本編
公園に入った時から思っていた。夏休みとはいえ、人が多い。密になって蠢く、群れ、群れ、群れ。重なり合い、一つの大きな個体として動いているかのような。
「混んでるな」
隣を歩くアキトに向けて言うと「あぁ」という返事と共に右手を握られた。
新月の夜とはいえ、そこかしこに街灯はある。けれども、それらが作り出す影の濃淡が、闇の深さを余計に際立たせる。
ふらりふらり、と僕らは足を進めた。まずは辯天堂へ。それがルールの抜け道。
と、視界の隅で大きく影が動いた。続いて響く葉っぱ同士が擦れ合う音。地響き。振動。
アキトの手に引かれ、駆け出す。
振り返った目に映ったのは、僕らに向かって広がる、暗闇。
「追いつかれるな」
アキトの叫び声に、言葉を返す余裕はない。息が上がる。身体の真ん中で、心臓が踊り狂ってるみたいだ。
走って、走って、走って。
ようやく建物が見えた。薄黄色の提灯に浮かぶ緑の屋根。
思わず力が抜けた僕の腕を、アキトが引っ張る。
その瞬間、真後ろで重たい岩を落としたような音がした。べしゃっと何かが飛び散ったことも感じた。
一度、二度、三度……六度を数えたところで、ふわりと身体が浮く。
アキトと僕は、それぞれ巨大な手のひらに掬い上げられていた。八本の腕を持つ神は、残りの手でにじり寄る暗闇を押し潰している。
「生者は死者に、死者は悪鬼に、追い立てられるのがこの夜の定め。守りも無しに、何処へ向かう?」
「ここに来れば、お守りをもらえるって聞きました。ちゃんと宝物を渡します」
アキトの声に力を得て、僕はポケットからビー玉を取り出した。去年の夏に妹と一緒に買ってもらったやつだ。
ふっと微風が吹いたかと思うと、ビー玉は手の中から消えた。同時に、くしゃくしゃした真っ赤な布でできたお守りが首から下がる。
二本の腕は僕とアキトを橋の向こうまで運んでくれた。
「ありがとうございます」
声を合わせてお礼を言ったけれど、腕の持ち主からの返答はない。
「よし、行こう。たぶん鯨のところだ」
駆け出したアキトの胸元でお守りが揺れる。大人たちの足の隙間をすり抜けて、僕たちは走った。文化会館の前を通り、美術館の建物を横目で眺める。
D51形蒸気機関車の煙突から煙が出ていた。車輪の軋む音。汽笛。運転席から顔を出したおじさんが、指を前に突き出し、低い声で合図を出す。
「やっぱり、これなら……」
アキトの声が切れ切れに聞こえてきた。問い返そうにも僕はすっかり息が弾んでいる。
僕たちがスピードを緩めたのは、天に向かって泳ぐ鯨が目に入ったからだ。足を前に出すペースも、歩幅も、だんだんと下がっていく。
あと十歩くらいで鯨の真下に着く辺りで、アキトはとうとう足を止めてしまった。繋ぎ直した左手は小さく震えていた。
「マユ……」
アキトが手に力を込める。視線の先には黄色のワンピースの小さな女の子。
「あ、お兄ちゃん!ダイスケくんも!」
僕たちに駆け寄ってこようとしたマユちゃんが、何かに押し戻されたかのように尻餅をついた。彼女は顔を歪めたけれど、僕もアキトも、動くことができない。
マユちゃんは死者だから。
去年の夏に交通事故にあった、アキトの妹。お葬式のときに見た真っ白い顔は瞼に焼き付いている。
アキトのお父さん、お母さんだけじゃなく、僕のママたちもすごく悲しんでいた。妹のサクラだって、ようやく泣かなくなったくらいだ。
けれど、本当に会えた。
マユちゃんにじわじわと近づいてくる人たちの中にも知っている、いやよく知っていた顔がいくつも見える。
幼稚園のときに死んじゃったおじいちゃんとか。いつの間にか来なくなった小学校の先生とか。
この祭の噂通り、生者と死者と悪鬼が、多重露光したみたいに同じ空間を埋めている。
「マユ、ごめん。公園に置いてったからだって、母さんが。だから」
アキトは僕の手を振り解くと、マユちゃんに一歩、また一歩と近づいていく。死者たちが距離を取る、その足音がざっざっと鳴った。
取り残されたマユちゃんの前に立ったアキトは、胸元のお守りを右手で掴む。彼がそれを首から取り外すと、マユちゃんは立ち上がり、アキトの足にしがみついた。
その瞬間、二人の姿が、どろりと溶けて消えた。
祭の夜 @rona_615
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