丑寅の森の約束
popurinn
第1話
俺には自慢の弟がいる。勉強もまあまできるし、運動神経もいい。
こういうタイプだと、大抵性格が傲慢だったり、
正直、俺とはまったく似ていない。母親が違うからか、それとも、世代の差からくるもんなのか。
陽太は小学三年生。俺は大学一年だから、年の差は(浪人も留年も俺はしてない)、九歳と二ヶ月。いまでも、ときどきいっしょに風呂に入る。小さい風呂なのに潜水したり、水をかけあったり。子どもっぽい遊び方が、陽太はまだ好きだ。
そんな陽太が、先週、ちょっと暗い顔をして学校から帰ってきた。塾なんか行かなくてもちっとも困らない陽太は、夏休みの間も、たっぷり、地元にある
「お腹空いたー!」
と大声を上げるのに、あの日は違った。ぼとんと防具を玄関先に置いて、
「はー!」
と、ため息までついた。
「どうしたんだよ」
俺はゲームの画面を睨んだまま、尋ねた。俺は美術大学の彫刻科に通っている。粘土や木や、とにかくいろんなものを使って、日々、物体(芸術作品とはあえて言わない)を造り出している。授業はあってないようなもので、やたら、課題提出作品ばかりが多く、夜遅くまで大学のアトリエで物体相手に唸っている。だから、あんなに早く家に帰れて、ゲームをしてるなんてめずらしかった。
「別に」
陽太は口を尖らせ、手も洗わないで、キッチンに行き、乱暴に冷蔵庫を開けて、母親が作り置きしてある麦茶を取り出して飲み出した。
なんとなく気になった俺は、ゲームをやめて、キッチンへ行った。
冷蔵庫のドアに顔を向けたまま喉を鳴らして麦茶を飲んでる陽太の、汗で少ししっとりしている髪をくしゃくしゃとした。
「おい、どうしたんだよ」
すると陽太は、こっちに顔も向けないで、
「試合、負けたんだ」
陽太の所属する持田剣道教室は、かなり弱い。町にある剣道教室の中でいつも最下位あたりをうろうろしている。
「クッソー!」
そう怒鳴って、陽太は、夕食になるまで顔を出さなかった。
俺には陽太のほかに、もう一つ自慢するものがある。
この、俺が生まれたときから住んでいる持田町だ。
持田町は、関東平野の西よりのはずれにある、新宿から伸びている私鉄の終点からひと駅前に広がる町だ。
特にめずらしい名産品や、話題になるような風光明媚な場所があるわけじゃない。
駅前にはさびれた商店街があって、町をぐるりと囲むように走る国道沿いには、チェーン展開する食べ物屋が並んでいるという、典型的な田舎町だ。不便ではないけれど、刺激的な場所も、おしゃれをして出かけたくなる場所もない。
そんな町のどこか自慢なんだって?
それは、来てみないと、いや、住んでみないとわかんないかもな。
駅前からつながる住宅街を歩くと、すぐにのどかな田園風景にぶつかる。いや、田んぼっていうんじゃないな。畑。黒い土の上に、キャベツやブロッコリーがゴロゴロ転がっているのをよく目にする。
そして、そんな畑の先には、小山と言いたくなる丘がいたるところにある。丘にはこんもりと木々が茂って、ずっと昔は、この一帯が武蔵野の森だったんだろうなと思わせてくれる。
その風景がいいんだよな。
ゆっくりと呼吸するときみたいに、ちょうどいい間合いで平野の中に緑の丘があるんだ。その間隔が、いい。
日本全国、いろんな場所へ旅行に行ったわけではないが、こんな町はそうないんじゃないかと思う。
生まれた場所だから、そう思うんだろうって?
まあ、そうかもしれない。毎日眺めていれば、いろんな発見があるもんなんだ。畑の中の道に、黄色い帯みたいな線がつながってて、何かと思ったらたんぽぽの花だったり、丘に植わる木々の形が、季節によってもこもこしたり薄くなったりするのもおもしろいし、一本だけ飛び出している大きな木の梢に、なんの鳥だかわからないが、止まって囀っているのを見るのも楽しい。
多分、俺は、ずっとこの先も、この町を出て行かない気がする。今は都心の大学へ通っているが、就職先は、できればこの町でと思っている。大学で、奇妙なオブジェばかり造っている俺に就職先があったらの話だが。
ごく平坦に時間が過ぎていく持田町だが、半年前、まだ冬物のぶ厚いダウンコートが手放せなかった三月のはじめ、町を震撼させる事件が起きた。
なんと、丘の一つで、バラバラ殺人事件が起きたのだ。それも普通のバラバラ殺人事件じゃない。見つかった遺体には、弓矢のようなものが抜き取られた痕がたくさんあった。要するに、犯人は、獣を射るみたいに殺人を犯し、それから遺体をバラバラにして捨てたようなのだ。
事件が起きたのは、
町にある丘の森には、公園があったり、ハイキングコースがあったりして、それなりに活用されているが、まだ十分とはいえない。行政もあまり気にかけていないのか、木々の手入れが頻繁に行われているわけじゃないから、いたるところに暗い陰ができていて、大人が昼間歩いても、あんまり気持ちいい気はしない丘が結構ある。
特に、三ツ橋の先にある丘の森、通称、丑寅の森は、薄暗くて不気味な場所だ。名前からして、なんだか怖い。
この森には、施設は何もなくて、ただ暗い一本径が丘の向こうの町へつながっているだけだ。陽太の学校の規則では、丑寅の森には入ってはいけないことになっているという。迷子になりやすい洞窟なんかもあるらしい。
