地図と船長

 まだ辺りが薄暗い時間、ロゼはそっと目を覚ました。見慣れない天井に一瞬心臓が跳ねたが、ぼんやりする頭で昨日の記憶を辿る。ロゼはゆっくり起き上がると、部屋を出て洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗うと、昨日よりもスッキリした顔の自分が鏡に映った。ロゼは外の空気を吸おうと船の甲板に出た。街には大荷物を持った店の店主や酔っ払いの男、疲れ切ってふらふらと歩く女が遠くに見えた。その時腹の虫がうるさく鳴いた。ロゼは昨日夕食を食べ損ねたことを思い出した。ロゼは甲板から自室に戻ると、財布の中から大きめのコインを数枚取り出し、ポケットに突っ込んで街に向かった。多くの店はまだ閉まっていたが、食料品などを扱う数店には店の明かりが灯っていた。ロゼは卵や牛乳、小麦粉、ベーコン、野菜などを適当に籠に放り込むと、会計を済ませ足早に船に戻るのだった。しばらく歩いて朝陽が上り出す頃に船にたどり着き、キッチンでどさっと荷物をおろし一息ついた。シリウスはまだ眠っているようで、船内は静まりかえっている。ロゼはキッチンの棚を漁り始め、使えそうな調理器具を手に取ると、てきぱきと朝食を作り始めた。卵とベーコンの焼けるぱちぱちという音に香ばしい匂いが辺りに漂う。ロゼはキッチンに置いてあったパンを紙袋から取り出し、まじまじと見つめた。まだ手をつけられていないものであったため、勝手に使ったら怒られるかもしれないという思いが一瞬よぎったが、自分の腹の虫の鳴き声にかき消された。朝食作りがひと段落した頃、シリウスはもぞもぞとベッドから起き出し、伸びをしながら部屋を出た。すると、ダイニングテーブルの上に並べられた朝食に目が止まった。奥のキッチンからロゼがひょっこりと顔を出す。

「おはようございます。朝ごはんできてますけど食べますか?あ。キッチンに置いてあったパン、勝手に使ってしまいました。」

すみませんと謝りながらコーヒーを淹れるロゼに目が点になる。

「お、おう。」

シリウスはロゼの適応力の高さに感心するのであった。二人は向かい合ってダイニングテーブルに座り、ロゼの作ったベーコンエッグやトーストを食べた。

「上手いもんだな。」

シリウスは満足そうにコーヒーを啜っている。

「街にいた頃は友達とよくお菓子を作ったりしていたので。」

ロゼは嬉しそうに少し笑った。二人で暫く雑談をした後、シリウスは徐に立ち上がり、自身の部屋から丸められた羊皮紙を持って帰ってきた。シリウスは朝陽の差し込むダイニングテーブルの上にその地図を広げる。すると読めない文字の書かれていただけの羊皮紙にみるみるうちに地図が描かれていく。

「綺麗。」

ロゼは息を呑んだ。シリウスは地図から目を上げてロゼに視線を送る。

「綺麗なんて言葉が出るとは上等だな。」

シリウスがニヤリと笑う。ロゼはその魔法のような美しさに見入っている。すると、ロゼはゆっくりと右手の甲の側を朝陽の柔らかな光の中に差し出した。右手には禍々しい斑がゆっくりと現れた。ロゼは目を伏せ手を引っ込めようとする。するとシリウスは勢いよく立ち上がり、その手をぱっと掴み、太陽光に当て続ける。数秒が経った。

「ロゼ、見てみろ。この手の甲に出てるこの痣の形、この地図のこの地形とそっくりだと思わないか?」

シリウスはロゼにそう聞きながら地図のインクをなぞる。ロゼは掴まれている手に浮き出た蠢く斑を凝視する。

「確かに似ているような…。」

ロゼはそう呟くと右手をひっくり返す。すると手の甲側に浮き出た斑に続くようにインクが浮かび上がる。続いて左手の甲、掌と順番に朝陽の元に晒してゆくと、するすると筆で描いているかのように斑が繋がっていく。その形は驚くことに羊皮紙のものと酷似している。さらには破けて形が分からなかった箇所も皮膚にはしっかりと描かれていた。

「やっぱり!これも地図と同じです!」

ロゼが興奮気味に言うと、シリウスは何かを探るようにロゼの瞳をじっと見つめた。

「この痣って、この島の霧が晴れた時に突然出たんだったよな?」

シリウスはロゼの腕を色々な方向に捻りながら問う。

「そうです。今まで生きてきた中で一度も出たことはなかったです。そしてこの地図も心当たりがなくて。何で私の体に地図が描かれているのか全く見当もつきません。」

ロゼが目を伏せながら答えると、シリウスはロゼの腕から手を離し、ダイニングテーブルの椅子にどかっと座った。

「そこなんだよな。」

シリウスはすっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干すと、頬杖をつきながらロゼに尋問を初めた。

