第4話
嘘のように、風がやんだ。
静かだ。世界が急に死んでしまったかのように、物音ひとつしない。
俺は恐る恐る起き上がって、陽太に顔を向けた。
「だいじょうぶか」
陽太は俺の胸から顔を離し、
「うん、ちょっと痛いけど」
スマホの光が、陽太の肘に切り傷を浮かび上がらせた。葉先の鋭い葉で切ったようだ。
嘗めてやろうとすると、
「ダメだよ、そんなことしたら、かえってバイキンが増えるって」
と、自分でポケットからハンカチを出しで傷口に当てる。それから、顔を上に向けた。
「どこ? じゃんけん鬼は、どこなの?」
俺も頭上を仰いだ。群青色の空が広がっていた。いつのまにか、丸い月が出ている。さっきよりも明るい。
「僕、勝ったよね?」
「ま、まあな」
そう答えたものの、俺にはやっぱり鬼の存在が信じられなかった。陽太とじゃんけんをした鬼――あれがほんとに鬼だとしたら――は、恐怖が見せた幻覚だったんじゃないか。俺たちは、バラバラ殺人事件の犯人に襲われた。必死で逃げまくった。だから、あんなものを見てしまったんじゃないか?
そのとき、俺は背後に何かの気配を感じた。この気配は、なんと説明していいかわからない。第六感が働いて――そんなものが俺にあるとは驚きだったが――後ろを振り返った。
「ぎゃあぁああ!」
あとで陽太が言うとこでは、このときの俺の叫び声は、カエルとヘビと、それから犬のうんちを同時に踏みつけたときみたいだったらしい。
叫び声と同時に俺は走り出していた。陽太の腕を引っ張って、闇雲に、突き進んでいた。
あんなものが目の前にいたのだ。
赤い、いや、赤黒い顔だった。ボサボサの頭髪は、猛禽の巣を思わせた。目といえばぎょろりとして、その上に付いている眉毛がブラシみたいで、鼻は大きなニキビみたいだった。
いまにも食べられそう。
まさにその表現がぴったり。粘土で枠組みを作ったような、ありえない大きさの口だった。
無我夢中で俺は走った。バラバラ殺人犯人から逃げたときと同じように、走って、走って、ただ走って。
後ろを振り返る余裕はなかった。どつどつと、地面を蹴る音が付いてきた。音は重くて、地響きみたいだった。
ようやく人家の明かりが見えるところまで来たとき、俺はもう、生きた心地がしなかった。二度も恐ろしい目に遭うとは、なんてついてないんだ。
畑の一本径に立つジュースの自動販売機の横でぐったりとしゃがみ、ともかく逃げ切れた安堵感に浸った。
普段、粘土や丸太と格闘ばかりで、走ることなど滅多にない。こんなときのために、ランニングを習慣にしようかと本気で思う。
と、陽太が頬を膨らませて俺を睨んだ。
「なんで逃げたんだよ!」
「は?」
「せっかくじゃんけん鬼に会えたのに!」
俺は力なく、首を振った。
「あれは、鬼なんかじゃない」
言いながら、俺は自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「どっかの頭のおかしいやつが、鬼のコスプレをして俺たちを驚かせたんだ」
「違う!」
陽太は地団駄を踏んだ。
「あれはぜったいじゃんけん鬼だよ! だってじゃんけんしたじゃないか。それで、負けたから僕らのところへ降りて来たんだ!」
小学生の夢を壊してはいけないと思う余裕は、もう俺にはなかった。
「いい加減にしろ。都市伝説を利用して、イタズラするやつに騙されてどうすんだよ」
「違うったら」
「違わない。あんなのと関わってたら、妙なことに巻き込まれるぞ。その前には矢が飛んできたんだし、丑寅の森には馬鹿なやつがうろうろしてるんだ」
矢が飛んできた恐怖を思い出したのか、陽太の勢いがしぼんだ。
俺は立ち上がると、
「帰るぞ」
と、顎をしゃくった。
丑寅の森の約束 popurinn @popurinn
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