神様だとは知らずに「私を一番に見てほしい」と願ってしまいました
自分の特技はなんだろう、と思う。
そして、好きなことはなんだったかしら。とも。
私の姉は、優秀だ。
頭もよく、美しく、そして優しい。
そんな姉を両親も友人も知人も赤の他人も、ただただ焦がれた。
私のことなど目にも入らないようだ。
ある日、私は風邪を引いて寝込んでいた。
熱が中々下がらず、頭は重く、起き上がれない。食欲もなく、苦しくて寝ることもできないとき。
私はたまらなく寂しくなって、久しぶりに母に甘えたことがあった。
「お母さん…」
部屋から出てきた私を、母は殴った。
私の頬は、腫れ上がり思わず、ボロボロと涙が出て止まらなかった。
「どうして部屋から出てきたっ!風邪がうつったらどうする!」
「お母さん」
「ましてや、あの子にうつしたら、お前を遠くに連れていくからね」
私は母に甘えることもできずに、とぼとぼと部屋に帰ることしかできなかった。
父も母も、姉を愛していた。
いや、正確には姉に渡される金品が目当てだったのだろうか。
家が裕福でなくても、美しい姉はとにかく目立つ。そんな姉を着飾りたいと思う人間はどこにでもいるらしい。
伯爵の一人息子も、王族の血が混じっているというあの男の子も、美しいものに目がないというあの女の人も、姉のことが好きだと叫ぶあの男の人も、みんなみんな姉に夢中だった。
課外授業で、国の歴史を調べようという課題が出された。
私は、この国の神様について調べていた。
この国の外れに、神様は祀られているらしい。今まで暮らしてきた中で、そんなものがあるなんて知らなかった私は、さっそく行ってみることにした。
初めての電車は不安と楽しみで心臓が電車の揺れと同じようにゴトゴトと音を立てて動いているような気がした。
「ここが…」
息を荒げながら、長い階段を上る。
山の中にある神様が祀られている場所…神社というらしい。聞きなれない言葉だ。
遠くの島国のを真似して作られた鳥居という、大きな門のようなものがそびえたっている。
元の色は、赤だそうだ。しかし、この国では赤は下品な色というイメージがあるため、白と青。そして金色の装飾がされている。
石畳の上を歩いていると、大きな社が構えている。
これもまた白と青、そして金色の装飾。
まるで小さなお城のようだ。
しかし、手入れが行き届いていないのか、装飾は剥げているし、古ぼけた…という感じが否めない。もとは、美しかったであろうそれは、山の中というのも相まって、少し怖かった。
「…神様にお供えして、お願い事を言う…」
神様は現金主義者らしい。
小銭を賽銭箱に入れ、手を叩き、願いを言う。
よくわからないが、願いをかなえるのに大金である必要はないらしい。
私は、少しばかりのお小遣いを入れると、願い事を考えた。
姉より綺麗になれますように?
両親が少しでも私を見てくれますように?