「お前、確かこの島の大きな街に住んでたって言ってたよな。そこってどんな街だったんだ?有名なものとかさ。」

ロゼは霧に包まれ霞む記憶を呼び覚まし答えた。

「私がいた街はネーべルという街で、この島の中では一番大きな街だったと思います。大きなファッションストリートとかおしゃれな喫茶店とかがありました。街の外には大きな鉱山があって、そこで採れる珍しい鉱石があるみたいで、その鉱石を使った置物とかアクセサリーが有名だったと思います。」

シリウス頷きながら続けた。

「なるほどな。じゃあ、お前自身のこと教えてくれ。親兄弟のこと、学校のこと趣味。何でもいい。」

ロゼは少し考えてから口を開いた。

「私はネーべルの街で菓子会社を経営する父と医師の母と三人で暮らしていました。兄弟はいません。母は私に医師になって欲しかったみたいで、私を名門の私立女子校に進学させてくれました。父も毎日私にお菓子や可愛い服を買い与えてくれて。本当に私のことを可愛がってくれていました。実を言うと、両親とは血の繋がりがないんです。」

シリウスはそこまで聞くと、一度ロゼの話を遮った。

「そうなのか。実の親はどうしているんだ?」

ロゼは首を横に振りながら

「実の両親は私がまだ幼い頃に亡くなっています。当時は家族三人で違う村に住んでいたようですが、私にはその記憶がほとんどなくて。どういった経緯で私が義両親とネーベルの街で暮らすようになったのか、実のところ分かっていないんです。義母から、私の実の両親は優秀な学者だったと聞かされています。それくらいしか情報がないのですが…。」

と目を伏せる。シリウスは少しの間遠くを見つめた。

「と言うことは、ネーべルの街に行くよりもお前の故郷を探したほうが良さそうだな。でも、場所は不明か…。」

シリウスは顎をさすりながら呟く。すると、ロゼは何かを思い出したようにあっと漏らすと、立ち上がって自室へと入っていった。程なくして、ロゼは一枚の地図を手に戻ってきた。

「これ、オーブスト島の地図なんですけど。これまでの経緯を参考までにお話しします。」

ロゼは地図を指差しながら説明を始めた。

「ここが今私たちいるサンドバルトの港町です。そして、ここが一番大きな街のネーべル。ここからの距離は三十キロほどです。私はネーべルの街を出発してからいくつかの村や街を経由してここに到着しました。」

シリウスはなるほど、と頷きながら聞いている。

「ネーべルの街には警備隊がいて、私は痣の化け物として追い回されていました。そこで、私はとにかくネーべルの街から離れようと思い、馬車に乗ってワルダ村という農村に辿り着きました。そこで、私は死ぬことにしたんです。」

ロゼがそう続けると、シリウスは眉を顰める。

「どういうことだ?」

ロゼは一旦呼吸をおいて続けた。

「私、生まれて初めて人から蔑まれ、化け物と罵られ、迫害されました。今までの暮らしが一変して、どうしたらいいのか分からなくて。でも、私生きることへの執着は強かったんです。どんなに辛くても、決して自ら命を絶とうとは思いませんでした。どうすれば追手から逃れられるか、どうすれば生き延びられるかそればかり考えて過ごしました。そこで、私が存在しなくなれば良いんだってことに気付いたんです。だから、私は生きるために死ぬことを選びました。」

ロゼの瞳が揺れた。シリウスは、それで、と先を促す。

「私は村の新聞屋の少年に頼んで、痣の化け物は死んだという新聞記事を書いてもらいました。きっと記事だけでは信じてもらえないから、その時着ていた服や靴も一緒に置いてきました。ネーべルの街からワルダ村まではさほど離れていないから、きっと追手が探しに来ると思ったんです。あの少年はきっとうまくことを運んでくれたんだと思います。実際に私が逃げている間、追手は来ませんでしたから。」

ロゼはさらに地図上に指を滑らせた。

「ワルダ村を出た後はヒュンネル、オリバン、ガシュートと村を転々として、その時に島の外に出る連絡船があるという情報を耳にしたんです。私は島の外に出るためにこの港に来たんです。」

ロゼは当時のことを思い出し、ため息をついた。

「なるほどな。訳ありだとは思ったがここまでとはな。」

シリウスはそう呟きながら羊皮紙の縁をなぞった。その時、ロゼは何かを思い出したようにあっと声を上げた。

「そういえば、ワルダ村の森の中に隠れていたときに不気味なものを見ました。」

「不気味なもの?」

シリウスは首を傾げ先を促す。

「ワルダ村の奥の方に立ち入り禁止の空き地があったんです。しばらく誰も手入れしていないようで、草は伸び放題でした。私は追手から隠れようと、その空き地のさらに奥の森に入りました。森には変な形の大きな木があったり、綺麗な湖があったりしたのだけれど、その奥にさらに進むと立ち入り禁止って書かれた看板とバリケードのようなものが建ててあって、その先に…廃墟がありました。とても気味が悪くてすぐに引き返してきたのだけれど。あれは何だったのでしょうか…。」

