第03話 平民上がりの四侯
陽が高く登り始め、官吏や侍女や下女たちの動きも活発となる。吹き込む風に洗濯された手巾や衣服がはためき、明陽宮を彩る木々も色鮮やかに陽の光を享受する。人通りの多さに、
それでも昼前、さらには第一皇子の帰還ともなれば、宮の中心部に近づくにつれぱたぱたと鳴る足音たちがより大きくなっていく。するすると人を避け急ぐ道には、顔見知りの武官や衛士もおり。時折視線が合っては挨拶を交わす。
「燕皓さんこんちはー」
「こんにちはです」
「お疲れ様です、燕皓さん」
「お疲れさんです」
燕皓の身体能力の高さと人柄を知る官吏たちは、宮中でも友好的であった。平民から官吏になったというのは物珍しさもあり、それも四侯に取り立てられたとなればやっかみを受けることも多い。それこそ、優れた血にこぞ強い加護があると考えるものも少なくない。
「
「げっ」
(
焔丞相こと、名を
「まだ廊下は走ってないです」
「“まだ”?」
眉間に刻まれた深い皺に、貫禄を醸し出す整えられた髭。物々しく部下を引き連れ、顰めっ面が常態となっている焔こそが――炎の血脈の中で宮中で最も高い位に就く者であり。
「いついかなるときも、廊下を走るような事態にならぬようにすべきであろうが」
「……そうですね、すみません」
「ふん。何が悪いのかを理解しているとは思えんな」
そして平民上がりで四侯に取り立てられた燕皓を、同じ血筋に属しながらも敵対的に見ている者でもあった。
「この一大事に斯様な場所で何をしているのだ。智星殿下との謁見は済ませたのか?」
「既に終えました。これから、衛士局へ向かうところです」
「やるべきことは理解しているようで何よりだ。他の四侯はどうした? まさか遅れをとっているのではあるまいな」
「各々がそれぞれのやるべきことに取り組んでおります」
「やるべきことのみを行うのでは足りん」
ぴしゃりと放たれた言葉に、ぐっと奥歯を噛む。焔の後ろに控える者たちが、目だけで嘲笑うのが分かった。初対面のときから積み重ねられた嫌悪感が、無意識に燕皓の喉を締めていく。
「ただでさえ知識も経験も足りんのだ。だからこそ求められる以上の努力により、成果を出す必要がある」
「承知、しております」
「これ以上殿下の身が危ぶまれる事態は避ける必要がある。武官として、四侯として、成すべきことを――」
「――ああ、燕皓! こちらに居たのですね」
鮮明に耳へと響く声にさっと振り返り見れば、見慣れた深緑の長髪がはらりと舞う。
「
「嗚呼。その通りだとも、
「それは失礼いたしました。なにぶん、急いでおりましたもので」
あくまでも自然に燕皓の隣に並び立つと、苓安は朗らかにそう返答する。焔が忌々しげに口の端を引き攣らせたところで、控えていた男の一人がさっと前に躍り出た。
「丞相、次の予定が」
「そうか。残念だ」
「お時間でしたか。引き止めてしまい、申し訳ありません」
四侯の長による丁寧な対応を一瞥すると、丞相はじっと睨み付けるように柑子色の目と視線を合わせる。それは、半ば強制的に学習させられた官吏としての行動を要求するもの。
「……ご鞭撻、有難うございました」
「ふん。ゆめゆめ忘れるな。その地位に求められる素養を持つ人物が、他にもいることを」
一際低い声でそう告げた後、問答無用で前に踏み出してくる一行。慌てて燕皓と苓安が左右に道を開ければ、それを当然であると言うかのように焔たちは去っていった。
気がつけばしぃんと静まり返り、人通りもほとんどなくなった廊下。後ろ姿が見えなくなったところで、燕皓はふぅー、と深く息を吐き出した。
「苓安さん、ほんと助かりました……!!」
「災難だったねえ。思わず当てずっぽうな内容で声をかけてしまうくらいには、ね」
