死の香り
森の中は鳥や虫などの生物の気配がなく、異様に静まり返っていた。シリウスはあちこちに気を配りながら遊歩道を慎重に進んでいく。ロゼは嘗て自分が潜んでいた、根の這い出した大木のベッドや、鏡のような湖を横目で確認すると、眉を顰めた。今のロゼにとってこの森の全てが異形であり、内臓が縮むような感覚を覚えた。
「まだ先か?」
シリウスが数メートル先で振り返って尋ねる。
「もう少し先です。」
ロゼも離れないように後を追う。そこから暫く進んでいくと前方に不気味なバリケードが姿を現した。
「ここです…。」
ロゼはシリウスの後ろに隠れるようにしてバリケードの先に佇む建物を見上げた。以前ここを訪れたときは夜だったため細かいところまでは見れていなかったが、バリケードは蔦や苔、錆に覆われ、侵入を禁ずるというような文言が書き殴られたボロボロの紙が何枚も貼られており、より不気味さを増していた。
「なるほど、行くぞ。」
シリウスは一言言うと、ひょいっとバリケードを超えてしまった。
「え、ちょ待っ!危ないですって!」
ロゼはひそひそ声でバリケードの向こう側で、手についた錆を落としているシリウスに呼びかける。
「こりゃすごいな。」
シリウスが建物を見上げながら呟くと、すたすたと建物に近づいて行ってしまった。ロゼはおろおろしながらも意を決して錆だらけのバリケードに手をかけると、えいっと飛び越えた。よろめきながらも何とか着地する。シリウスは建物の門扉に釘で打ち付けられている木の看板の前に立っていた。ロゼは辺りを警戒しつつ足早にシリウスに近づくと、その看板を覗き込み、え、と声を漏らした。シリウスはロゼに問いかけた。
「あの爺さん、『もう何もいない』って言ってたよな。」
ロゼは老人の言葉を思い返す。
「確かそう言っていたと思います。何だか、気になる言い方ではありましたね。」
シリウスは腕を組みながら建物の真っ黒な窓を睨むと、建物の扉に手をかけた。ドアは重くぎいぎいと大きな音を立てながら開いた。建物の中は薄暗く、人の気配はなかった。焦るロゼを横目にシリウスは中の様子を伺いながら一歩足を踏み入れる。古い木の床が軋む。ロゼは外からシリウスの様子を息を殺して見守る。シリウスは辺りの音を拾おうと耳をそばだてる。暫く不気味な静寂が続く。
「誰もいない。」
シリウスは振り返ってロゼに入って来るように手招きをする。ロゼは恐怖心を押し殺し建物にそっと入ると、音を立てないようにシリウスの元に駆け寄った。建物は二階建てで、一階はエントランスになっており左右に古びた彫刻や絵画が並ぶ。その奥には螺旋階段があり、吸い込まれるような真っ暗な二階へと続いていた。二人が踏むたびにかんかんと音が響く鉄の階段を上がっていくと、目の前に一つの扉が現れた。そこには『第一ラボ』とだけ書かれていた。二人は静かに目を見合わせると、シリウスはゆっくりと扉に手をかけた。それと同時にシリウスはうっと唸り鼻と口を手で覆った。ロゼは不安そうにシリウスの背中を見つめた。
「こりゃあ酷いな。」
シリウスは顔を顰めながら一度扉を閉め、はあと息を吐き出した。
「どうしたんですか?」
ロゼが不安そうにシリウスに近づいた瞬間、微かに腐敗臭が漂った。
「死んでる。」
シリウスは閉まった扉の向こうを親指で指差す。二人の間に緊張が走る。少しの沈黙の後、
「俺が中の様子を見てくるから。お前はここで待ってろ。」
ロゼが制止をかける間もなく、シリウスは肘の内側で鼻を覆いながら部屋の中に入っていった。
部屋の中には何やら難しそうな分厚い本や古い資料、遮光瓶に入れられた薬品、大掛かりな機械、解読難解な記号や数式がそこかしこに散らばっていた。その中に老人と思わしき遺体が転がっている。その遺体は白衣を身に纏い、近くにはいくつかの瓶やフラスコの割れた破片が散乱している。死後数日から数週間だろうか、腐った肉にウジや蠅が這い不快な音と強烈な匂いを発している。シリウスは辺りに誰もいないかじっと気配を探る。するとシリウスは近くにあった机の引き出しを手当たり次第開け始めた。中には古い手紙、薬の空き瓶、変色した資料などがきちんと整理されて並んでいた。一番下の大きな引き出しを開けると、大きめのブリキ缶に入れられている赤いノートと古そうな資料の束を見つけた。ノートを開いてみると、誰かの手記のようだった。パラパラとページを捲っていくと、最後のページから一枚の写真がはらりと落ちた。シリウスはその写真を見ると、眉間に皺を寄せた。他の資料も手早く見てみると、どこかの国の一族の年表のようなものや、象形文字の書かれた図、地図、びっしりと何かが描かれたメモなどがあった。シリウスはその資料やノートを掴み鞄に投げ込むと足早に部屋から出た。ドアを開けると外で待機していた心配そうなロゼの顔が飛び込んでくる。