ロゼは、人の侵入を頑なに拒もうとするバリケードや気味の悪い廃墟を思い出して身震いした。

「侵入禁止の森に廃墟か…。」

シリウスは少し考えた後、

「よし、その廃墟とやらに行ってみるか。」

と提案した。

「え、あそこに行くんですか?立ち入り禁止ですよ?それにすごく気味が悪かったですし。」

ロゼは顔を顰めながら反対する。

「ばか、海賊がなに迷ってるんだ。いつまでも同じ場所に留まってたって何も始まらないだろ?それとも、怖いのか?」

シリウスは小馬鹿にしたように笑いながらロゼの額を小突く。ロゼは額を押さえながらシリウスを睨む。

「別に怖くなんかありません。それに私海賊じゃありません。」

シリウスは、じゃあ決まりだな、と呟くとシャワーを浴びに浴室へと消えていった。ロゼは正直ワルダ村のあの不気味な森に戻るのは気が進まなかったが、一緒に航海をすると決めた以上船長の意見に従わないわけにはいかなかった。それに、もしかしたら自分の体に浮かび上がる痣の正体も分かるかもしれないと、何とか自分を奮い立たせるのであった。

 その日の昼過ぎ、シリウスは航海に必要なものを買いに街へと出て行った。ロゼは体にまだ斑の地図が浮かび上がっていたため、船で留守番することとなった。しばらくした後、シリウスは両手に一杯荷物を抱えて船に戻ってきた。

「ただいま。外暑いなおい。」

シリウスはテーブルの上に荷物をどさっと置くと、額の汗を腕で拭いながら息を吐いた。

「たくさん買ってきましたね。」

ロゼは袋の中を興味津々に覗いた。

「航海にはいろいろと必要なんだ。物資は大きな街で買ってたほうが良いんだよ。」

そう言うと、シリウスはダイニングの椅子に座り、広げたままの地図を確認した。

「さっきの地図からすると、ここの港町から船回してワルダ村の隣の街まで行けば良さそうだ。明日の早朝出発だ。」

シリウスの横顔は海賊だった。

「はい!船長!」

ロゼが敬礼などして見せると、シリウスは眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をした。


 翌日の早朝、二人はワルダ村の隣町、ビルセンの村外れにある港に向けて出航した。波は穏やかに船をあやす。シリウスはコンパス片手に地平線を眺めている。ロゼは初めての航海に子犬のように瞳を輝かせ、シリウスが舵を切るたびに小さく歓声を上げるのだった。三時間ほど船を走らせた頃、小さくビルセン村が見えてきた。

「もうすぐ到着だ。」

シリウスが声をかけると、ロゼは甲板から大きく身を乗り出し村の方を確認した。村から少し外れたところにとても小さな船着場があり、そこには数隻の漁船が停泊している。シリウスは慣れた手つきで船を停めると、ふうと一息ついた。

「着いたぞ。ここからワルダ村へは歩いて一時間ちょっとってとこだな。必要な物まとめたら出発する。」

シリウスはそう言いながらカバンにぽいぽいと必要な物資を投げ込んでいく。ロゼも地図と数枚のコインをポケットに突っ込むと、ショールを頭から被った。

「うーん。何だか目立つな。」

シリウスは青いショールを頭から目深に被るロゼに苦笑している。

「仕方ないです!これがないと日中は出歩けないんですから。」

ロゼは子供のように頬を膨らませて言い返すと、すたすたと船を降りて行った。

 港を出てすぐは、なだらかな農道がしばらく続いた。農道の両脇にはビルセン村の特産品だろうか、見たことのない植物が黄金色に輝きそよ風に揺れている。農道を抜けると小さな橋があり、その下を小川がキラキラと流れている。そこからは山に入って行く坂道が延々と続いていた。シリウスは体力がありなんなく坂を登っていくが、ロゼは途中何度か足を止め、上がった呼吸を整える。そして、なんとか重い足を動かして坂道を上り切ると、『この先ワルダ村』という看板と村の門が目に入った。

「ようやく到着だな。」

シリウスがロゼに水を渡しながら言う。ロゼはコクコクと頷きながら水を受け取り、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。

 ワルダ村に足を踏み入れると、村の住民が商いや畑仕事をしていた。シリウスは一人村の中に入って行く。ロぜは門のところで足を止め、事件のあった日のことを思い出していた。追手に追われる恐怖、生への執着、父、母、友人、警備隊、街の人々、新聞屋の少年、商店の女主人…。色々な情景が脳裏に蘇る。

「おいロゼ!何してるんだ?」

数十メートル先でシリウスが呼んでいる。ロゼの視界にようやくシリウスがはっきりと映ると、小走りで駆け寄り二人で村の奥へと進んでいった。

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