第5話
◇
理事長が二階に上がり忠宗が焼いたお菓子を食べながらスコッチを飲んで資料を作る時間。
つまり時刻は夜十字を過ぎた頃。
僕は理事長が話した研究内容を反芻していた。
痛みの質ではなく、痛みの量こそ。
確かにその通りだろう。
人間は逃げる事を許されなくなれば壊れるしかない。
何処かに逃げを用意しなければ、痛みは溜まり内側から存在を破壊する。
だからクルマのフレームには内部構造に空洞が設けられ、自壊を防いでいる。
「ふーむ」
「どうしたんじゃ殿?思案顔じゃな?お主が高校生らしくない事ばかり考えてるのはいつもの事じゃし、悩むのが趣味みたいな男なのは重々理解しておるが」
別に趣味じゃないが。
必要に迫られているわけでもない。
悩んでしまうというよりは考えてしまうに近い。
生徒会長という立場だし、パート警官という職責もだし。
まあ、警官の場合の判断基準は法律だけなので悩む事は無いのだけれど。
「生きていれば傷付く事は増えて行くばかりだと気付いたというか。大人になって就職して会社に入ってしまえば其処は牢獄だ。学校以上に閉じた密室になる。其処で殺人が起きても稀代の名探偵でも現れない限り、事件解決は出来ない」
「ま、最近はそういうのを気を付けるようにと思い立ち、先輩社員の方々が率先的に和気藹々と動くようにと努力しているみたいじゃが。学校以上に閉じた牢獄だとする表現は悲しいが事実なのは確かじゃな」
絶対数としての人数がそうだ。
学校というのは閉じているようで、以外に広い密室である。
「その牢獄で傷付いて、家庭に帰ってだ。家庭内不仲だとしたらどうする?痛みの逃げ場が何処にも無い。兄貴は仕事を家庭に持ち込まないを徹底してるからムカつく事が在ったらスミレさんに内緒でキャバクラ行くって話をしてた。まあ、スミレさん普通に気付いているけど」
「紀康カップル。お互い、警備課と交通課のエースじゃしな…」
「でもスミレさんは姐さん女房という事もあって黙ってる。そうなると今度はスミレさんのような、世の奥さんが抱える痛みの逃げ場が無い。それ、何処かで誰かの我慢が無ければ痛みという概念は結局存在出来ないに帰結することにならないか?我慢しない為に発散しても、廻り廻って最後は自分に返って来る概念だ。痛みは巡る硬貨と同じで消えない。同時にこれは救済すら巡る硬貨と同じであるという事も意味している。痛みそのものが消えない以上、誰かを救うことは町のゴミ拾いと変わらない」
「成程のう。言わんとする事は理解したぞい」
心の浄化槽だと、理事長は話した。
その通りだと思った。
しかし、それは誰の浄化槽なんだろう?
ストレスを発散すればお金は出て行く。
そのストレスは結局自分へと帰って来る。
痛みを無くすために幕府は出来た。
痛みを受信する側を支え、痛みを発信する側を斬る。
しかし、それでは社会が成り立たなくなる。
何故なら誰もが受信しているし、誰もが発信しているから。
矛盾、である。
皆の味方はありえないという。
誰かの味方をしなくてはならないという。
「誰かを否定し誰かを擁護する。これは公的な機関に在ってはならない。幕府は警察と社会福祉協議会の下請けだから誰かの味方は出来ない。だから痛みという概念との戦い、それそのものが発生する事は無い。だけどそれじゃ幕府が存在する意味が無い」
「ふむ。仏教における『四苦八苦』こそが敵であると殿は言うんじゃな。でもそれ、世界中の人間と喧嘩をするに等しいぞい?傷付くのは苦しい。別れるのは苦しい。老いるのは苦しい。死ぬのは苦しい。簡単にザックリと説明しただけで、こんな感じに人間が抱える根源の痛みなんじゃぞ?」
だから、壊れてしまう人も存在する。
四苦八苦が押し寄せて、浄化槽が機能を停止してしまって。
「…もし、『四苦八苦』そのものが祟りに形作った場合。僕等は勝てるか?」
「阿呆。そんなの無理じゃろ。阿頼耶識に繋がる世界意志と戦うようなもんじゃ。確かに四苦八苦を祟りにしてしまい、それを祓えば人々にその概念が押し寄せる事は無いとする殿の考えには賛同するがのう?」
ダメか。
その、荒屋敷とかいうゴミ屋敷の事はよく解らんが。
