第2話 天使の入れるソーダはしょっぱい(後)
この日、あたしは非番だった。
非番なのだが、アメリカから取り寄せた新しい術式の論文を読みたいと思っていたので、それを読もうと喫茶店へ行った。
それはもはや、仕事と変わらないと思ってはいた、
思ってはいたのだが、癖のように、やめられないのだ。
職業病なのだろうな、とあたしは思った。
あたしは喫茶店に入り、席へ座ると、ドサドサと読む論文を広げた。
それから、年配そうな店主に、注文をした。
「ハワイソーダを一つ」
あたしはグラスの水を一口飲むと
すぐに、論文を読んでいく。
その論文は、英語ばっかりだが、もう見慣れたもので、逆に英語じゃないと見づらいとさえ感じてしまっていた。
以前は、アメリカにも3年、住んでいた。
すっかり日本離れしたなと自分でふっと笑った。
あたしが、さらに論文のページをめくろうとしたとき、
そばに店員が立っているのが、目の隅で見えた。
ソーダを持ってきた店員だろうと思い、
あたしの目は論文に泳いだが、その店員は2秒経ってもソーダをテーブルに置かなかった。
そこであたしは、おかしいと思い、
店員の顔を見た。
その店員は若い女性で、あたしと同い年くらいに見えたが、
その顔を見た瞬間、あたしの心臓がドクンと鳴った。
あたしの心臓が言った。
『この女性を知ってるー』
あたしはその女性の顔をまじまじと見てしまったが、
その女性はというと、あたしの顔を大きく見開いた目で見て、
軽く震えていた。
その女性は何も話さず、またソーダのグラスを置こうともしない。
あたしは、衝動的に
思わず、その女性にこう言っていた。
「あの、あたしたち、どこかで会ったことある?」
そう言われた店員の女性は、はっとした顔つきになり、
「い、いえ」
と、震える声で言った。
その女性の顔を見ると、なぜかあたしは、
どうにも聞きたくてどうしようもない疑問がなぜか心の中で浮かぶのを感じた。
その疑問がなぜ生じたのか、あたしはさっぱり分からなかったが、どうも聞かずにおれないものだった。
「あなた、変なことを聞いてごめんね。
お母さん、元気?」
そう言われた彼女は、目に涙を浮かべ、はあっと大きく息をして
言った。
「覚えていらっしゃるのですか?
母のことを」
それを聞いてもあたしはピンとこなかったので、
ごめん、どういうこと?と思わず、聞いてしまっていた。
「母は、1年前、重い病気になりました。
助からないと言われた母ですが、ある腕のいい医者がアメリカからきて、
手術をしてくれたんです。
それで母は、治りました」
そこまで言われたあたしは、はっとした。
日本では治らないと言われた悪性の腫瘍を摘出するために、あたしは、1年前に来日し、ある女性の手術をしていた。
普通なら、他のオペが入っていたら、構わないところだが、なぜかその依頼を受けずにはいられなかった、あれは衝動的なものであった。
「あたしは、その先生の顔を生涯、忘れません。
先生は遠くからみていたあたしのことは知らないと思います。
でもあたしには、
その先生は、天使でした。
あなたですよね?
先生」
それを聞いたあたしの胸は熱くなった。
わざわざ海を渡った甲斐があったという気持ちもあるが、
それ以外にも、なぜかこみ上げる感情があった。
なぜだろう、天使、という単語が、とても懐かしく感じた。
「そっか。あなたはあの人の子供かぁ。
お母さん、元気になって良かったね。
天使をやめた、
ああ、違った、天使になった甲斐があったよ。
というかさー
あたしたちさ、同い年でしょ?」
あたしは、そう言ったが、自分で言っておいて、
そういえば自分と目の前の女性がなんで同い年だと思ったんだっけな?
と意味不明なことを考えていた。
その理由は、少し考えても、分からなかった。
「その先生っての、なんか聞き慣れなくてだめだわ。
友達から、
始めてくれない?」
そう言ったあたしの言葉に、彼女は、真顔で、え、と答えた。
まるでそんなことを言われるとは思っていなかったというような
感情を探すような顔つきをしていた。
それから、彼女は初めて、顔に明るさを生んだ。
その時の、表情筋の動きから、彼女の目に溜まっていた涙が一滴、
頬を垂れた。
その白い涙は
頬を伝うと
まるで天使のように
顔を離れた。
そして、空を舞うと
地球のように青いソーダの中に、飛び込んで
消えた。
それを見ていたあたしたちは
「あ」
と声を揃えて言った。
完
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