第3話

「ここ、どこ?」

 

 真っ暗な空を見上げて、陽太が呟く。


「左側の径を走って来たからな、多分、ここが行き止まり」

 実際、うっすらと浮かぶ地面の先に、もう径はないようだった。

「危ないところだった……」

 俺は地面にしゃがみこみ、大きく息を吐く。

「さっきのもしや?」

「そうだよ。きっとバラバラ殺人犯だ」

 わっと陽太が叫び、そして両手で口を覆った。

「殺されそうだったってこと?」

「そうだよ。半年前にこの森で見つかった死体には、弓矢かなんかが刺さった痕があったって話だろ。さっき、飛んできたじゃないか、矢みたいなのが」

 そう言った途端、頭上でバサバサッと何かが動く音がした。

「わああっ」

 陽太がしがみついてきた。その陽太を抱きしめて、俺は体を固くする。

 息を詰めて、耳を澄ました。

 音はやがて、やんだ。多分、鳥かなんかだろう。


「出なきゃな」

 だが、帰り道は一本しかない。バラバラ殺人犯が待ち伏せしていたら、どうしよう。

 助けを呼ぼう。

 俺はそう思った。警察に電話すべきだ。バラバラ殺人犯とおぼしき人物に襲われたのだ。警察はすぐに駆けつけてくれるだろう。

 ズボンのポケットからスマホを取り出し、俺は110番をしようとした。

 と、そのとき。

 俺の首筋に、すうーっと冷たい風が流れてきた。若干、外よりも気温が低い森の中だが、それにしてもこのひんやりした風は奇妙だ。

 陽太が弾かれたように立ち上がった。

「な、なんだ?」

 俺は陽太を仰ぎ見た。といっても、顔の表情まではっきり見えるわけじゃない。晴れているのだから、そろそろ月が出てきてもよさそうなのに、まだ空は群青色をしたままだ。


 陽太がふたたびしゃがみこんで、俺の耳元に顔を近づけてきた。

「出たよ」

 陽太の熱い息が俺の耳にかかる。

「出た? 何がだよ」

「決まってるじゃん、聞こえなかった?」

「何が」

「だから、勝負するぞって」

 陽太のささやき声は、震えていた。恐怖でというより、どこか楽しげだ。

「何言ってんだよ」

 バラバラ殺人犯に襲われたあとなのだ。じゃんけん鬼のことなんかしゃべっている場合じゃない。だが、陽太は、興奮が抑えられない様子で続ける。

「今、冷たい風が吹いたよね? お兄ちゃんも気づいたよね?」

「それはな」

 俺はスマホの光を前方に当てた。青白い光が、辺りをわずかに明るくする。

「ほら、洞窟があるだろ? あそこから風が流れて来たんだよ。洞窟の中はひんやりして涼しいからな」

 ほんの数メートル先に、濃い闇が口を開けていた。風はきっとあそこから流れてきたに違いない。

 と、ふたたび風が吹いた。上からだ。風は上から吹いてくる。

 ぞくりとした。風の冷たさにじゃない。何か、もっと別なものに。


 まさかね。


 ありえないよ。


 そう思っているのに、俺は顔を上へ上げる勇気が出てこなかった。陽太の言う「じゃんけん鬼」の存在なんて、俺は断じて、断じて信じてない。それなのに、頭上を仰ぐ勇気が出てこない。

 ぎゅっと、陽太に手を握られた。ぬるっと滑りそうなほど汗をかいている。

 意を決したように、陽太が勢いをつけて、顔を上げた。


「あ」

 陽太が叫んだ。つられて、俺も顔を頭上に向ける。

「……マジか」

 陽太に握られた手が痛いほど絞られて、それで俺も思い切り握り返して、絶句した。

 いたのだ。木の枝に、それは捕まっている! いや、ぶら下がって? 座って? なんとも言い難い。とにかく枝と枝の間に、いる。

 猿みたいだった。それも、小猿。半裸で、腰に何か藁のようなものを巻き付けている。スマホの光で、顔が見えた。暗くてはっきりはわからないが、目がぎょろりとしているのは見える。そして顔の半分もあるかと思える大きな口。

――鬼だ

 ふいに、陽太が手を放し、そして上へ振り上げた。

「じゃんけん、ぽん」

「お、おい」

 うろたえた俺は、陽太を止めようとした。今すべきことは、じゃんけんじゃない。逃げるべきだろう?

「じゃんけんーん、ぽん」

 陽太の声が、大きくなった。見ると、陽太の手先は二本指になっている。チョキだ。

 鬼のほうは?

 鬼は手を開いていた。パーだ。

 ということは……。

「勝ったあーー!」

 陽太が叫んだと同時に、強く風が吹いた。まるで、嵐が来たかと思えるほど、強くて大きな風だった。

 森全体が揺さぶられた。けたたましく鳥の鳴き声が響き、それからどこから飛んできたのか、枯葉の束が目の前で渦を巻いた。渦はあっという間に大きくなり、こちらに迫ってきた。

「わああ」

 風にあおられて、俺は陽太といっしょに地面に転がった。もう、何がなんだかわからない。恐怖というより、夢でも見ているような感覚だ。

 ただ、どんなことがあっても、陽太の手を離してはならないと必死だった。母親の顔がふいに浮かんだのだ。陽太にもしものことがあったら、母親はどれだけ悲しむだろう。

 

 いや、そうじゃない。

 

 もし、陽太がいなくなったら、俺は二人から引き離されるんじゃないか。その恐怖に慄いたのだ。

 父親が二年前に病死してから、俺は殊更に、陽太の「兄」であろうとしてきた。父親がいなくなってしまうと、家の中で、俺だけは他人になった。血のつながりのない俺は、いともたやすく、二人から離されるんじゃないか。

 父親がいなくたって、母親が俺を追い出すはずはない。それはわかっている。理屈でも心でも、よくわかっている。だが、どうしても拭えないのだ。俺は二人のほんとうの家族なのか?そして、俺はここにいてもいいのか? そんな疑問が拭えない。

 叫びながら地面を転がって、俺は陽太を抱いたまま、草むらの中でようやく止まった。


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