濠と呪い
コートの家を訪れてから二日後に船を出すことが決まった。アンバーは一族の資料一式を、ルージュは瓶に入った寄生虫生体とノートを持ってコートの家へと向かった。
「こんにちは。」
ルージュはコートに挨拶する。
「やあ、ルージュ。」
コートはルージュの手をしっかりと握った。アンバーもルージュの後ろから手を伸ばし、がしっとコートの手を握った。
「とりあえず、一旦家に入ってくれ。」
コートは二人を家の中へと招き入れ、椅子をすすめた。コートは船に乗せる荷物を大きな箱に詰めながら説明した。
「俺の船はここから少し離れた場所にあるんだ。サンドバルトって港に船小屋があるから、そこまでは馬車で行こう。」
コートが荷物を詰め終わると、ちょっと待っていろと二人に指示した。二人は足元に駆け寄ってくる猟犬としばし戯れた。
十数分が経った頃、コートは家の窓をこんこんと叩き、二人を家の外に呼んだ。
「わあ!」
ルージュは外に出るなり、嬉しそうな声を上げた。そこには木でできた荷車と、それを引く二頭の黒馬の姿があった。ルージュは馬の頭の方に駆け寄り、その鼻先を撫でた。
「馬が好きなのかい?」
コートが投げかけると、ルージュは嬉しそうに頷いた。コートはルージュの横に立ち、
「知り合いの飼っている馬だ。とっても利口なんだぞ。」
と、もう一頭の馬の額を撫でながら言った。アンバーは大きい動物があまり得意ではないようだ。少し離れた場所から二人の様子を見守っていた。その横にはコートの猟犬が座り、アンバーの顔を見上げた。
三人は各自の荷物と共に荷車に乗り込むと、サンドバルトの港を目さして出発した。サンドバルトの港へ向かう途中、三人はアンバーがまだ小さかった頃の話や、コートが漁師をしていた時の話をして時間を過ごした。そして、二頭の馬の引く荷車はついにサンドバルトの港に到着した。
「ここがサンドバルト。」
ルージュは初めてこの地にやってきたようで、港町の様子を興味深げに見まわした。コートは二頭の馬を引き、近くの馬小屋に入れた。黒馬たちは桶に入れられた水を美味しそうに飲んでいる。その様子を確認すると、隣にあった船小屋のシャッターをがらっと開けた。そこにはコートの船が仕舞われていた。コートは近くにいた数名の男達に声をかけると、その船を海へと引っ張り出した。コートは船に不備がないか一通り確認し終えると、二人を船に乗せた。古い船だが、まだまだ力強く走れる力を残していた。
サンドバルトの港から出港したコートの船は穏やかな波を乗り越え、順調に進んでいった。辺りは濃い霧で包まれている。霧のエリアを抜けるためには丸二日船を走らせる必要があった。コートは昔漁師をしていた時の感覚を思い出しながら、難なく霧の海を進んでいく。アンバーとルージュは航海の最中、仮説立証に向けての準備をしながら過ごした。
「お二人さん、あと数時間で霧の境界線に到着するぞ。準備しときな。」
二日目の昼頃、霧の境界線の近くまで船を走らせてきたコートは二人に呼びかけた。
「いよいよですね。」
少し落ち着かない様子のルージュの肩にアンバーはポンと手を置きながら呟いた。ルージュはそうですねとだけ呟くと、寄生虫の小瓶をギュッと握り締め、窓から霧の中をじっと見つめていた。
数時間後、霧の境界の辺りに到着した。この辺りの霧は島のどんよりとしたものとは違い、きらきらと光を含んでいる。コートは船から小さなボートを海に下ろし、二人に伝えた。
「これに乗ってまっすぐ進めば霧の外に出られるだろう。ロープはここに繋いでおくから何かあったらロープを強く引くんだぞ。…気をつけてな。」
二人はコートに礼を言うとボートに乗り込み、霧の外を目指した。コートは静かに二人の背中を見送り、暫くすると二人はきらきらと輝く霧のベールに包まれて見えなくなった。二人を乗せたボートは、ゆっくりと霧の中を進んでいく。アンバーはオールを漕ぎながら緊張した様子で霧の中を見回した。ルージュは寄生虫の小瓶を握りしめて霧の境界線を越えるその時をじっと待った。十数分が経った頃だろうか、突然二人の目の前が明るく開け、青い世界が広がった。
「…!」
