夜の海、霧の境界

 夜の闇と霧そして雨に紛れ、一人の男が山道を下っていた。その男は高そうなぴかぴかの靴を泥まみれにしながら、港へと急いでいた。

「確かビルセンの町に船乗りがいたはずだ。そいつに頼もう。」

男は地図で道を確認しながら進んでいく。男が大事そうに抱える黒い鞄には、アンバーの家から盗み取った羊皮紙が丸められて入っていた。

 この男は、ワルダ村の隣町で考古学者をしているダンケンといった。ダンケンはアンバーと同様、かつてこの地域一帯を統治していた一族に興味を持っていた。しかし、彼が研究を始めて分かった知見や手持ちの資料は、既にアンバーやアンバーの父親、祖父が解読したものばかりであった。また、残された資料は非常に少なく、なかなかお目にかかれる機会がなかったために、新たな発見ができずに焦っていた。そんなときに、町の掲示板にアンバーの講演会のお知らせを見つけたのだった。しかもそこには『ワルダ村の学者による一族の研究に関する新発見』の文字。

「新発見だと?そんなはずない。」

ダンケンは、その講演会のチラシを睨みつけた。実際に講演会に参加すると、そこではアンバーが一族の歴史や新たな知見についてきらきらと輝く瞳で演説をしている。しかも、一族に関する重大な発見を提げてわざわざ隣町までやってきたのだ。この街で考古学者として通っている身としては、非常に邪魔な存在である。ダンケンは単純な興味と憧れ、嫉妬がぐちゃぐちゃと入り混ざった感情を自覚した。ダンケンはどうしてもアンバーの持つ一族の秘密や資料が欲しくなったのだ。ダンケンは講演会に参加した足でそのままワルダ村へと馬車を走らせた。ダンケンがワルダ村に到着したのはその日の陽が沈む頃であった。ダンケンは少しワルダ村の中を散策すると、怪しまれないように考古学者を名乗り、村の住民に話しかけた。

「すみません、私隣町で考古学者をしている者なのですが。アンバー博士のお宅はどちらでしょうか。」

村の住民は、新聞記事の効果もあって、何の疑いも無く、親切にアンバーの家を教えるのだった。そして、真夜中になってからダンケンはアンバーとルージュの暮らすあの家に侵入し、羊皮紙の地図を奪ったのだった。

 明け方、まだ辺りは暗い中ダンケンはビルセンの村に到着すると、村の外れの船着場に向かった。

「すみません!どなたかいませんか?」

船着場には停泊している数台の船と、そこで作業をする操舵手の男がいた。

「こんな朝早い時間にどうしたんだい?」

男は泥だらけのダンケンに怪訝そうに声をかけた。

「船を出してくれ!今すぐに!」

操舵手は、ものすごい見幕で捲し立てるダンケンを落ち着かせながら、

「今日は波が高いから船は出せねえんだ。悪いな。」

と言い渡した。

「何だと?金ならいくらでも出す!いくら必要なんだ?」

ダンケンは自身の鞄から財布を取り出し、紙幣を数枚押し付けた。

「いいや、そんなこと言われてもなあ。雨も降っていつも以上に霧も深いし大荒れなんだ。とにかく今日は出せない。」

操舵手は押し付けられた紙幣をやんわり押し返すと、とにかく無理だと伝えながら船着場を離れていった。ダンケンは毒づきながら暗い海に目をやった。

「何だ!そんなに波は高くないじゃないか。」

そう一人呟いた時、船着場の端に一隻の大きなボートが括り付けられていることに気がついた。ダンケンは、そのボートに近づくと、辺りをきょろきょろと確認し、ロープを解いた。そして、少しぐらつくボートに乗り込むと古びたオールを握りしめて霧の海へと出て行ってしまった。ダンケンは、このあたりの海流は島から離れるように流れていることを知っていたため、この波に任せれば霧の境界線まで出られると考えていた。

「呪いなんか知ったこっちゃない。俺があいつよりも先にこの資料の謎を解いて世に発表するんだ。そうすれば考古学者としての地位はあいつよりも高くなる。目障りな奴め。」

ダンケンはぶつぶつと言いながらオールを漕いでいく。しかし、ダンケンはビルセンの港から霧の境界線まで二日以上もかかることを知らなかった。どんどんと港が離れていくにつれて、霧は濃く、雨は本降りとなった。

「クソ!何なんだよ!」

一時間ほどボートを漕いだところで、波はだんだんと高くなり、ボートに当たって砕ける。ダンケンの乗ったボートは左右に激しく揺さぶられた。

「一旦引き返すか?」

ダンケンはビルセンの村外れの港の方を振り返った、はずだった。しかし、四方八方濃い霧に囲まれ方向感覚が狂っていく。ダンケンは闇雲にオールを漕いだ。しかし荒れ狂う波、霧、激しくなる雨に阻まれる。ぐらぐらと揺れるダンケンを乗せたボートはついに転覆してしまった。

「助けてくれ!誰か!」

手足をばたつかせて夢中で叫ぶダンケンであったが、こんな悪天候の中船を出している人は無く、無情にもその声はかき消される。ボートはばきばきと音を立てながら波に遊ばれる。

「こんな所で死んでたまるか!誰か!」

一層高い波が立った。ダンケンは暗い海に放り出された。


「あちゃー。だめだ死んでる。お頭!どうしますか?」 

夕陽が赤く燃えだす頃、海は朝方の嵐が幻だったかのように凪いでいた。

「どうするも何もねえだろ。海洋葬だ。祈りでも捧げとけ。それより見てみろこれ!ボロボロだが宝の地図に違いない!」

船長らしき男が羊皮紙の地図を甲板の上に広げている。

「すげえ!本物初めて見た!」

「落ち着け!しかしだいぶ傷んでいるな。それに見たこともない文字だ。」

「この死体に感謝っすね!」

船の乗組員は、浮かぶダンケンの横をゆっくりと通過して行ったのだった。

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