「わ、私を…一番に見てくれる人が出来ますように……」
例えば、私が寂しいときに話をしてくれる人ができるといいな。
なんでもない話をできる相手がほしい。
ごはんを食べながら、おやつを食べながら、なんでもない話をして、笑いあえるそんな相手ができるといいな。
「なんだ、そんなことか」
「え?」
誰もいないはずの空間で、声がした。
「誰……」
私以外誰もいかなったはず。
誰も立っていなかったはずの賽銭箱の後ろに、私の目の前に人が立っていた。
「ひっ!」
大きな男。
父よりも背が高い巨体。
少し煤けた灰色のぼさぼさの髪の間からこちらを見つめる瞳は、ずいぶんと乾いていて、まるで獲物を見つけた肉食動物のようで、本能的な恐怖が、じわり、と足元から這いずってくる。
逃げなくては。
私は、思わず踵を返すと全力で逃げようとして、
「ぎゃ」
こけた。
普段の運動不足があだとなったらしい。
自身の足首に足をひっかけて、自分で自分を転がしてしまったのだ。
情けない。恥ずかしい。怖い。
「っ」
立ち上がろうとして、足首に力を入れると、ビシッとした痛みを感じた。
急に走り出そうとしたから、筋を痛めたか、足首をひねったか、なんて情けない。
「大丈夫か」
男がすぐ後ろにいた。
気配も音もしないその存在に近づかれて、恐ろしく思わない人間はいないんじゃないだろうか。
「大丈夫か」
男がすぐ後ろにいた。
気配も音もしないその存在に近づかれて、恐ろしく思わない人間はいないんじゃないだろうか。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫なわけなかろう。ほれ、人の子はもろいのぉ。自分で転んで怪我をしてしまうとは…小鹿でもこうもか弱くはあるまいて」
ひょい、と起き上がらされた。
父にも抱かれたことがないので、恐怖より戸惑いのほうが大きかった。
姉が転べば一大事だが、私が転ぼうとも誰も助けてくれない。
母も父も姉も、最近では使用人すらも……。
雇い主である父と母が蔑ろにしているから、自分たちがしても構わないと言っていたのを、この前聞いたことがある。だからだろうか。最近の食事は常に冷めていて、まずい。
私が嫌いなものばかりが入っている。
ひどいときには、虫の混入まであるくらいだった。
それを見て、嫌がる私を見て、クスクスと笑うのだ。
さすがに家族一緒のときはそこまではしない。
前に虫が混入していた食事を私に出したときに、姉が切れて、何日も食事をしなかったことがあるからだ。
もちろん、私のために怒ってくれたのではない。
自分の食事にも入っているのではないか、と姉が思ったからだった。
父がシェフと使用人のほとんどを入れ替えて、ようやく食事をしてくれるようになったが、あの時は大変だった。
なぜ、黙っていなかったのかと私は鞭で打たれることになったからだ。
姉が食事を拒否している間、私の食事も用意されなかった。
すべてはお前が悪いのだと、両親は言った。
……。
やめよう。思い出すだけで悲しくなってくる。
父も母も私を心配して抱き上げてくれることはないのに、この人は違うのか。
それだけで、私はこの人が悪い人ではないのではないか、という気がしてきた。
びりっ。
男の人は自分の懐からハンカチを取り出すと、私の足首に巻いてくれた。
「あ、あの…ハンカチが」
「もらいものじゃ。気にするな」
「いや。気にしますよ…だって、ハンカチ、私のために破く羽目になって、これじゃもう…」
「気にするな。儂には使い道がないからのぉ。こうして使ってあげた方が物も喜ぶじゃろうて」
「……」
「ど、どうした…傷が痛むのか?」
「ずっずび、ずみません…。初めて手当をしてもらったので」
私が、転ぼうとも泣こうとも誰も助けてくれなかったのに。今、初めてあった人なのに、怖がって逃げようとしたのに。
「すみません……」
あの後、中々涙が止まらない私をジッと待ってくれた。
怒鳴ったり、殴ったりされないか、心配だったけど、この人はそんなことしなかった。
「いつまで泣いているんだ」
「紙の無駄だ。チリ紙を使うんじゃない」
「お前の泣き顔を見ているとイライラするんだ。泣くばかりしか能がないくせに」
