやってここに入って来たのだろう。
部屋中をぐるりと見渡せば、その理由はすぐに分かった。
「……もしかして、窓から入って来たのか?」
『開けたままだっただろう』
カイの指摘に対し、猫は悪びれる様子がない。むしろ生意気な態度でフイっと顔を逸らしてしまう。
確かに、窓を開けたまま寝た自分にも非はあった。一瞬だけ色々と思ってしまったが、まあ、相手は人間ではないので、人の常識を唱えても仕方がないかと諦める。
すると黒猫は、そんなカイに、予想もしない言葉を投げかけてきた。
『――それよりも、貴様は今日、白の王に会う予定なのだろう?』
「っ!? どうしてそれを……?」
『城の者の中に、口が軽い奴が居たという事だ』
つまり、噂話が好きな誰かから盗み聞きしたということだろうか。まさか、そんな質問をされるとは思わず、動揺を浮かべてしまう。だが、猫が何故そんな事を聞いてきたのか気になり、その真意を探ってみることにした。
「それが、なに?」
すると猫は、その質問を待っていたとばかりに、身を乗り出して訴える。
『俺も連れていけ』
「……え? もしかして、きみ、王様の精霊だったのか!?」
尤もらしい考えがカイの頭を過る。だが、猫の返事はカイが思うよりも複雑な事情を抱えているようだった。
『いや、あいつとは関係ない』
「なら何で?」
『一つ、確かめたい事があったからだ』
白の王国について詳しくて、王様の事を『あいつ』と呼べる関係にあるなら、連れて行っても問題はないだろうか。
そもそも、世界各地で異変が起きている事を考えれば、精霊が何かを調べようとしていてもおかしな話ではない。そう考えたカイは、相手の言葉に従う事を決めた。
「分かった、じゃあ、俺から協会の人には伝える。その代わり、名前を教えてくれないか? “黒猫さん”なんて呼ばれたくないだろ? 改めて、俺の名前はカイ……カイ・エレフセリア、よろしく」
カイがにこやかに名を名乗れば、猫は一瞬だけ目を大きく見開き、そして少しだけ意味深に笑った。
『俺に名を尋ねるとは身の程知らずだな……だが、まぁ良い……俺の名はリプカだ』
「リプカね、よろしく」
リプカと名乗った黒猫と少しだけ距離が縮まったところで、部屋の扉がノックされる。
「――おはようございます、カイ様! 本日の朝食をお届けに参りました!」
扉の奥からは、随分と明るい声が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します!」
カイの合図を受けて扉の奥から姿を現したのは、茶色の髪を一つに結い上げた一人の少女。彼女は、食事が乗せられたワゴンを押して現れるなり、笑顔のまま元気に声をかけてきた。
「今日も体調はお変わりありませんか?」
カイよりも少し幼く見えるその人物は、フワフワのスカートに、黒を基調とした制服に身を包んでいる。
彼女はカイがここに来てから、いつも食事を運んでくれている侍女で、名をリリィと言った。
「うん、おかげさまで」
「それは良かったです」
リリィは慣れた様子でワゴンを部屋に運び入れると、カイの返事を受けてにこやかに微笑んだ。そして、何かに気が付いた様子で声を上げる。
「……あ! 猫ちゃん!!」
リリィが見つけたものは、どうやら
「……そっか、カイ様の猫だったんですね。昨日、お城の中で噂になっていたんですよ」
「え? どんな?」
「お城には結界があって、関係者以外は入れないようになってるんです。それなのに、黒猫が紛れ込んでいたから、兵士たちが『誰が連れてきたんだ!』って走り回ってました。この子はカイ様のお知り合いだったんですね!」
「……」
まさかあの後、城中が自分のせいで騒ぎになっているとは考えもせず、カイは絶句する。
「……ご迷惑をおかけしました!!」
「いえいえ! 別に悪さをしている様子でもなかったですし、私の方からあの猫はカイ様の猫だと説明しておきますね」
「よろしくお願いします」
明るい少女の声がますますカイの肩身を狭くした。そんな事になるなら、城の誰かにきちんと話をしておけばよかったと猛省する。
(だからこれまで城の出入りが自由だったのか)
本当に今更だった。