二人は目の前に広がる光景に言葉を失った。頭上からは燦々と太陽の光が降り注ぎ、空の青を反射する波はきらきらと輝いている。二人は一瞬身を固くし不安そうに目を見合わせた。しかし、今まで感じたことのない温かな心地よさに、二人は徐々に身体の力を抜いた。
「これが、霧の外の世界。太陽。私たちはこんなにも美しい世界を奪われていたのね。」
ルージュは空を見上げながら呟いた。アンバーも初めて見る美しい世界に目を奪われている。その時、ルージュが突然大きな声を上げた。
「あ!アンバーさん!見てください!」
ルージュが目の前に突き出したガラス瓶の中いっぱいに黒い物体が張り付いている。
「これは…!」
アンバーはその瓶を手に取ると、よくよく見ようと太陽に翳した。するとその物体は小刻みに震えながら更に色を濃くした。
「やっぱり、仮説は正しかったのね!」
ルージュは目をキラキラさせながら歓喜の声をあげる。それに続くようにアンバーも自身の持ってきた羊皮紙を太陽の光に晒した。
「ルージュさん!」
アンバーは目を輝かせながらルージュの方に呼びかけた。その手に広げられた羊皮紙にはみるみるうちに地図が浮かび上がり、太陽の光を求めるように蠢いていた。二人はしばし暖かな太陽の光の下で喜びを噛み締め、はたと思い出したかのように、各々その記録を取るのだった。
二人がボートを漕ぎ船に近づくと、コートが安心したように船から手を振っていた。コートの愛犬も尻尾を振りながらウォンウォン鳴いている。
「ああ、良かった。心配したんだ。」
コートは二人を船に引き上げながら安堵のため息をついた。そして、霧の外はどうだったと問いかけた。二人は目を見合わせ、頷くと
「霧の外は、暖かった。」
と微笑みながら伝えた。コートはボートを船に引き上げながら、不思議そうにその話を聞いていた。コートがボートを引き上げ終えると、三人は船室の方へ向かった。コートが二人に温かいコーヒーを渡しながら
「暖かった。それだけか?」
コートは興味津々で二人に投げかけた。ルージュは嬉しそうに答えた。
「言葉では言い表し切れないほど素晴らしいものでした。」
その言葉にアンバーも頷いた。コートは驚いた顔をして、顎をさすっている。それに、とアンバーは続けた。
「僕たちの仮説は立証されました。そして、研究以外にも、僕たちは多くの人々にこの事実を知ってもらいたいと思っています。」
ルージュも興奮した様子で手に持つ黒い小瓶を握りしめている。
三人と一匹を乗せた船はサンドバルトの港に向かって、霧に飲み込まれるように進んでいった。船に揺られる間、二人はコートに、寄生虫や地図の話、霧の外の世界の美しい様や太陽という存在、迷信の馬鹿らしさ等を真剣な面持ちで語るのだった。コートは驚きの声を上げながら二人の話を聞くのだった。また、二人は今後の研究や新たな知見の発表方法についても話し合った。
「やはり、霧の外の世界を島の皆に知ってもらいたい。」
アンバーは紙にあれこれとメモを書きながら真剣に話をしている。その時アンバーが声を上げた。
「ん?おかしいぞ。」
アンバーが机の上に広げられていた羊皮紙の地図をまじまじと見つめている。ルージュがそれを横から覗き込むと、先ほどまで黒々と浮かび上がっていた地図がやや薄くなっているように感じる。ルージュは急いでガラス瓶の中を確認した。やはり、先ほどまでどす黒い色に変色し、ざわざわと騒がしかった虫たちはしんと静まっていた。
「きっとこの虫の特徴なのね。太陽に当てた後一定時間は活発になるけれど、その後また透明に戻ってしまう。」
ルージュは太陽に当てた時間、現在の時刻、色や動きの変化などを事細かにメモしたノートにその変化を書き足した。そして、アンバーに提案した。
「その地図、何かに写しておいた方がいいんじゃないでしょうか。地図を見たいと思った時にすぐに見られないのは不便に思います。」
アンバーは慌てた様子で
「確かにそうですね!それがいいでしょう。」
と、薄い紙を用意してやや消えかかった地図をトレースしていった。作業が終わる頃には、羊皮紙の真ん中にはまた不自然な空白がぽっかりと空いていた。