そんなことを言われるかと思ったのに、黙って私が泣きやむのを待ってくれている顔に、安心して、長い間涙が止まらなかった。
「おぬしは、泣き虫じゃのお」
「いつもはそんなことないんですけどね…」
こんなに泣いたのは久しぶりだった。
子どもの時以来だろうか。
あの時は、反射的に泣いていたけど、いつからか、泣いても仕方がないということに気づいたら、泣かなくなったような気がする。
それでもたまにどうしてもつらくなって泣いてしまうこともあるけど。
人の前で泣くのは、本当に久しぶりのことだった。
「あなたは誰ですか。どうしてここにいるんですか?」
「おぬしに呼ばれてきたんじゃよ」
「私に?」
「私を一番に見てくれ…じゃったかの」
「! 聞いてたんですかっ」
顔が赤くなる。
誰もいないからと思っていたから言ったのに。
「欲のない願いじゃの。なんかもっとないのか。お金が欲しいとか、国一番の美人にしてくれとか、頭がいい人間になれますようにとか」
「? それって願うものなんですか?」
「む?人間の願いは、金か顔か力じゃろ?」
「でも、そんなのあったって、どうしようもないじゃないですか」
「そうかの?お前は、姉のように美しかったらと考えないのか?」
「……姉のこと知ってるですね。そうですよね。姉さん、きれいだもの。…そうですね。私が姉のように綺麗だったら……たまに考えるんですけど…そしたら、今の私がみじめに思えて、あんまり…」
「そうか。では、頭がよくなるようになるのはどうじゃ」
「昔、姉さんよりテストの点数がよかった時があったんです。でも、その時は殴られました」
「殴られた?どうしてじゃ?」
「姉さん、拗ねちゃったんです。それで部屋に引きこもっちゃって…だから、私が余計なことするな…って」
「そんなの勝手すぎるじゃろ」
「しょうがないんです。姉が中心ですから」
「ふぅむ。お金はどうじゃ?お金があれば、いろいろなことが出来るぞ」
「そんなの、それこそダメです。姉は、私の部屋に潜り込んで、お金を抜き取っていきますし、使用人だって最近は……。それに大金なんて持っていようものなら、それこそどんなことを言われるか…」
「ふぅむ。難しいのぉ」
「だから、私考えたんです。私のことを見てくれる人が欲しいって」
「それを望むのか。人間」
「え?」
「儂にそれを望むのか」
男の雰囲気が変わった。
息を飲むような圧迫感。
失言すれば、殺されそうなくらいに、恐ろしい。
「あ、う……」
ぼろり、と涙がまた一つこぼれた。
「……すまぬすまぬ。また脅かしてしまったな」
私の涙を見たからか、パッと雰囲気が変わる。
それと同時に圧迫感もなくなり、私はホッと胸をなでおろした。
なにか失言があったかもしれない。
私は、人を不機嫌にさせる才能があるらしいから。
「す、すみません。失礼なことを言ってしまいましたか」
「儂も生まれてこの方、そんな大仰なことを願われることがなかったからの。少し驚いてしまったわい」
「は。はぁ……?」
変わった物言いをするなぁ。と思った。
言葉遣いもおじいちゃんのようだし、この人は一体誰なんだろうとまた気になってしまう。
「神様に私を一番に見てくれ、などとんだ願いを言う人間がどんなものかと気になったから見てみれば、こんな子供とは…。やはりいつの時代も子供が一番不思議な存在じゃのう。それに欲まみれなのかと思えば、こんなにも純粋な願いなど…。ふむ、気に入った。そなたの願い叶えてやろうぞ」
「え?はい?」
私を一番に見てくれ?…ちょっと語弊があるような。私的には、優先的に見てくれる人が出来たらいいなくらいだったのに、それに神様に見てほしい?そんなこと言った覚えはない…と思うけど。
「神様がじきじきにお前を一番に見てやろうぞ」
変なことになってしまったな。
おかしい人にはついていくなという言葉が、頭の中でぐるぐるする。
いや、別についていってないし、話をしただけだし。
それにいつのまにか、神様に見てほしいって願いがすり替わっていたのもおかしいし、そもそも……。
「あの人って、結局誰だったんだろう」
山の中で修行している人…とか?
