第2話

 丑寅の森に鬼が棲んでいるなどという話を、俺は本気で信じたわけじゃない。

 ここはごく普通の田舎町で、恐ろしい伝説があるような場所ではないし、まして、じゃんけん鬼だ。

 

 もっと恐ろしい、禍々しい名前ならともかく、じゃんけん鬼とは。いかにも、小学生が付けたっぽい名前じゃないか。

 

 それなのに、次の土曜日、陽太といっしょに丑寅の森へ行ったのは、陽太の話にちょっとだけ引っかかるところがあったからだ。

――冷たい風だよ。

 陽太はそう言った。空から降りてくる冷たい風とともに、どこからともなく鬼が現れると。

 誰にも話したことはないが、俺には怖い記憶がある。幼稚園の頃のことだ。死んでしまった母親がまだ生きていたとき。

 母親といっしょに散歩をしていると、なぜか、つないでいた母親の手を離してしまい、迷子になってしまった。母親を呼び泣いていると、ふいに冷たい風が吹いてきた。陽太が言ったように、風はまさに降りてきた感じだった。

 あのとき、辺りがふいに暗くなって、目の前に大きな影が立った。そう、まるで大きな鬼のような。


 角が見えた気がしたのは、きっと幻覚だろうと思う。

 俺は大声で叫び、どこからか誰かが現れて母親のもとへ連れて行ってくれたが、あのときの恐怖は、いまでも心のどこかにある。

 そんなことがあってから日を置かず、母親が亡くなった。俺の中で、あのときの大きな影は、母親を連れ去ろうとした何かだと思えてならない。だから、陽太の話が、全部小学生の作り事とは思えなかったのかもしれない。



 丑寅の森までは、川の土手道を進む。のどかな道だ。朱くなりかけた空に、カラスが飛んで行く。

 ジーンジーンと、セミの声がうるさかった。足元には、家路に着くのか、アリが列をなして忙しそうに進んでいく。

 なぜ、こんな時間に出かけてきたというと、陽太が言うには、

「じゃんけん鬼は、夕方しか現れないんだ」

 夕方なら尚更、陽太一人で、丑寅の森へ行かせるわけにはいかなかった。

 もう、テレビのニュースにも流れてこないし、ツイッターで話題になってる様子もないが、丑寅の森はバラバラ殺人があった場所なのだ。しかも、犯人はまだ捕まっていない。

 

 だからというわけじゃないが、丘の麓まで来たとき、なんとなく嫌な感じがした。   

 空はまだじゅうぶん明るいし、丘のまわりに広がる畑はほのぼのとしているのに、森は暗くて薄気味悪かった。

 とにかく通り抜ければ、陽太も満足するだろう。

 俺はそう思って、陽太の手を握り、森の中へ入っていった。

 

 わずかな記憶を頼りに、径を進んでいく。

 小学生の頃、やっぱり陽太と同じように、この森へ友だちといっしょに冒険に来たことがあるのだ。

 あの頃、じゃんけん鬼の話を聞いた覚えはないから、新しくできた都市伝説なんだろう。

 

 そう広い森でもないはずなのに、目的の場所までは長く感じられた。思っていたよりも、森の中が暗いこと。そして、俺の頭の中には、ついこの前起きたばかりのバラバラ殺人事件があった。もう、テレビで見たような警察のテープで囲われている場所はないが、そこかしこに、人が踏み入ったあとらしく、草が不自然になぎ倒されている。 