次の日の夕方頃、三人は無事にサンドバルトの港町に帰港した。そして、コートは船を自身の所有する倉庫に入れシャッターを閉めると、横にある馬小屋に向かった。二頭の黒馬はコートの姿を見ると、嬉しそうに嘶いた。三人はワルダ村に向かって馬車を走らせた。
「ありがとうございました。あなたのおかげで私たちは大きな発見をすることができました。」
ルージュはコートに感謝を述べた。
「いいってことよ。俺も面白い話たくさん聞かせてもらったからな。」
コートは荷物を片手にまとめると、ルージュとかたく握手した。
「コートさん、お世話になりました。是非僕たちの研究の発表を楽しみに待っていてください。」
アンバーはコートとハグをする。
「お前さんらはこの村の自慢の研究者だからな。また手を貸して欲しい時はいつでも言ってくれ。」
コートはそう言い残すと、じゃあなと手を振って森の中のロッジに帰っていった。
「本当にありがとうございました。あなたがこのことに気付いていなければ、僕はもう研究者を辞めていたかもしれなかった。」
アンバーは深々と頭をさげた。
「アンバーさん、どうか頭をあげてください。それに、今なんと…?」
ルージュは首を傾げる。
「いえね、実のところ、僕の研究していた一族は確かに実在していたのですが、彼らに関する資料が少なすぎて行き詰まっていたところだったんです。僕もいい年ですから、そろそろ違う道に進もうか、そう思っていたところにあなたが現れた。次に行くべき道をあなたが示してくれた。なんとお礼を言っていいのやら。」
アンバーは自身の足元を見つめながら、少しだけ恥ずかしそうに頭を掻いた。ルージュはアンバーをまっすぐに見据え、
「私の研究もあなたがいなければここまで広げることはできなかったんです。だからおあいこでです。」
と、手を差し出した。アンバーはその手を取ると、三日月のような瞳で笑った。その後、二人はワルダ村にある小さな食堂に立ち寄った。二人は窓際の席に通されると、さっとメニューを手に取り、少し考えた後に主人に注文を申し付けた。しばらくして、パスタやサラダなどが運ばれてきた。二人はそれを食べながら楽しそうに今後の研究の話をするのだった。
次の日の朝から、ルージュは寄生虫に関する新たな知見をまとめるのに忙しかった。今までは見向きもされなかった分野の研究だったが、今回の大発見を持って、多くの人が興味を示すだろうと意気込んでいた。ルージュは机の上に飾ってあった父との写真を手に取ると、
「父さん、私すごい発見をしたわ。父さんにもあの霧の外の世界を見せてあげたかった。」
と水晶のような瞳で語りかけるのだった。そして、ふう、と息を吐くといくつかの資料を手に取り家を出た。向かった先は蜥蜴のような男の住むあの家。
「ごめんください。」
ルージュはドアをノックし、住人に向かって呼びかけた。
「やあ。さあ入ってください。」
中からアンバーが顔を出し、ルージュを家の中に招き入れた。
「お邪魔してしまってすみません。」
ルージュが申し訳なさそうに椅子に腰掛ける。
「いや、気にしないでください。僕もルージュ先生にお話したいことがあったんだ。」
と、アンバーはキッチンでお茶を淹れながら答えた。するとルージュは眉を下げながら、
「霧の外の世界の話や研究の話なのですが、どんな形で公表するか迷っているんです。実際に私たちはこの目で見ましたけど、信じてもらえるでしょうか。それに、多くの住民は呪いを信じていますし、霧の外に出たなんて言ったら住民たちから非難されるかと。」
と力なく呟いた。アンバーもお茶を持ってキッチンから戻りながら
「実は、僕もそう思っていたんです。遥か昔から続く当たり前の概念を崩すことは難しいでしょう。」
と、熱いお茶を啜りながら考えている。暫く二人はああでもないこうでもない、と頭を悩ませるのだった。話し合いは延々と続き数時間が経った頃、ルージュがあっと声を上げた。アンバーは煮詰まった頭を抱えながらルージュの顔を見上げた。
「じゃあこれはどうかしら!」
ルージュは煌めく瞳でアンバーの目の前に一部の新聞を取って見せた。アンバーは怪訝そうにその新聞をじっと見つめるだけだった。
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