8 喋る黒猫
聖騎士試験を終えた城への出入りは、誰の許可も監視も必要としない自由が許されていた。とはいえ、城外から猫を持ち帰ったとあれば、さすがに問題になりそうな気もしたので、人に出くわさないよう中庭を経由して部屋に戻る。
猫の体についていた汚れを落とした後は、安静にさせるためにベッドで休ませていた。
(特に怪我とかもないんだよな)
念の為、様子を観察してみたが、やはり外傷は見当たらない。カイが一番心配になったのは、猫が連れてくる途中で、一度も目を開けなかったことだ。警戒心がない性格で、純粋に寝ているだけなら良いのだが。
(少し様子を見てみよう)
何か異変が起きても、すぐに対応できるように観察をしていると、黒猫は時折、ベッドの上で寝返りをうったり、窓からの光が眩しそうな仕草を見せていた。
(なんだ、気持ちよさそうに眠ってるだけか)
その様子を見て、もう警戒する必要もなさそうだと肩を撫でおろす。
寝ている猫を起こさないように、離れた場所にそっと腰かけたカイは、ふと視線を窓の外に走らせる。
そこから見える景色は、雲一つない青い空が広がっていた。
*
猫が目を覚ますまで、カイは本を読んで時間を潰していた。彼が手にしていたのは、この世界に伝わる守護天使の物語。
この世界が出来た時に、天使は“生命の樹”と呼ばれる樹を一番初めに大地に与え、最初の生命としたとそこには書かれていた。内容はあまり印象に残らなかったので、ほとんど流し読みに近かった。
そんなことをしていると、視界の隅で黒猫が動く。その気配に顔を上げれば、外はすっかり日が傾いているようだった。
「あぁ、目が覚めたんだな」
目を開けた黒猫の瞳は、これまで見たことがないほど美しい深紅の色をしているようだった。
猫は何度か瞬きを繰り返すと、ハッとしたように飛び起きる。
その動きはさすが動物といったところだろうか、俊敏だ。
「あ、ごめん驚かせたな」
いくら猫が気持ちよく眠っていたとしても、目覚めた場所が見知らぬベッドの上では警戒されてもおかしくない。しかも、初対面の人間が近くに居るとなれば、猫からすれば恐怖でしかないだろう。
カイは慌てた様子で猫から距離をとる。
何もしない事を訴えるように、カイが両手を後ろ手に隠すと、猫はその様子を窺うようにゆっくりと目を細めた。
『貴様何者だ』
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。聞き間違いかと、辺りを見回しても、この状態で自分に話しかけてくる者など、どこにもいない。そんなカイを正面に、猫は再び話しかけてきた。
『貴様は、何者だと聞いている』
「……もしかして、喋った?」
『聞いているのはこの俺だ、答えろ!』
カイがあまりにも間抜けな声を出すものだから、苛ついた様子で黒猫が叫んだ。
喋る黒猫の言葉は、不思議な響き方をして耳に響く。口を動かしていることから、その口から言葉が語られているのだろうが、とっさの事に理解が遅れる。
明らかな警戒を見せる黒猫は、威嚇するように唸りながらカイの動向を観察しているようだった。
そしてようやく、カイは答える。
「……えっと、俺はカイ、今は城の一室に住まわせてもらってる人間かな」
『城だと? 何故貴様のような人間が城に居る』
「それには深い事情があって……俺はこの世界とは違う場所から連れて来られた人間で……」
『なに? では、ここはファティルだというのだな?』
「そう、だね」
異世界からやってきた、という単語ですぐに国名を口にしたということは、各国の内情に詳しい猫なのだろうか。
カイからの返答を受けた猫は、警戒を解くように座る体勢へと変わる。その姿をよく見ると、尾の部分は楕円型の短い形をしているようだった。
『なら、貴様が俺をここに連れてきたのだな?』
「街で倒れていたから、さすがに無視できなくて……」
どんな口調で会話をしてよいものか分からず、カイが迷いつつも答えると、猫は納得した様子で窓の淵に飛び乗る。
『状況は理解した。助けてくれた事には礼を言うぞ』
すると、黒猫は去り際にそう告げるなり、颯爽と窓から出て行ってしまう。
「……行っちゃった」
まるで風のように姿を消した黒猫に、カイは茫然と呟いた。
そもそも、あの黒猫は一体何者だったのだろう。
(もしかして精霊、だったのか?……初めて見たな)
カイが以前居た世界にも、精霊と呼ばれるものは居た。だが、その姿を実際に目の当たりにするのは今回が初めてだった。
人語を理解し、会話が成立していることから、あの黒猫がただの猫ではない事はもう決定だろう。この状況で考えられるとすれば、やはり猫が精霊と呼ばれる存在の可能性だった。
本来精霊は自然にあふれる場所に居ることが多いとされている。だが、そんな存在が何故街の中に居たのかは分からない。
この世界に来てからというもの、驚かされてばかりだなと思うのだった。
*
その日の夜、カイは不思議な夢を見た。
それが夢だと分かったのはきっと、広がる光景が、あまりにも美しかったせいだ。
(凄い)
上空には、はるか遠くまで広がる星空があった。辺り一面を覆いつくすのは、静寂を誘う夜の闇。空に月はなく、心地の良い風だけが頬を擽っているのが分かる。
見渡せるほどの広さが存在するそこには、離れていても大きいことがわかる大樹が聳え立っているようだった。周りの景色が薄っすらと把握できたのは、それが自ら青白い光を放っていることが理由のようだ。
その大樹が存在している部分は、湖に囲まれた陸の中心にあるらしく、カイの背後には空を反射する水面が映し出されていた。
一歩、また一歩と吸い寄せられるように大樹へと歩み寄れば、その樹の下にはカイ以外の姿もあるようだった。
『誰ですか?』
相手は真剣に祈りを捧げていたようで、カイの気配にふと顔を上げる。
そこにいたのは、緑色の美しいローブを身に纏う、一人の女性だった。
穏やかな風に揺れる長い髪はブロンドの色をしており、白く透き通る肌に、整った目鼻立ち。すれ違えば誰もが目を奪われるような、美しい人がそこには居た。
特にカイが目を奪われたのは、宝石を思わせる緑色の瞳だ。彼女の瞳の中には、特徴的なクローバーの紋が浮かんでいるようだった。
『あなたは、確か……』
相手はカイの姿を視界に捉えると、どこか知っている様子で語りかけてくる。
『どうやってここに来たのですか?』
薄っすらと唇に笑みを浮かべたまま質問され、カイは戸惑いながら答えた。
『気が付いたらここに……』
『そうですか、もしかしたらあの樹が貴方を呼んでいたのかもしれませんね……ですが、だめですよ、人の“夢”の中に不用意に足を踏み入れては』
『……え?』
女性は何かを知っているようにそう諭すと、続ける。
凛とした鈴のような、美しい声だった。
『“お戻りなさい”』
『――っ!』
(あれ、何で……?)
その言葉がまるで引き金だったように、瞼が重たくなる。
急激な眠りに誘われる感覚に抗おうとするも、やがて世界は真っ暗な闇に呑まれていた。
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