髪もぼさぼさだったし、服装も見慣れないものを着ていた。
私が、こっそりと自室に戻ろうとすると、使用人の一人が私を見つけて声をかけてきた。
「あら。お嬢さま。こんな時間まで何をなさっていたのですか?」
「…学校の課題が終わらなくて」
嘘は言っていない。
確かに学校の課題をやっていたのだから。
「ふぅん。もしかして男ですか?」
「男…?私が男の人と会っていたとどうしてわかるのですか?」
使用人は、私の言葉に、にんやりとした顔をした。
この顔はろくでもないことを考えている顔だ。
この顔をされて、私はよい思いをした覚えはなかった。
「わ、私、部屋に帰ります」
「お嬢さまが男と密会しておりました~」
「え?」
使用人のやけに大きな声が響き渡る。
「お嬢さまは、男に体を売っているみたいですよ。よいご身分ですね~」
「や、やめてください。そんなことしてません」
私が否定しているにも関わらず、使用人が次々と出てきて、はやし立ててくる。
「お嬢さまったら、やっぱりそういうことをされていたんですね」
「今度、試させてくださいよ」
「いくらもらったんです?」
「相手は、どんな男ですか?年齢は」
私は、使用人を突き飛ばし、自分の部屋に戻る。
使用人の罵声が後ろから聞こえてきたけど、そんなものは気にする余裕はなかった。
鍵を閉めて、誰も入ってこれないように、棚を扉の前に置いた。
これで万が一に怒った使用人がカギを開けようとしても、部屋には入ってこれないはず。
「……」
早く大人になりたいな。
そして、この家から出たい。
でも、どうすればいいのだろう。
慣れない山道を歩き、見知らぬ男の人と話したからだろうか。
私は、いつの間にか眠っていたらしい。
誰かの悲鳴が聞こえ、私はその声で目覚め、そこで初めて自分が寝ていたことに気づいた。
「な、なに……?」
尋常じゃない声。
深夜なのに、誰かの足音が複数聞こえる。
私は、棚を動かして、扉を開けた。
「なんの騒ぎなの?」
母の声が聞こえた。
「眠れないんだけど」
姉のヒステリックな声も。
「マリーの顔が、はれ上がっているようでして」
「顔が腫れていようが何だろうが、私たちの眠りを妨げた罰として、そいつをここに連れてきなさい」
父の怒声が響いた。
眠りを妨げられたのが、よほど腹に来ているようだ。
マリーというのは、私を最初にからかったあの使用人の名前である。
確かにほかの人より若いし、顔もキレイだったから、それを自慢に思っているような言動があった。その自慢の顔が腫れたとあっては、悲鳴も出るのかもしれない。
ニキビとかできたのかしら。
それにしては、尋常ではない悲鳴だったけど。
そして、マリーが他の使用人に連れられて、やってきた。
「ひっ」
これは悲鳴もあげたくなるかもしれない。
腫れというには、凄まじい。
誰かに殴られたように目元が腫れあがり、こぶのような大きな赤いできものが、瞼の上にできて、垂れ下がった瞼が瞳を隠している。皮膚には、細かいぶつぶつとした吹き出物があちこちにできている。
昨日の美しい肌に出来るにしては、いささか奇妙すぎるほど。
「き、気持ち悪いっ!」
姉の悲鳴が聞こえる。
そして、扉を閉めて、完全に自分は関係ないと逃げた様子。
母も、何も言わない。
「お前、病気を持ち込んだのではあるまいな」
「病気なんて、そんな…旦那様信じてください。寝ていると、急にかゆみが出てきて、掻いていたら、一瞬でこれが出来たのです。こんな病気ほかにありませんわ」
「では、どこからかもらってきたのだろう!あの子にその病気が移ったらどうする!今すぐ出ていけ!」
「そ、そんな…こんな時間では、どこも開いておりません!それに外はとても寒い」
「そんなことは、こっちには関係ない!さっさと荷物をまとめて出ていかせるんだ!いいな!」
父が、使用人の長にそう申しつけた。
マリーは、しくしくと泣いている。
誰も、彼女を慰めない。まるで触ったらうつるとでも思っているようだ。
「ね、ねぇ…誰か助けて…」
そう言って、マリーはほかの使用人の人にしがみつこうとして「いやっ!」と振り払われている。晩は、あれほどマリーの言葉一つにみんな、集まってきたというのに。誰もマリーに手を貸そうとしない。
