人※4

「さあ、着いたよ」


 日の光の中に桜が舞っていた。

 いつの間にか昼間になっている。


「ここは……」


 自分が住んでいる街だ。

 そして、暴行された場所に近い。


「見ろ」


 そう言って顎で示したほうを見て息をのんだ。

 俺を蹴った男が妻らしき女性と子どもと語らっている。

 女性は自転車の後ろに取り付けた座席用のカゴに子どもを乗せた。

 保育園に送っていくのだろう。

 普通の家族の風景がそこにはあった。

 妻が手を振って自転車を漕いでいく。

 男は笑顔で手を振って見送る。


「どう思う?」

「どうって……」


 強い目力で俺を見る。


「今は彼が死ななかった世界だ」 


 西園寺さいおんじは淡々と言う。


「日付は君が蹴られていた日の一日後。本当だよ。こっちで見ればいい」


 俺は携帯電話を持っていないのでその場で日時を確認できない。

 少し歩くと店の前で新聞を売っていた。

 確かに日付は俺が記憶している日の一日後だ。

 彼を見て少しホッとしてしまう。

 視ることで、彼が死なないということがわかってしまうからだ。


「君は今、安堵あんどしたね」


 勝手に人の表情を読まないでほしいが、西園寺はそう言った。


「何か変わったことは?」


 変わったこと?

 死ななければ、それで……。

 視線を移した俺は目が疼くのを感じた。

 まさか。

 遠ざかって行く背中を追いかける。


「そっちへ行っちゃダメだ!」


 男の妻らしき人に声をかける。


「な、なんですか?」


 俺の形相に動揺しているが無理もない。

 このまま進ませるわけには行かない。

 カゴを掴んで自転車を止めた。

 子どもはキョトンとした顔をしている。


「なんですかあなた。警察を呼びますよ」


 女性は動揺した顔をしている。

 俺は自転車を少し見てから言った。


「すみません。ちょっと言っておきたくて」


 俺は違う方向の道を指差す。


「こっちから言ったほうがいいです。向こうの道は工事してますから」


 女性が行こうとしたほうは坂になっている。

 反対に俺の示した道は平坦だ。

 完全に不審者なので話を聞いてもらえるかは一か八かだが。

 ゴクリと唾を飲みこんだ。


「そうなんですか?ありがとうございます」


 女性は簡単に引き下がってくれた。

 少し進んでから言う。

 何かに戸惑ったように首を傾げて。


「あれ?おかしい。ブレーキが」


 やっぱり。

 俺は唇を引き結ぶ。

 女性は引き返してきて言った。 


「すみません、ブレーキが壊れていたみたい。坂のほうに行ってたらケガしてたかも」


 少し笑って言った。


「ありがとうございます」

「いえ……」

「あの、もしかして自転車が壊れていることがわかっていたんですか?」


 だったらそんなに回りくどいことはしていない。

 ただ、あなたと子どもが死にそうなのがわかったから、なんて言えない。


「たまたまですよ」


 そう言って誤魔化しておいた。

 女性は頭を下げて去って行く。

 自転車は降りて、押していった。

 そのほうが、いいだろう。

 見送って引き返そうとすると、背中に気配を感じた。

 男が怒りの形相で立っている。


「おい、お前俺の妻と何を話していた」

「あの道は工事しているから違う道にしたほうがいいと言っただけですよ」


 どうやら俺を蹴ったことは覚えていないようだ。

 なかったことになっているのか。

 男は不服そうにしている。


「チッ」


 しばらく睨んでいたが、舌打ちすると男は歩いて行った。


「なんなんだ……?」


 男は妻の去ったほうに歩いて行く。

 本来は放っておくべきなのだろうけど、俺は気になって後をつけて行った。



 どんどん裏のほうに歩いて行って、人気がない道にさしかかる。

 嫌な感じだ。

 自然と注意して見ていると、男が懐から刃物を取り出した。


「ウソだろ……」


 俺は後ろから叫んだ。


「おい!」


 幸い男の妻とは距離があったので、男だけが俺に気づく。


「お前さっきの……」


 男がぎしりした。


「あれはお前の奥さんと子どもなんだろ。何しようとしているんだ。ブレーキに細工したのもお前なのか」

「……いちいちうるせえな。お前には関係ねえだろ!」


 話し続けながらなんとか俺は後ろに下がっていた。

 このまま向かってこられたらひとたまりもない。

 それでも、奥さんと子どもの死を回避する必要があると思った。

 なぜなら、この男を元に戻したことで起こってしまうことなんだから。


「やれやれ」


 後ろから声が聞こえた。

 西園寺が呆れた顔で立っている。

 男を追いかけるのに必死で途中から存在を忘れていた。

 そもそもこの人の不思議な力によってこの事態が起きていることを俺は思い出す。


「あの、西園寺さん……」

「これ以上、罪を重ねないほうがいいよ」


 俺のほうを見もしないで西園寺は男に向き直ると、そう言った。


「西園寺さん、通報を」

「悪いね。僕は携帯電話を持っていない」


 軽い口調で西園寺は言う。


「そもそも彼は刃物を持っているだけで現時点では何もやってないんだよ。注意程度が関の山だ。どう説明する気なのかな」

「それは……」


 至極まともで現実的な言いぶんに俺は口籠もってしまう。


「なんなんだよ、お前ら。うぜえな」 


 男は俺たちに刃物を向けてきた。

 こうなることはなんとなくわかっていた。

 男は血走った目で興奮している。


「邪魔なんだよ。まずはお前らからだ」


 そう言って男は突進してきた。

 西園寺のほうに。

 今にも腹に刃が突き刺さりそうになったとき。

 俺は咄嗟に西園寺の前に出た。


「ぐぅっ……」


 刺さる前になんとか両手で握りしめた。

 掴んだ刃からポタポタ血が垂れる。

 痛い。

 正直言ってすごく痛い。

 それでも、俺はこの刃を離す気にはなれなかった。 


「逃げて、ください。西園寺さん」

「どうして僕をかばうんだい」


 悠長に話しているときではない。

 西園寺に全く動揺している様子はないがそれでも。


「死んでほしくないからに決まっているじゃないですか」


 奥歯を噛み締める。 


「あなたは多分死なない。でも、俺の、視えるもの……。死の予言も正確なものだとはいえないからですよ」


 そうだ。

 俺は自分の能力に自信がない。

 信頼していない。

 誰かが死ぬところを見たくない。


「あなたは今日は死なない。逃げてください」


 その間にも男は力づくで俺の手から刃を抜き取ろうとする。

 皮膚が裂ける。

 肉が千切れそうになる。

 それでも、俺は。


「ほんとうに」


 クスッ。

 西園寺は笑った。


「君は馬鹿だ」


 一歩前に出る。


「西園寺さん……」

「馬鹿すぎて面白くも何ともない」


 パチンッと指を鳴らした。

 その瞬間。

 男の肉が崩れる。

 赤く。

 滑り。

 醜悪に。

 溶ける。


「なんだこれは!」


 男は、自分の腕を見て驚愕きょうがくする。

 そう言っている間にも男の顔が腐り落ちた。


「なんで、なにナニナニ」


 壊れた音楽のように男の声が割れて。

 落ちた刃は塵と消えた。

 俺は膝から力が抜けて崩れ落ちる。

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