第08話 仕える主のために
しん、と執務室に沈黙が降りた。どちらとも口を開くことなく、浅い呼吸の音だけが響く時間が流れる。
「なあ、どうすればいい?」
先に口を開いたのは、
「俺は、俺たちは。どうすれば殿下に報いれる?」
迷い子のような口調で、独り言ちるように呟く。
燕皓には分からなかった。身分に隔てなく自身を取り立てて貰った智星には恩義がある。その彼が襲われる理由も、皇太子を挿げ替えたい理由も、自分の中で考ええぬいても答えが出ないのである。おそらくは権力や地位といったものが絡むであろうとは予想がつく。しかしだからといって、地神の加護をまた数少ない皇子を狙い、陛下を謀るようなことをしでかすことに繋がらなかった。
「決まっているだろう?」
混乱し始めてきた燕皓の思考を遮るように、響く声。
「……決まってるのか?」
「簡単なことだ。今の殿下が“偽影”であることを、知らしめてやればよい」
「先程言ったのはあくまで可能性の一つだが、そういった思惑があるのは確かだろう。だからこそ、私たちが動いてそれらを潰さなければ」
「そう、か。そうだよな」
“偽影”を利用することによる皇太子の挿げ替えは、あくまで鏡月が想像するその後の選択肢の一つである。しかしながら、“偽影”の後ろに居る者が彼を操れるのであれば即位後に
「とりあえず、引き続き情報収集だな」
「ああ。私は内務局の仕事の傍ら、どのような方術が使われたかを調査していたが。話を聞いて探す棚の見当がついた」
「昼下がり三ノ刻には“殿下”を保護した衛士たちと直接、話をする予定だ。何か聞いとくことはあるか?」
衛士たちの聞き取りは何十回とも経験があるが、課題を分析することについては鏡月の方が
「それについては
「あー、つまりどういう話だ?」
「“偽影”を保護した際の環境だ。場所や、他に一緒に居た者の存在、時間帯、天気といった事実などな」
もし方術が使われているのであれば主観的な事実の揺らぎも手掛かりとなるが、それと共にその場の状況というのも等しく重要な意味を持つ。強い方術には縛りが多く、その場の環境や事前準備が大切になっており、限られた場においてしか効力を発揮しないものも存在するためだ。
特に、今回のようにそっくりそのまま存在が入れ替わっているような事象が方術であるとするなら、そういった何かしらの縛りがあると考えるのが妥当であった。
「了解。そうだ、
「ふむ。私も行きたいところだが、任せるのが確実か。……斯様なところで、敵方に勘付かれても困る」
そこでコンコンコン、と部屋の扉を叩く音が響く。
「おっ、昼ご飯か?」
立ち上がった燕皓よりも早く、鏡月がそそくさと扉まで移動して自ら開ける。すると向こうに居たのは、先程食事を頼んだ部下であった。
「お二人分の昼食が届きましたので持ってきました! こちら鏡月さまの分です」
「有難う。助かる」
「それでこちらが燕皓さまの分です」
「どうも! 持ってきてくれてありがとな」
それぞれが昼食を受け取れば、部下は一礼をして去っていく。机に置かれた昼食はどれも湯気が立っており、まだ温かなうちに文官たちの手に渡るように
「うわ、今日の飯も美味そうだな」
「そうですか。ほら、さっさと食べて仕事に戻りますよ」
「「いただきます」」
どちらから声を掛けることなく、手を合わせる音が重なる。お互いに静かに視線を合わせてから外して、二人とも手に箸を取った。
食事を終えて解散し、内務局を出た燕皓は一人。少し集合時間には早いものの、他にやることもないため衛士局へと向かう。
先程の食堂に向かう人とすれ違っていたのとは反対に、
実際に欠伸を零す者も少なくなく、つられて燕皓も欠伸を噛み殺した。
「ふぁ……」
眠たげな
「
「よ、
気安く燕皓に声を掛けるのは
小休憩のための椅子に座り、机にべたーっと上体を倒している白鴎の目の前に、相対するように座る。するとそのまま上目遣いで、意地でも身体を起こすことなく燕皓を見遣る灰色の目。
「あー、あれね。今たぶんまだ担当だった衛士は仮眠してると思うけど」
「知ってるさ。二ノ刻半に
「そっかそっか。じゃあ僕と一緒で今は暇潰してる訳ね」
「そーゆーこった」
片手で頬杖をつきながら、衛士局を見渡す。
担当の交代の時間までまだ時間があるためか、各々寛いでいる衛士の姿が多くある。一部の者は書類整理といった事務仕事に追われているものの、過ぎゆく時間を享受しているようだった。
「なんか大変そうだよねー。なんか宮中がぴりっとしてるのわかるもん」
「まあ今回は事が事だからな。皇太子に関する一大事ってことで、四侯のみんなも焦燥している感覚はある」
「そっか、四侯か。……なんか燕皓が四侯だっての、実感湧かねー」
「俺もまだ実感湧かねー」
「いやそりゃ駄目でしょ。しっかりしてよ」
くっくっくと笑みを溢す白鴎に、ふはっと燕皓も笑い声を上げる。
登官試の試験で出会ってから、同じ衛士として切磋琢磨してきた中である。官吏としての交友関係では、数少ない気の置けない友人であるからこその空気感が二人の間には満ちていた。
「ね、まだ時間あんの?」
「二ノ刻半までならな」
「じゃーさー」
そこで白鴎は一つぐぐーっと伸びをして上体を起こすと、にやっと挑戦的な笑みを浮かべて燕皓を見た。
「眠気覚ましに手合わせ一発、どうよ」
「そりゃいいな! 最近身体動かす機会もなかったし」
「なーんか久しぶりだしねー。それに四侯さまの実力、時間あるときに味わっとかないと」
「そんな大層なもんじゃねえよ」
立ち上がった燕皓に追随するように、白鴎も椅子を立つ。
明陽宮の衛士局、軍務局の側には鍛練用の開けた中庭――通称・鍛練の庭が存在しており、通常であれば武官らや衛士たちの訓練が随時実施されている。しかし今は昼休憩の時間であることもあり、空いている場所であれば自由に利用することができるのだった。
「槍練習用の長棒でいい?」
「勿論。取りに行ってくるから申請頼めるか?」
「あいよー。先に鍛練の庭に行ってて」
練習用の武器は衛士局の備品であるため、休憩時間の使用には申請が必要である。軍務局から持ってくることもできるが、次の予定も衛士局である。いちいち行ったり来たりするのも面倒だ、と有難く手続きを白鴎に任せた燕皓は、通いなれた武器庫への道を辿り始めたのだった。
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