「もうすぐ径が二股に分かれるよ」

 後ろで陽太が言った。なんだか、声が暗い。頭上で揺れる梢に怯えているようだ。

 大きな木が見えてきた。何の木かわからないが、枝が両側に張り出し、もわっと葉が茂っている。径が二股にわかれるところだ。

「あそこで待つんだったよな」

「うん」

 心なしか歩幅が短くなった陽太を後ろに、俺は進んでいった。このところ、雨が降っていないせいで、地面は乾いている。歩くたびに、カサカサと枯れ草が音を立てる。

 径は分かれた。


「ここだな」

「うん」

 陽太は不安気【ふあんげ】な表情で、頭上を仰いだ。じゃんけん鬼などというかわいらしい名前だが、鬼であることに変わりなく、やっぱり陽太は怖いのだ。

「じゃ、呼ぼうか」

 陽太が叫べないなら、代わりに叫んでやろうと思った。鬼などいるはずはないが、陽太を怖がらせるのもちょっとおもしろい。

 すると陽太は思いつめた目をして、

「ううん、僕が呼ぶ」

と呟くと、胸を反らせて大きく息を吸い込んだ。


「じゃんけーーーーん、ぽーーーん」

 陽太の声が、薄暗い森に吸い込まれていった。

 サーッと梢が揺れる。バサリと、何かの鳥が飛び立つ。

 当たり前だが、何も起こらなかった。

「じゃんけーーーんぽーーーーーーん」

 陽太がもう一度叫んだ。

 森は静かなままだ。


 じっと頭上を睨んだままの陽太は、やがて、口をへの字に曲げた。

「今日はさ」

 俺は陽太の肩に手を置いた。

「鬼は休みの日なのかもな」

 わけのわからない慰めを言ったが、陽太は怒った顔のまま、俺の手を振り払う。そして、ふたたび叫んだが、やっぱり何も起こらなかった。

「帰ろうぜ」

 想像通りの展開なのだ。鬼なんているはずもない。だから、鬼が出てくるはずがないのだ。だが、ちょっとだけ、残念でもあった。ほんとに鬼が出てくるんじゃないかと心の隅で期待があった。まさかね。


「もうちょっと待ってよ」

「無理だって」

 激しく首を振って、陽太は叫ぶ。

「じゃんけーーーんぽーーーん」

 鬼の代わりに、頭上でカラスが鳴いた。木々の隙間から覗く空は、もうすっかり暗い。 

 と、そのとき、背後で何かが動く音がした。枝を払う音だ。

 わっと叫んで、陽太が俺の腰にしがみつく。

 動物だろうと思った。このあたりは、畑にイノシシが出る。

「だいじょうぶだよ」

 と、ふたたび不穏な音がした。音は近くて、なんだか生々しい。陽太の片手をぎゅうと掴んで、そっと振り返った。

 

 まさか、鬼? 


「あっ」

 俺は叫んだ。人影が見えたのだ。暗い木立の中、よく見えたわけじゃない。多分、男だということ。身長は俺よりも大きそうで、俺は百七十八センチだから、そんな俺よりも大きいということは、かなり大柄な男だということ。


「誰かいますか」

 俺は訊いてみた。咄嗟に警察官かもしれないと思ったのだ。バラバラ殺人事件が起きた場所だ。犯人は捕まっていないのだから、その後も警察官が見回りをしているかもしれない。

 相手からの返事はなかった。代わりに、途端に眩しい光に目を射られた。どうやら懐中電灯を点けてこちらへ向けられたらしい。

「やめてください。僕ら、不審な者じゃありませ――」

 ふいに、光が方向を変えて、相手は走り出した。その瞬間、一瞬だが、男の顔が見えた。男は黒い目出し帽をかぶっていた。

 俺の頭の中で、目出し帽男とバラバラ殺人事件がつながったのは言うまでもない。

 ヤバい。逃げなくては。

 その瞬間、ヒュッと金属的な音がして、何やら顔の横を通り過ぎていった。

「ギャッ」

 俺は叫び声を上げ、肝が冷えた。

 

 い、今飛んできたのは、も、もしや?

 

 頭の中で恐ろしい想像が駆け巡り、その想像が形になる前に、ふたたび何かが飛んできた。

 俺は咄嗟に陽太の腕を引っ張って、走り出した。

 マジ、やばいよ! バラバラ殺人犯じゃないか!

 俺は左側の径へ走り出した。意味なんかない。たまたま、足先が左へ向いていただけ。

 目出し帽男のライトが、俺たちを追ってくるのがわかった。棒みたいな光の線が、地面や木立に突き刺さる。

 

 バラバラ殺人犯は、次の獲物を狙っているんだ!

 恐怖で俺の心臓は飛び出しそうだった。胃はひっくり返り、吐き気もした。

だが、立ち止まるわけにはいかない。なんせ、陽太を連れているのだ。

 走って走って、途中から、

「腕が痛いよ、お兄ちゃん!」

と陽太が泣き声になったので、陽太を抱き上げてさらに走った。陽太は両腕を俺の首にかけ、必死でしがみつく。

 

 どれくらい走っただろう。

 

 気が付くと、もう、追ってくる光はないようだった。

 

 はあはあ。

 俺はようやく立ち止まり、背中の陽太を地面に下ろすと、そのまま土の上に倒れ込んでしまった。


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