そして、私がマリーの様子を見ていると、マリーが私の視線に気づいた。
私に見られていると、見下されたような気持ちになったのだろうか。
顔が悲しそうな顔から、瞬時に憤怒の表情に変わった。
目はつり上がり、歯を食いしばっている。
「何見てんだっ!そんなに面白いかっ!人の不幸がっ!」
「っ!」
使用人と父が私を振り返る。
まるで私が悪いと責めているような顔だった。
これをしたのは、お前なのかという顔にも見えた。
「ち、ちがっ」
「お前なんか地獄に落ちてしまえ!」
マリーの言葉に私は怖くなって自室の扉を閉めた。
違う、私は何もしていない。
しかし、マリーの言葉が頭に残った。
私は悪くないのに、どうして私を悪く言うのだろう。
朝。
マリーはいなくなっていた。
誰も彼女の話をするものはいない。
そして、食卓について愕然とした。
私の分の食事が何もなかった。スープ一つなかったのである。
「私の分の食事がありません……」
「ほかの使用人から聞いた。お前が男と会っていたと」
「そんな…初めてあった人です。知らない人でした」
「本当に会っていたのかっ!男と!」
「……」
「ほかの使用人は、お前がその男から病気をもらってきたと言っていた。そうなんだろう!?」
「ち、違います…」
「お前には、この家から出て行ってもらう。二度とこの家の敷居が跨げると思うな」
「そんな……私はどうしたらいいんですか?」
「そんなのは知らんっ!早くこいつを外に放れ!顔も見たくない!」
姉のにやり顔が視界にうつる。
どうして、こんな意地悪をするのだ。私より何もかも優れているのに。何もかも持っているのに、どうしてまだ私から奪おうとするんだ。
「……」
私は家を追い出されてしまった。
ほかに行くところなどあるはずもない。
学校だって、きっと退学手続きをされているところだろう。
祖父も祖母も姉の味方だ。
私の言葉なんて聞いてくれた試しもない。
友人なんていない。私に友人が出来ようものなら、姉がすぐに私の悪口を広めるからだ。私の言葉よりも美しい姉の言葉のほうを皆信じるから。
どうして、こんな。
「おや。また来たのか」
「……」
気が付けば、あの山まで歩いていた。
どうせ行くところもない。時間はたっぷりある。疲れていようとなんだろうと、目的地があるのだから、行ける。
「どうした。なにかあったのか?」
「…家を追い出されてしまいました」
「ほお」
「ほかに行くところもありません」
「ふむ」
「あなたは、ここで暮らしているんですか?」
「まぁの」
「私をここにおいてください。家事はしたことありませんが、覚えます。ここで働かせてください」
「ふぅむ。…嫁入りか」
「え?」
嫁入り?
「い、いや、あの…使用人として雇っていただければ」
「儂は賃金は払えん。それに一番に見てほしいと言われたしの。嫁入りとみる」
「……」
嫁入り。
あまりの展開に、どうしようという気持ちになる。
しかし、ほかに行くところもない。
「分かりました…嫁入りします」
「! そうか!儂に嫁が出来るなど、何百年ぶりじゃろう」
「でも、私その…なにぶん世間知らずなものでして、ご迷惑をかけるかもしれません」
「なんのなんのよいよい!やぁ、うれしいなぁ。今夜は宴じゃ」
「ひっ」
ひょいと、私を軽々と持ち上げるとそのまま社に向かっていく。
何もしていないのに、勝手に社の扉が開かれる。
「私、自分で歩けますので…」
「よいよい、遠慮するな嫁さんよ。儂の嫁さんは、照れ屋さんじゃのぉ~」
「そういうわけではないのですが…」
しかし、人にだっこなどされたのは、物心ついてから初めてである。
名前も知らない。正体も知らないこの人のことを信用してよいものか、と悩んだが、自分の体を抱くたくましい腕につい、安心してしまった。
これが人さらいであったなら、私は売られていくのかもしれない。
これから、私はひどいことをされてしまうのかもしれない。
どうせ、私を救ってくれる人間などいないのだ。もうどうでもいい。
「……これからよろしくお願いします。旦那様」
「うむ!任せるがよい。我が妻よ」
そうして、扉は閉められた。
何日が過ぎたんだろうか。
