7.失
失※1
本を閉じると立ち上がる。
時計がチッチっと音を立てていた。
目を細めてそれを見る。
扉を開けてハツがやってきた。
相変わらずめざといことだ。
いや、誤魔化しがきかないと言うべきか。
「出かけてくるよ。……あとは、わかっているね」
頷いて、こちらを見る。
表情だけで気持ちを伺うことは難しいと他人は言うが、慣れれば
振り返らずに玄関から出る。
背後から追いかけるように声が聞こえた。
『いってらっしゃいませ、
街中のとある廃ビルの前に
ふむ、と顎に手を当てる。
住所はここになっている。
隣に建っている病院を見た。
あそこは
口に笑みを浮かべた。
ビルの中に入る。
夜が近いビルの中は薄暗く、吹きさらしの壁から入る風が寒い。
コツコツと音を立ててひび割れた床の上を歩く。
その時。
なあお、と鳴き声が聞こえた。
何もいない。姿も見えない。
ふん、と鼻を鳴らして発光するボールを投げた。
反射した影を見てもビルにある物体以外は何も映らない。
ここには何もいないようだ。
だとしたら、あの鳴き声は何なのだろうか。
「猫、ね」
ここに来たのは夜になると聞こえる謎の猫の鳴き声と不審火を調査してくれというものだった。
肝試しをしている不届き者やホームレスの仕業ではないかと思った管理人が何度も確認したらしいが、異常は見当たらない。
それなのに、夜になると猫の鳴き声が響き建物の外からでも火が赤く燃えているのが見える。
わけがわからない。不気味だ。
警察にも話には行ったらしいが、見回っても同じように何も見つからなかったという。
ゴミが落ちていたり落書きがされていたりというような人が入った形跡もない。
どこか頬がこけた中年の男がそう言って依頼にきた。
いや、正確には外出先の西園寺に声をかけてきたのだ。
自宅で療養した後、体調が上向いてきてソファで本を読んでいるとハツに少しは外の日光に当たってきてくれと伝えられた。
特に行く当てもなかったので、数年前から
喫茶店に行くことは誰にも言っていないのにも関わらず。
「ここに来ることを誰に聞いた?」
そう言っても呆けたような顔で管理人は首を傾げた。
「それがはっきり覚えてないんだよ。世間話みたいに言われたのは覚えているんだけどね。若いやつで女か男かわからないような顔をしていた気がするな。最近はそういうやつ多いだろ」
男の妄想かと思ったがそれにしては話がしっかりしていると思った。
付近で聞きこみを行ったところ、確かに妙な出来事は起こっているようだ。話も男の内容と一致する。
だから、夜に赴いてみようと西園寺は考えた。
謎の正体を見るにはそれが一番早いだろう。
はたして。
期待した通り、怪奇が起こりはじめた。
あたりに火が灯りはじめる。
それが、西園寺を取り巻くように輪を描いて燃え盛る。
襲いかかってきた火の粉を避けて飛び退いた。
カンカン、と音を立てて金属製の階段を駆け抜ける。
火は背のすぐ後ろまで近づいている。
やがて、屋上に出た。
錆びた扉は傾いて最早意味をなしていない。
一気に外に走る。
炎をまとった猫が一斉に西園寺に跳躍してきた。
一瞬目を細めて、西園寺は手を広げる。
「来い」
人型の闇が何もない空間から浮かび上がった。
腕を鞭のように振るうと次々と猫を叩き落とす。
苦悶の声を上げて、猫は床に衝突するたびに霧散した。
「なかなかに手がこんでいるね」
冷たい目でそれを見てからフッと目を上げた。
いつの間にそこにいたのか、赤コートの人物が佇んでいる。フードを目深にかぶっていて顔は見えない。
何を言うこともなく空気に溶けこんで沈黙していた。
「炎をまとった猫ーー、『
西園寺は緊迫した状況にも関わらず、失笑する。
「まんまと誘き出されたというわけか」
コツコツと近づいて低い声で言う。
「……何が目的だ」
赤コートの人物は片手を上げた。
その手には銃がある。
西園寺にじりじりと迫る。
臆することなく互いを見つめると二人は向かい合うように移動した。
赤コートの人物が西園寺の真正面に移動すると風が吹いた。
高い場所に吹く強い風だ。
二人のコートがはためく。
フードがわずかにずれて、西園寺は固まった。
乾いた唇から声が漏れる。
「……お前……」
目を見開く。
空気を裂くような破裂音がした。
ぐらりと身体が揺れる。
いつの間にか
一瞬の浮遊感とともに重力がかかる。
あっという間の出来事だった。
わずかな水音を立てて、ビルの隣を流れる川に落下した。
それを静かに見下ろすと赤コートの人物は背を向けた。
人の絶えた屋上はただ荒廃していて、細い吐息のような音の風だけが吹き抜けていた。
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