烏の目

 二人の研究がワルダ村だけでなく、近隣の村や大きな街にまで広がる頃、二人は結婚し、元々アンバーが暮らしていた村の奥地のあの家で、幸せな生活を送っていた。この頃アンバーは、嘗てこの辺りを統治した一族に関する本を書き、講演会を開くまでになっていた。一方ルージュは、寄生虫についての研究報告書をまとめ上げ、ワルダ村の学者としてさらに知名度を上げていた。しかし、未だに霧の外の世界についての記事は新聞には載らなかった。そして、二人も強いてはその話を伝えようとはしなかった。

「じゃあ行ってくるよ。無理はしないように。終わったらすぐに帰ってくるからね。」

その日、アンバーは隣町で行われる講演会に向かうために家を出た。

「大丈夫よ。行ってらっしゃい。」

ルージュは大きくなってきたお腹を優しくさすりながらアンバーを送り出した。

 アンバーは馬車に乗り、意気揚々と隣町へと向かった。アンバーの講演会には、髭を蓄えた町長、まだ十代くらいの青年、数組の家族など二十人程が話を聞きに来ていた。アンバーは司会者から紹介を受けると、軽く挨拶をし、一族の概要や歴史、残された資料を一つ一つ示しながら話し始めた。そして、新たな知見として、寄生虫との関連を話題に出した。

「今回、この一族はこの島に昔から生息している、ある寄生虫と大きな関わりがあることが分かりました。彼らは、その寄生虫の特性を活かして、地図を作成していたのです。これは非常に興味深い新発見です。」

人々は興味津々で頷きながら話に聞き入っている。その中に一人、烏のような目でアンバーを見つめながら、メモを書き散らしている男がいた。アンバーは少し怪訝そうに思いながらも、持ち時間いっぱいの講演を終えた。

「非常に興味深い研究でした。また、ぜひ講演をしにいらっしゃってくださいね。」

髭を蓄えた町長が握手を求めながら、彼の研究を称賛した。

「ありがとうございます。」

アンバーはその言葉を嬉しそうに受け止め、ゆっくりと帰ってゆく町長の背中を見送った。アンバーはやりきったという達成感に浸りながら片付けを始めた。

「すみません。ちょっとよろしいでしょうか、アンバー博士。」

アンバーが書類をまとめていると、さっきの烏の目の男が話しかけてきた。その男は高そうなスーツにハットを被り、ぴかぴかに磨き上げられた皮靴を履いている。いかにも金持ちそうな男だ。

「とても興味深いお話をありがとうございました。この一族について、いくつか質問があるのですが。」

男はアンバーに嫌に近づき、投げかけた。

「ええ、どういったご質問でしょうか。」

アンバーが片付ける手を止めると、男は机の上に広げられた資料や年表をじろじろと品定めするように見ながら言った。

「私はこの町で教師をしているのですがね、この一族について非常に興味を持ちました。一族の資料は殆ど残されていないとおっしゃいましたが、この資料などはどこで手に入れたのですか?」

男の目が光るのがわかった。

「これらの資料は、うちの屋根裏に眠っていたものです。私の家系は代々考古学者ですので。」

アンバーは少し言葉を暈した。

「ほお、そうでしたか。」

上の空で答える男は、依然として資料から目を離さない。何かに感付いたアンバーは、

「質問が以上でしたら、私はこれで…。」

と話を切り上げると、広げられたままの資料を丸めて鞄に入れた。男は少し残念そうに鞄を見つめ、

「もう少し詳しく話を聞きたいのですが…。」

とごねた。アンバーはええ、なんでしょうと、その質問を待った。しかし男は資料の入れられた鞄をじろじろと見つめるばかりであった。アンバーが少し不審がっていることに気づいた男は、パッと鞄から視線をはずし、

「ゆっくり話を聞きたいので…あなたのお宅に伺っても?」

といやらしい目で申し出た。アンバーは少し考えた。

「すみません。このあとは予定がありまして。ですので、ご質問があるならここでお願いします。」

とやんわりと断った。

「そうですか。それは残念です。」

男は少し尖った口調でそう言うと、会場から出ていってしまった。アンバーは何だったんだろうと、怪訝そうにその背中を見送った。そして、自身も足早に会場を後にし、止めていた馬車にさっと乗り込むと、辺りを警戒しながら家に戻るのだった。会場の外にあるベンチで、烏の目の男はきっとアンバーの馬車を睨みつけていた。


「ただいま。」

アンバーはワルダ村にある自宅のドアを開けた。

「アンバー、お帰りなさい。」

ルージュは身重の体で玄関まで迎えにきた。キッチンからは美味しそうな匂いが漂っている。

「ルージュ、体調は大丈夫なのかい?」

アンバーはジャケットを脱ぎながら心配そうに問いかけた。ルージュはええと笑って見せた。

 アンバーは夕食を食べながら、今日の公演の様子をルージュに報告していた。

「今日は二十人も来てくれたのね。」

ルージュは毎回嬉しそうに報告をしてくるアンバーの、少年のような表情が好きだった。しかし、今日のアンバーは少し落ち着かない様子であった。

「何かあったの?」

ルージュが心配そうに尋ねると、アンバーは少し考えて、切り出した。

「実はね、今日の講演会に…ちょっと変わった人が来ていたんだ。僕の話を一生懸命聞いてメモを取ったり。」

「どこが変わった人なの?興味があればメモくらい取るじゃない。」

ルージュは温かいシチューを一口食べながら投げかけた。

「いや、なんと言うか。僕が話をしている時も荒々しくメモを書き散らしたり。最後にその男が質問しに僕のところにやってきたんだけど、資料ばっかりじろじろ見ていて、僕が話していても上の空だったんだ。」