だから、バラバラ殺人事件が起きたとき、町の誰もが、あそこならと思ったようだ。
殺されたのは、中年の男性で、犯人はまだ捕まっていない。事件が発覚した当初、町は大騒ぎとなり、都心からやって来たテレビワイドショーのドローンも飛んだりして、騒然としたものだ。
人々を騒がせたのは、事件がバラバラ殺人というセンセーショナルなものであったことのほかに、事件が起きる前から、不審な男の目撃情報が警察に寄せられていたからだ。黒い目出し帽をかぶった大きな男が、丑寅の森周辺をうろついていると、近隣の住民から苦情がでていたという。
ただうろついているだけという理由で、警察は動かない。何も手が打たれないまま、日が過ぎて、そしてバラバラ殺人事件が起きた。
やっぱり。犯人はあの男だ。
住民たちはそう噂したが、それはただの噂でしかなく、なんの証拠もなかったから、犯人逮捕の手助けにはならなかった。警察も、不審者の目撃情報を集めたが、進展はなかったという。
そうこうするうち、四日、五日と経ち、一ヶ月も過ぎると、いつのまにか、バラバラ殺人事件について噂をする者はなくなった。日々、大きな事件が、日本の各地で起きている。衝撃的な事件もすぐに薄れてしまうのだ。
ところが、先週の木曜日、いつもより遅く帰ってきた陽太に、パートから戻った母親が怒って問い詰めたところ、
「友だちといっしょに、丑寅の森に行っていた」
と返ってきた。
母親が驚き、嘆き、陽太を叱ったのは言うまでもない。その上、陽太は、丑寅の森へ行った理由を、どうしても言わなかった。素直な陽太にはめずらしいことだ。
「ねえ、お兄ちゃんから聞き出してよ」
俺は母親にそう頼まれた。母親は、いつも俺のことを、道生【みちお】という名前ではなく、「お兄ちゃん」と呼ぶ。陽太が生まれたときからそうなった。多分、母親は違っても、あんたたちは兄弟なのだと、それを強調したいんだと思う。
「いいよ」
俺は気安く引き受けた。そして、聞き出したのちは、報告するとも約束した。
だが、いまだ、ほんとうの理由は、母親には告げていない。なぜなら、言ったところで、信じてもらえるとは思えないから。
「じゃんけん鬼?」
陽太からその名前を聞いたとき、俺は思わず裏返った声で訊き返してしまった。
母親から頼まれた日の翌週の土曜日、俺は陽太を町のはずれにできたショッピング・モールのフードコートにあるたこ焼き屋に連れ出していた。
フードコートは人で溢れていて、たこ焼きを焼く台の前に並べられたテーブルは、子ども連れのお客さんで賑わっていた。まだ夏休みが終わるには数日ある。表の殺人的な暑さを逃れるには、冷房が効いたフードコートはもってこいだ。
陽太に丑寅の森へ行った理由を聞き出すのが遅れたのは、友達から引越しのアルバイトを頼まれ、三日間励んで、そのおかげで疲れが溜まり、家に帰ると寝てしまい、陽太と話す機会がなかったからだ。
普段、重い粘土や太い丸太と格闘している俺にも、引越しの作業の連続はきつかった。ま、おかげでバイト代は良く、こうして陽太にたこ焼きをおごってやれるんだが。
「なんだよ、それ」
俺は目を丸くしたまま、訊いた。やっぱり陽太は、まだほんの子どもだ。そう思う。
丑寅の森には、鬼がいて、なんとその鬼は、じゃんけんの勝負を挑んでくるのだという。
鬼というだけでも有り得ないが、その上、じゃんけんをするだと?
「ほらな、やっぱり、信じない」
笑った俺に、陽太が膨れた。どうやら陽太は、サンタクロースを信じていたときと同様、鬼の存在にも疑いを持ってないようだ。
「わかった、わかった。信じるから話してみろ」
陽太は目を輝かせて話し出したが、聞けば聞くほど、やっぱり子ども騙しというか、子どもしか信じないような内容だった。
「丑寅の森を進んでいくと、道が二股に分かれるところがあるんだ。右の径は向こうの町につながってて、もう一本は行き止まりになる。そこに着いたら、風が吹いてくるのを待って、強い風が吹いてきたら、じゃんけんぽーんって、叫ぶんだ」
まるで、日本昔ばなしみたいだなと思ったが、陽太の目は真剣だ。
「叫んだらね、もう一度風が吹いてくるんだ。今度は冷たい風だよ。すうーって、上の方から降りてくるみたいに吹いてくるって。すると、じゃんけん鬼が現れるんだよ」
俺は黙って頷いた。
「じゃんけん鬼は、勝負するぞって言うんだ」
「じゃんけんで?」
「そう。それで、じゃんけんで勝つと、こっちの味方になってくれるんだ」
「味方?」
「仲間になってくれるんだよ」
鬼を仲間にしてどうするんだ。
そう思ったが、陽太がじゃんけん鬼を仲間にしたい理由を聞いて、俺はからかいの言葉を飲み込んだ。
「じゃんけん鬼に、僕らの剣道チームに入ってもらいたんだ。すごい活躍をしてくれると思うんだよね」
学校の誰かが、どこかのチームに何本もホームランを打つ少年が入り、チームが圧勝したと聞いてきた。その少年の正体が、鬼だというのだ。少年に扮した鬼は、チームを勝たせると、いつのまにかいなくなっていたという。
「じゃんけんで勝って鬼をよべたら、僕らのチームも勝てる。ね、お兄ちゃんもそう思わない?」
俺は異を唱えることなんかできなかった。
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