「あのまま続けられていたら、どうなっていたことやらです。見てくださいよこの鳥肌!」
さっと軽く袖を捲り上げて、苓安の前に差し出す左腕。まだぽつぽつぽつと、目視できるほど毛穴が収縮しているのが分かる。
「うーん、これほどまでものは初めて見た。興味深いねえ」
「ちょっとなんで楽しげなんですか!」
「ほら、医学と薬学は密接に関わり合っているからね。人体も、僕の興味を引くものの一つという訳さ」
「そうですか……って、どうしてこちらに? 大変助かったんですが、確か医務局に向かったんじゃあ」
話の流れがぴこんと思い出し、燕皓は軽く首を傾げる。鏡月を話をしていたこともあり、四侯がそれぞれ動き始めてからそれなりに時間が経つ。別れる際に苓安が目的地としていた医務局は、衛士局と概ね似た方向にある。そのため真っ直ぐ向かっていたのであれば、燕皓の背後から声を掛けることにはならない。
「尚書局に用事があってね。一度そちらに行っていたんだよ」
そう言うとゆっくりと一歩を踏み出し、苓安は歩きながら話すことを促す。
「殿下のご帰還は大変喜ばしいけれど、従来の仕事も並行してこなしていかないといけないからね」
「文官の仕事もあるのに、四侯の仕事でもいつも支えてもらってすみません」
「気にしない、気にしない。最初は皆、分からなくて当然であるし、これから成長してくれたら十分だよ」
ふふふ、と零される笑い声すら柔らかく、薬草を思わせる苓安の香りも相まって段々と気分も落ち着いてくる。思えばざわざわと泡立っていた肌も、いまや気にならないくらいに燕皓の心持ちは穏やかになっていた。
「それに、焔丞相はああ言っていたけどね。僕は君と出会って、殿下の判断に間違いなどなかったのだなあ、って思ったよ」
「えっと、それって、どういう?」
「さあ。考えてご覧? おっと医務局に着いたね」
話に夢中で気が付かなかったものの、苓安が立ち止まったのは医務局の扉の目の前であった。目を瞬かせた燕皓に、深緑の瞳を細めて四侯の長は微笑む。
「それじゃ、また。何かわかったことがあれば、共有してね」
「……っ、有難うございました、苓安さん!」
医務局へと入っていく苓安を、会釈で見送る。なるべく自然に衛士局へ向けて歩き出すものの、咄嗟に嘘でも是と応えられなかった自分に、もう少し上手く誤魔化せないものかと落胆せざるを得なかった。
(長所と短所は表裏一体と言うけれど)
周囲の官吏たちを見ていると、理解できることではあった。本心と表面上で取り繕われた心と、その両方を使い分けることは宮中で必要な能力である、と。
その一方で、今は亡き両親の言葉がずっと胸に留められているのだ。
『素直でいなさい。嘘はいつか、身を蝕むから』
「――お、来た来た。遅いぞ燕皓ー」
衛士局が見えてきたところで、ひょこりと中から覗いた顔がにんまりと笑みを向ける。ひらひらと振られる手と共に、さらさらと結われた銀白の髪が揺れる。
「瑛珉兄! お待たせしてすいません」
「良いって事。どっかで合流したかったから問題ないぜー」
「有難うございます。何か掴めましたか?」
訊ねながら燕皓はついと扉向こうに視線を遣る。昼時で交代の時間であるのか、覗き込んだ衛士局は人もまばらであった。
「対応した衛士本人らは、生憎仮眠中らしくてな。とりあえず調書をもらって、後で話を聞く予定だ」
「分かりました。では軍務局に?」
「いや、
出てきた言葉に、思わず目が丸くなる。燕皓の様子にくすりと笑って、それから瑛珉は手に持つ十数枚の調書に目を落とした。
「ざっと目を通したが、どうにも書いてあることが二転三転しているんだよなー」
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