「弁慶和尚はしかし、その四苦八苦をなんとかしてた筈だ。衣川に逃げながらも各地で人々に教えを説いたり温泉を掘ったりしている。村人を助ける為に山賊をたった独りで壊滅させたなんて逸話や伝説には事欠かないわけだろ?」
「厳密には弁慶って修行を抜けておるから和尚ではなく御坊と呼ぶべきなんじゃが。まあ、それはええ。義経公と出逢い、殿が言う通りに悔い改めてからの弁慶は正に英雄じゃ。仏の教えを誰よりも学び、人々に最も近い坊主であろうと努力をし、なにより自分を正してくれた親友の為に生きようと決めておる。各地の寒村を救うべく軍の食糧を施したり、畑をその怪力で耕したり、確かにそういう伝説は残っておるか」
「草の根活動で救われる人も居る。弁慶御坊がそれを証明してる。なら僕も、痛みが原因で前に進めなくなってしまった人々をもう一度奮い立たせたい。なんかもう、お前、僕と神降ろし交換しろよってさえ思って来たぞ?」
「殿は牛若丸以外、似合わんぞい?」
「似合う似合わないで、人生やってねえ」
「それに殿が〈ベンケイ〉宿しちゃったら、この物語のタイトルが徳川千本桜じゃなく徳川勧進帳になってしまうじゃろ。皆が主役っていう義経千本桜みたいな物語だからこそじゃぞ?」
そりゃそうか。
そりゃ、ダメだ。
忠宗が主人公だったら僕は楽出来るし別に良いんだけど。
「じゃが、殿が言う四苦八苦は無理じゃが。八苦に限れば、いけるやもしれん」
「本当か?」
八苦とは人と人が係わる事で産まれる痛み。
四苦とは個人が生きる上で産まれる痛み。
人間関係なら、なんとか行けるのか?
確かに、人の浄化槽が壊れるのは八苦が原因ではあるが。
「さっきもワシが言った通り、この時代の会社組織は和気藹々と先輩社員が率先して動くようになっておる。一昔前のハラスメントがコミュニケーションな時代を経験しとるからじゃろうな。ならば、其処に幕府によるテコ入れをすれば可能じゃ。確かに人間じゃからな、どうしても好き嫌いは本能的に存在するじゃろう。しかし、それを抑え込む術を殿は知っておる。なんせ犯罪心理学は殿の領分なんじゃし」
「フロイトが提唱した、『超自我』だな…」
人々と係わる内に、自己から発生する根源的な欲求を抑え込む事が出来る自我を形成する。
だから人間と多く触れあう事は人間形成に必要だ。
それは価値観の共有というか共鳴というか。
「でもどうする?社内の花見とか懇親会とかを企画しようにも僕等は高校生だ。そんな社会経験の無いガキが『オタクの会社の人間関係、チロッと心配だから僕等になんかさせてくださいな~?』なんて言ってみろ。僕には徳川剣術道場が放火される未来しか見えん!」
「新市街では無理じゃよ、そりゃ。外資系産業とか多いんじゃし、どうしたって生産性と効率性優先じゃし。じゃが旧市街の地元企業なら殿も顔が利くじゃろ。嫌々出勤して、嫌々働いて、そんでニコニコして退勤するような普通の田舎じゃ」
「でも子供が企画したようなモンに大人が参加するかあ?」
「どっこい。毎日のように顔を出す大人が今現在二階にいるじゃろ。そしてあの常連さんは旧市街のお父さん方と仲が良い。『地元青年会や企業を呼んでの小料理屋』を開催する。それならば少なくとも八苦に対するガス抜きは可能じゃ。和醸良酒は殿の口癖じゃしな?」
良き酒は和を醸す。
そして和が在る場に苦は無し。
「まぁーた料理か…。読者さん言ってたぞ?徳川千本桜を読んでるとお腹が空くって」
「草の根、じゃよ。弁慶がやっておったようにな?」
それも、そうなのかもしれない。
出来る事があるならば、その出来る事をだ。
こうして僕等は小料理屋・徳川の間口を一時的にとはいえ拡げた。
先天性の四苦はどうにも出来ずとも、後天性の八苦ならばと考えてだ。
しかし、何とも皮肉な事に。
僕はこの活動で初心に帰る事と成る。
どんなに人々が和気藹々と成ろうと努力をしても。
どんなに人々が和醸良酒を楽しもうとしても。
独りの心を病んだような悪党が、それを壊す。
だから僕は、悪党を斬っていたのだと。
初心に帰る事と成る。
一章丸々使っての序章ですが漸く始まります、徳川千本桜。
チャンネルは、そのまま!
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