森と印

 アンバーはそわそわと落ち着かない様子で、横になり呻き声を上げるロゼの周りをうろうろと歩いていた。

「ルージュ!大丈夫かい?深呼吸だ!落ち着け落ち着け…。」

「あなたが落ち着きなさい。」

黒い髪の女医は呆れたようにアンバーを宥める。

「ルージュ、もう少しよ。頑張れるわね?」

女医の言葉にルージュはええと笑って見せた。しかしその数秒後にはルージュは脂汗を額に浮かべながら苦悶の表情で訴えた。

「痛いっ…!」

女医はルージュの様子を確認しつつ、タイミングを見計らっている。

「さあ、ルージュあと少しよ!はい力んで!」

女医の掛け声とともにルージュは精一杯腹に力を込めると、小さな頭がちらりと見えた。

「いいわ!もう少し!はいもう一度!」

ルージュがもう一度ぐうっと力を込めると、小さな体がぬるっと出てきた。

「出たわ!女の子よ!よく頑張ったわね!」

女医はその子を掬い上げるとルージュの胸にそっと乗せた。

「…この子が、私たちの…。」

ルージュは息も絶え絶えだったが、目に涙を浮かべながらしっかりと我が子を抱きしめた。アンバーは息をするのも忘れてルージュとその胸に抱かれる小さい赤子をじっと見つめた。

「さあ、近くにどうぞ。」

女医がアンバーの背中を押すと、ルージュのそばに跪いた。

「ルージュ…ありがとう…。可愛い女の子だ。」

アンバーは感動のあまりルージュの腕に縋りながら泣いた。女医はてきぱきと処置を済ませ、帰り際にあれこれと注意を残して二人の家を後にした。二人は生まれて間もない小さな女の子を抱きしめ、幸せな時間を過ごしていた。

「本当に可愛いな。小さい。」

いまだに涙目のアンバーは、小さい我が子を見つめながら呟いた。

「やだ、まだ泣いているの?」

ルージュは笑いながらアンバーの瞼を拭った。そして、

「名前はどうしようかしら。」

と、赤ん坊の背中を優しくポンポンと叩きながら投げかけた。

「そうだな。君のように艶やかで美しい女性になってもらいたい。ロゼはどうだろう。」

アンバーはルージュの髪をすきながらそう呟いた。

「いいわね。ロゼ。」

二人はロゼの頬を撫で、その小さな手に指を握らせた。


 ロゼが生まれてから二年近く経った頃、子育てに追われながらも平穏な日々を送っていた。

「ロゼ!それはパパの大切な本だから触っちゃダメよ。」

ロゼは家中をおぼつかない足取りで走り回り、色んなものに興味を示しては手に取ったり、口に運んだりするのだった。

「おお。ロゼはこの本が気に入ったんだな?」

アンバーは微笑みながらロゼを膝の上に抱き上げると、その本を開いて見せた。

「これはな、遥か昔にこの辺りを統治していた太陽の一族のことが書かれている本で、僕のご先祖様が…」

ロゼはアンバーの膝の上ですやすやと寝息を立てながら眠りこけていた。その様子を見てルージュは微笑むのだった。

 アンバーは烏の目の男の襲撃事件があってから、自身の研究を進められずにいた。ロゼが生まれてから年月が経っても、その状況は変わらなかった。開いた本を見つめながらため息をつくアンバーの肩に手を置くルージュ。

「あなた、私やこの子のことは心配しないで。あなたがやりたいと思うことをしたらいいのよ。」

アンバーの瞳がルージュの言葉で揺れた。アンバーが研究をできずに苦しんでいたことは、ルージュが一番良く知っていた。

「…ありがとう。」

アンバーはルージュの手を取り、少し悲しそうな目で微笑んだ。そこから、アンバーは再び自身の研究を少しずつ進めようと決心した。アンバーは手始めにオーブスト島のあらゆる場所の様々な地図をかき集めてきては、羊皮紙から写し取った地図に描かれる地形と同じような場所はないか念入りに探した。しかし、その土地はどこにも見つからない。

「何故だ?オーブスト島内の話だからこの中にあるはず…。」

アンバーは頭を掻きながら地図を引っ掻きまわす。アンバーの脳はぐつぐつと音を立てて煮詰まってしまった。少し気分を変えようと、地図を持って庭の裏の森に入った。森の中は昼でも霧で薄暗く、しんと静まりかえっている。アンバーは深呼吸すると、近くにあった切り株に腰を下ろし、何とは無しにワルダ村の地図を広げた。アンバーは小さい頃からワルダ村に住んでいたため、地図を読みながら、頭の中に鮮明にその道を描くことができた。村の入り口から奥へと進んでゆく。いくつもの畑や民家、小さな商店。昔と変わらない。そこで、ふと違和感を覚えた。アンバーは地図を片手に立ち上がると、庭で洗濯物を干しているルージュに問いかけた。

「ルージュ、ちょっといいかい?」

ルージュは手を止めて振り返る。

「このワルダ村の地図なんだけど、この家の周辺の描かれ方が妙に雑じゃないか?」

ルージュはアンバーの持つ地図を覗き込んだ。アンバーは地図を指差しながら続ける。

「村の入り口辺りは隣接する村の方まで描かれているのに、こっちの方は裏の森も載っていない。」

ルージュは地図をよくよく見る。

「確かにそうね。奥地の方だからかしら…?」

ルージュはそう呟くと少し考えて、庭から続く森の入り口に視線を投げた。

「この先の森ってまだワルダ村の領地内よね?抜けるとどこかの村につながっているの?」

アンバーは首を横に振った。

「いや、庭からしばらくは舗装された遊歩道があるが、途中で途切れている。その先は…」

アンバーは一度言葉を切ると、森の方をちょっと振り返って続けた。

「その先は禁忌の森に繋がっている。」

「え?」

ルージュは驚きで目を見開いている。

「ここの森から繋がっているの?」

ルージュはさらに眉を顰めた。

「もちろん禁忌の森へは立ち入りができないように厳重に管理がされている。僕も気分転換に森に入るけど、庭からすぐの湖の畔や遊歩道があるところだけ。禁忌の森はずっと奥にあるから僕も詳しくは知らないんだ。」

アンバーがそう説明すると、ふと何かに気がついた。

「ルージュ、前に君から寄生虫が繁殖する木について聞いた時、禁忌の森にあると言っていたね?」

アンバーが問いかけると、ルージュはええ、と頷き、

「この島には一本だけその木があるの。禁忌の森にあるとは聞いていたけど、ここから続いていたなんて…。」

と呟き、森の奥へと目をやった。

「この寄生虫は、一族とも縁が深いことが分かった。と言うことは、その寄生虫を生み出す樹ならば一族に纏わる何かがそこにある可能性は低くない。」

アンバーは独り言のようにぶつぶつと呟くと、羊皮紙から写しとった地図をまじまじと見つめた。アンバーの頭の中には薄暗い霧の中、湖や大きな根が地上に這い出した大木が思い描かれていた。アンバーははっと息を飲み、そうかと呟くと二つの地図を並べてその境目に二重の丸印を描いた。

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