あの後、宴はずっと続いた。
生まれて初めてお酒を飲み、初めて食べるものばかりのご馳走に感動し、踊り、眠り、また宴会をし、気づけば、朝日に目が覚めた。
意外にも、男…今は私の旦那様だが。
旦那様は、私にひどいことは何もしなかった。
歌い、飲み、食べ、踊り、そして話した。
聞いたこともない異国の地の話や、ほかの人たちから聞く話は、とても珍しい話ばかりで、こんなにも笑い、楽しんだ瞬間はないんじゃないか、と私は泣いた。
「我が妻は泣き虫じゃあ」
「はい…私は嬉しいです。こんな涙は、生まれて初めてです」
「きっとこれからもこんな日が永遠と続くぞ」
「はい」
私は、旦那様とそのまま抱きあい眠りについた。
そして、朝日に目を覚ましたのだった。
扉の隙間から零れ落ちる日の光に、私は布団から飛び出し、扉を開けた。
妻らしいことを何ひとつできていないから、外を掃き清めようと思ったのだ。
「いい天気」
素晴らしい快晴だった。
空は青く、雲一つない。
「あの人たちは、何をしているだろう…」
家族のことが少しだけ気になった。
私に出ていけと言ったのだから、またノコノコと顔を出したら、きっと怒られるだろう。
だから、会いには行けないのだけど。
「おや。どこに行っていたかと思えば、外だったか」
「旦那様」
旦那様が、私の隣にいつの間にやら立っていた。
本当に気配を感じられない。
「家族が気になるか?」
「…少し」
「ふぅむ。ちと待て」
旦那様は、服を着替え髪を整えた。
そうすると、あまりの美丈夫になったものだから、私のほうが驚いた。
「だ、旦那様…」
「一応、嫁の家族に顔を合わせるのだから気合も入れよう」
「……がっかりされないか心配です」
私の家族は、きっと私のことを悪く言うだろう。
旦那様が気を悪くしないといいが。
それに、姉と会ってそちらに心変わりしないか心配である。
「そんなことはないとも。ほれ、おぬしも着替えよ」
「はい」
美しい柄の入ったドレスに着替え、つけたこともない装飾品、やったことのない化粧に戸惑っていると、旦那様の手伝いと名乗る人間に、筆をとられ、あっという間に化粧を施されてしまった。
「あ、ありがとうございます…なんてきれいなんでしょうか」
自身の顔に施された化粧は、キラキラと輝きを帯びていてとてもきれいでかわいらしかった。
「まるで夢のようですわ」
「ほほ。あの方のお嫁様ならば、もっと夢心地を味わえますわよ」
「…そうですね。私は旦那様がそばにいてくださるなら」
すべての支度を整え、旦那様のところに行く。
「用意できました」
「うむ。我が嫁は今日もきれいじゃ」
「…ありがとうございます」
素直な世辞に当初は戸惑ったり、謙遜したりもしたが、毎日のように言われるこの言葉に私はついに慣れること知った。
下手に謙遜するとかえって失礼と言われたのも、大きい。
姉もこんな気持ちだったのだろうか。
綺麗と言われると、本当に自分が綺麗なものになれたような気がする。
「おぬしの家は、どこじゃったかの~」
「そうだ。お金…。電車に乗らないと、家には…」
旦那様が私を持ち上げる。
「え?だ、旦那様…これから歩くのに、持ち上げる必要は…」
「ついたぞ」
「え?」
ざわっ。
突然、私たちが現れたからだろう。
周囲は驚いていた。
「え?え?」
「ここがおぬしの家か。ちと狭いのう」
「え?」
旦那様に言われて、目の前に立つ家を見る。
ずいぶんと小さい。
使用人を何人も雇っていた我が家は、一応は昔からの貴族の家だったから、それなりに大きかったはず。こんな小さな…それにここまでボロボロな家は見たことがない。
そういえば、ここはどこだろうか。
周りに立っているのは、ぼろぼろと今にも崩れ落ちそうな家屋ばかりが並んでいる。
「ここは私の家ではありません」
「そうかの?」
「私の家はもっと…」
「……リリー?」
名前を呼ばれ、顔を上げると顔の皮膚がほとんど爛れている女性が、こちらをジッと見つめていた。
5
「……」
「な、なにか?」
「おまえ、リリーか!?」
「そ、その声はお姉さま?」
「リリーあんた、今までどこに行ってたんだ!お前のせいで、この私の顔が!お前が病気など持ち込むから!」