少し考えれば分かりそうな事だが、これに関しては完全にカイの知識不足である。
迷惑をかけてしまった人々に対し、心の中で謝罪する。
そんなカイにリリィは『気にしないでください』と言葉をかけるなり、ワゴンの上に乗せられた食事を部屋のテーブルへと広げていく。
香りの良いコーンスープに、焼き目のついたパン。きっと出来たてであろうそれは、籠の中いっぱいに積まれているのが見える。飲み物にはミルクが添えてあり、たちまち部屋の中に美味しそうな香りが広がる。
それにしても、一人で食べるにはあまりにも量が多い。
その様子を眺めていたリプカも『さすがに多すぎでは』なんて呟いている。
だが、その声が少女に届くことはなかった。彼女はいつものことだと言わんばかりに準備を済ませてしまう。
「それじゃ、私は行きますね。カイ様のお食事が終わられた頃に、教会の方がお見えになるそうです」
「分かった。いつもありがとう」
「そんな! これが私の仕事ですから。では、失礼しますね」
笑顔のまま少女が部屋を後にすれば、一人と一匹になった室内が静けさに包まれる。
口火を切ったのは、広げられた食事の量に若干引き気味の猫だった。
『貴様はあれを一人で平らげるのか』
「え? あぁ、うん」
『貴様の胃袋はどうなっているのだ』
「さぁ?……でも、こっちに来てから食欲が増えて、これくらい食べないと体が持たなくて」
『それが世界線を超えた代償というわけか』
リプカはカイの返事を受けて、納得したように呟いた。
この猫は一体、どこまで事情を知っているのだろう。
昨日もカイが『異世界から来た』という言葉をすんなり受け入れていた事を考えると、世界で起きている異変についても詳しく知っているのかもしれない。妙に物知りな猫を不思議に思いつつも、カイは場所を移動して食事を始める。
「さぁ、どうだろう? でも食事は好きだし、今のところ支障はないからあまり気にしてないかな」
用意してもらった食事が冷めぬうちに全部食べてしまおうと、まずはスープを口に運ぶ。
口内に広がるコーンの風味に、ミルクのコクが効いた味付け。そして邪魔にならない程度の出汁も非常にバランスが良く、朝の胃袋にはちょうど良い優しさだ。
その味付けに、思わず頬を綻ばせていると、遠くから何やらリプカの突き刺さる視線を感じる。
それに気が付いたカイは、ミルクへ手を伸ばし声をかけた。
「あ、牛乳飲む?」
『要らんわ、俺は猫ではない』
「あー、確かに。精霊だもんな」
つい見た目が猫の姿をしているせいで、猫扱いをしてしまったが、そもそも精霊は食事を摂る必要がないのだ。もし、人の食事を好き好んで行う精霊がいれば、それは単純に人の真似が好きなだけか、食べ物の味が好きかの二択だろう。
それから、カイが再び食事を再開すると、猫は落ち着いた口調で語りかけてくる。
『……――何故何も聞かない?』
その問いは、王様に会いたがっている理由についてだろうか。
それとも、街中で倒れていたことだろうか。
黒猫からの静かな問いかけに、カイは一瞬だけ動きを止めてリプカを見る。そして、薄く笑って答えた。
「まぁ、訳アリっぽいし……それに、話したくないなら無理に聞いても仕方がないだろ」
この世界の詳しい事情について、まだカイにはよく分からない事だらけだ。
精霊には精霊にしか出来ない事があって、リプカにはリプカのやらなければならない事があるのだろう。まあ、強いて言うなら、そこに見える真っすぐな瞳からは一切の悪意を感じない、だからだろうか。
だからカイは、この黒猫は“人に悪意を向けない”と信じられたのだ。
そんな風にカイが小さく笑えば、猫は吐き捨てるように口にする。
『変な奴だな』
それはきっと、少し調子が狂ったのだろう。
そんな猫の言葉を受けて、喋る猫には言われたくないけど、と思うカイだった。
窓の外は珍しく曇天の空が広がっている。もう少しすれば、教会側の案内人が部屋を訪れる予定だ。
(白の王様か……一体、どんな人だろう?)
今日、カイは初めてその人物と対面する。
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