そこまで聞くと、ルージュも

「へえ…。何だったのかしらね。」

と肩をすくめて見せた。

「挙げ句の果てには、話を聞きたいから家に行っていいかなんて言い出すものだからさ。もちろんやんわり断ったけど。」

アンバーはさっきの男の目を思い出して立ち上がると、カーテンを少し開けてちらりと窓の外を覗いた。窓からは庭と、風に吹かれる漆黒の夜の森が見えた。

「考えすぎよ。」

ルージュは空いた皿を流しに運びながら、困ったように笑ってみせた。

「でも、君とお腹の子のことを思うと、なんだか落ち着かないんだ。」

アンバーもルージュと同じ表情で目を見合わせた。


 その日の深夜、男は帽子を目深に被り、光る目をぎょろぎょろさせながらワルダ村の奥の一軒の家の前に立っていた。

「ここか。」

男はニヤリと笑うと、灯の消えた家の周りをうろうろと回り始めた。もちろん辺りには人一人としていない。男が庭に入り窓に耳をぴったりと当てると、頷きながら男は黒い袋の中から金属の工具のようなものを取り出した。木でできた窓枠にその工具を差し込みあらゆる角度から力を加えると、ついに窓はきいきいと音を立てて外れた。男はしばらくの間、息を殺してじっと辺りの様子を伺った。家主は気付いていないらしい。ゆっくりと窓から侵入し、部屋の中を見回す。男は足音を立てないようにそろそろと部屋の中を進んでいく。二人の寝室である一階の奥の部屋からは二人の寝息が聞こえている。男は二人が深く眠っていることを確認すると、慎重に階段を登って行き、目の前の部屋のドアノブに手をかけた。立て付けの悪い古い家のためドアを開けるたびにぎしぎしと音が響く。男はゆっくりとドアを開けてその部屋にするりと入り込んだ。その部屋はルージュの研究部屋であった。本棚には分厚い生物学の本や何冊ものノートが並べられていた。男は本棚に飾られていたルージュと父親の写真を手に取ると、顔を顰めた。そしてそのまま部屋から離れると、その横の部屋のドアもゆっくりと開けた。そこには、今日の昼間に講演会で見たあの資料や年表が机の上に並べられていた。男は早る気持ちを抑え、静かに資料の物色を始めた。汗ばむ手で資料を一つ一つ確認しているとき、机の上に貼られた一枚のメモに目が止まった。そこには、「羊皮紙の地図は太陽光で完成。確認済み。」と書かれていた。男はそのメモを手に取ると、目をひん剥き、机の引き出しや棚の中を素早く漁った。棚の一番下の引き出しを開けると、丸められた羊皮紙を見つけた。

「あった!そうか。そういうことだったのか!」

男は声もなく笑い拳を握りしめると、その羊皮紙を乱暴に鞄に入れ、アンバーの家から静かに立ち去った。

 翌朝、アンバーはルージュの声で目が覚めた。

「アンバー!ちょっと来て!大変よ!」

アンバーは何事かと慌てて部屋を出る。声のする方へ急ぐと、外された窓の前で立ち尽くすルージュがいた。

「泥棒かしら。」

ルージュは家の中のものが壊されていないか、盗られていないかあちこち確認している。アンバーははっと息を呑み、階段を駆け上がった。ルージュも急いで後を追った。二階の部屋のドアがどちらも開いており、ルージュは青ざめる。すると、アンバーの部屋から悲痛な叫びが聞こえてきた。

「ない!羊皮紙の地図がない!」

アンバーは青い顔で頭を抱えている。ルージュがアンバーの部屋に入ると、机の上や棚が荒らされたような形跡が見てとれた。嫌な予感は的中したのだった。

「そんな…。」

アンバーは膝から崩れ落ち弱々しく呟いた。ルージュは落ち込むアンバーに静かに近づき黙って肩を抱いた。


 しばらくして二人はリビングの椅子に腰掛け、ルージュの淹れた紅茶を飲みながら少し落ち着きを取り戻していた。

「村の警備隊にはこの後話をしに行きましょう。羊皮紙のことは…残念だったわね…。でもあなたの命があってよかったわ。」

ルージュは励ました。アンバーはそれに応えるように、

「ごめん、ルージュ。僕のせいで君とお腹の子を危険に晒してしまった。なんてことだ。」

と消え入りそうな声でやっと伝えた。

「アンバー。私もお腹の子も大丈夫よ。」

ルージュは優しくアンバーを諭した。

「きっとあの男だ。昨日の烏のような目をした男。やっぱり資料を狙っていたんだな。後をつけられていたのかな…。」

アンバーは再びゆっくりと頭を抱え項垂れた。ルージュは、依然としてショックから立ち直れないアンバーに、そういえば、と投げかけた。

「取られていたのは羊皮紙の地図だけ?」

アンバーはああ、と力なく頷いた。

「確かあの地図って、前に船の中で写しを取ったわよね?そっちは残っているの?」

アンバーはその言葉を聞くなり、椅子から勢い良く立ち上がると再び自室へと駆け上がっていった。しばらくするとアンバーは泣きそうな顔で階段を駆け下り戻ってきた。

「…あった…!こっちは畳んでノートに挟んでいたんだ。良かった!」

アンバーは安堵のため息を漏らし、子供のように喜んだ。それと同時に、アンバーは自身の研究について少し慎重になったほうがいいと考えた。これ以上家族を危険に晒してしまうくらいなら、研究を一度中断しようとさえ考えたのだった。

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