「どうでした?」
ロゼが聞くや否やシリウスはロゼの腕をひっ掴み、急いで階段を駆け降りる。辺りにカンカンという音が響いた。ロゼは黙ってシリウスについていく。
「船に戻るぞ。」
シリウスはそれだけ言うと、何の説明もなしに建物の入り口から飛び出し、バリケードを越え、森の方へ戻る。シリウスからは薬と死の匂いがした。二人は黙々と森の入り口に向かって進んでいった。
森の入り口に辿り着く頃には、陽が傾きかけていた。二人は空き地の草をかき分けて村に出ると、人目を避けるようにしてさっさと村を出るのだった。ロゼはあの建物の中で何を見たのかシリウスに聞きたかったが、シリウスは終始何かを考えている様子であった。
二人がビルセン村の港に着いたのは陽が落ちて辺りが暗くなってからであった。二人は船に着くと、ダイニングテーブルの上に荷物を置いた。シリウスは洗面所で手を洗ってからダイニングに戻り、椅子に腰掛けふうと息をついた。長い夢から覚めたような感覚であった。シリウスは少し疲れたような顔で、
「ちょっとシャワー浴びてくるから待ってろ。」
と言い、浴室に消えていった。ロゼは少し落ち着かない様子で、延々と流れ出るシャワーの音を聞いていた。
「おーい。ロゼ、大丈夫か?」
ロゼは遠くから聞こえる男の声に目を覚まし、勢いよく顔を上げた。額や首が汗でじっとりと濡れ嫌な感じがした。ロゼはダイニングテーブルに突っ伏して眠ってしまい、魘されていたようだ。シリウスはシャワーを浴び終わり、水の入ったボトル片手にロゼの顔を覗き込んでいる。ロゼは記憶を繋げる。
「あ、そうだ。」
ロゼが呟くと、シリウスはロゼの正面の椅子に腰掛けた。
「もう少し休むか?」
シリウスはロゼの青ざめた顔を覗き込んだ。しかし、ロゼは首を横にふり、さっき見たものの説明を促した。シリウスはテーブルの上に置かれていた自身の鞄を手に取り話し始めた。
「取り敢えず、あのラボって書かれてた部屋の中の状況からだな。大掛かりな機械と薬品、大量の資料があった。名前の通り研究室だな。その中に研究員らしき爺さんの死体があった。腐敗の状態から死後数日から二、三週間ってとこだろう。」
ロゼは視線を落とし、
「そうでしたか…。」
と漏らした。するとシリウスは持っていた鞄を漁り、中から古い資料の束とノートを取り出した。ロゼの目の前には古びた地図や象形文字のような物が書かれた紙、雑多に描き殴られたメモなどが積まれた。シリウスはその中の一冊の赤いノートをロゼに手渡す。ロゼはそのノートを手に取り中を捲っていく。そこには何かの生き物の生態が綴られており、ロゼはその記載のいくつかを確認する。背中に嫌な汗が流れた。するとシリウスはノートの一番最後のページを開いて見せた。そこには一枚の写真が挟まっている。写真には仲睦まじそうに映る一組の夫婦がいた。女の腕には幼い子供が抱かれている。ロゼははっと息を呑んだ。
「この夫婦って、ブルーノのおじいさんが言っていた…?」
シリウスは頷いた。
「だろうな。あの森の入り口だ。空き地にまだ家が建っていた頃の写真だろうな。」
ロゼは他の資料も手に取り、視線を走らせていく。
「もしかしたら、とんでもないものを引っ掛けたかもしれないな。」
シリウスが呟くとロゼははっとしたように彼を見つめた。
「私…」
ロゼが全てを言い終える前にシリウスが口を開いた。
「地図の全容が確認したい。協力頼めるか?」
シリウスのオオカミのような瞳にロゼは吸い込まれそうになった。
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