前に見たマリーと同じような皮膚病にかかっている。
美しかった姉の顔は、見る影もない。
「お前、今までどこにいたんだ!」
「おぬし、離れんか」
旦那様の声にようやく、私が旦那様に抱かれていることに気が付いたらしい。
姉の視線は、私から外れて旦那様にいった。
そして、しばらく旦那様に見惚れてたようで、ぼんやりと見つめていた。
「どうした?先ほどまでの威勢はどこにいったのかの」
「あ、リリーこちらの方は?」
「私の旦那様です」
「旦那様ぁ?」
けひひ、と姉は私を馬鹿にするような声色で笑った。
姉の言葉遣いがひどく乱暴になっている。
生活が変わり、周りの人間が変わったせいだろうか。以前は、上品な言葉を心掛けていた姉はひどく変わってしまったようだ。
「それじゃあ、あんたは私の物ってことだね」
「? どうしてそうなる」
「そりゃあ、あんたこの子の物は、昔から私の物なんだよ。病気をもらった時は、殺してやろうと思ったが、こんな色男を持ってくるとはね」
「持ってくる…?儂を物扱いか…」
「それにずいぶんと羽振りもいいようだ。お前、最後には役に立つじゃないか」
「お、お姉さま…あなたは何もかわっていらっしゃらないのね」
「何ですって!?変ったわよ!何もかも!この顔を見たら、誰も近寄らなくなった!気持ち悪いと言われ、石を投げられたわ。テストだって、カンニングがばれて大学も落ちてしまったわ」
「カンニング…?お姉さま、ずっと頭がよかったではありませんか。勉強しなくても、点数が取れて、私はずっとお姉さまに馬鹿にされて…カンニングをなさってたの?」
「そうよ。あんたみたいに馬鹿じゃないの。いい点数が取れたらなんだってしていいのよ」
「……」
私は、ずっと頑張っていたのに。
この人は、ずっとズルをしていたのか。
「お父様とお母様は?」
「知らないわよ。あんなやつら。私を置いて、どこかへ行ってしまったわ。二人とも浮気をしていたから、お互いの浮気相手のところに転がってんじゃないの」
「……」
何も知らなかった。
浮気をしていたのか。
私以外が、のけ者にされていたと思っていたのに。
「なんだ。こんなものか」
私は、肩の荷が下りたというべきか。
すっかりどうでもよくなっていた。
「旦那様。行きましょう。もうこの人に用はありません」
「おや。もうよいのか。これからが楽しいところであろうに」
「もうどうでもよいです。それより宴の続きをいたしましょう。今度は私もお手伝いいたしましょう」
「そうか。それでは、行こうかの」
「はい」
「ま、待ちなさい!どこに行くっていうの、私を助けに来てくれたんじゃないの?」
「助けに来ると思っていましたか?私が」
「当たり前でしょ!」
「……」
これが可哀そうという感情でしょうか。
「旦那様。姉の顔を治すことはできますか?」
「む?なぜじゃ。この者はお前を虐めていたではないか」
「すべてを奪っては可哀そうです。私には旦那様がいらっしゃいますし、もう満足なのです。ですから、ここはひとつ私の頼みを聞いてくれませんか?」
「ふぅむ。しかしのぉ…」
「な、なんなのよ。その目…あんたが私に哀れみ?ふざけないでよ!」
姉が私に向かって石を投げつけてきました。
しかし、その石は、私たちにあたることなく落ちてしまいます。
まるで、見えない壁に当たったでもしたかのように。
石は跳ね返って姉の頭に当たりました。
「ぎゃ」
「なんとまぁ…醜いのぉ」
「旦那様…」
「妻の頼みと聞いて、助けてやろうかと思ったけど、気が変わった。帰るぞ」
「……はい」
蜘蛛の糸を自ら切ってしまうなんて、お姉さま、本当におかわいそう。
私たちは、そのあと宴にて、旦那様のご友人の方たちと夜をまたいで騒ぎました。
……しかし、旦那様のご友人というのは、変わった容姿の方が多くいらっしゃいます。
「旦那様…おひとつ聞いてもよろしいですか?」
「なんじゃ。我が妻よ」
「もしかして、旦那様は人ならざる者でいらっしゃいますか?」
旦那様は、一瞬間をとり、私の顔をしばらく見つめました。
そして、口が開き、一言。
「え?いまさら?」
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