第2話 この世より愛をこめて(2)

「依頼人の名前は?」

 遥香は書斎の肘掛け椅子に座ったまま、白い二つ折りのバインダーを開きながら聞いた。

長澤美音みおん、享年二十三歳。六年前に病気で亡くなっています。家族構成は父、母、妹、当人の四名」

「その妹というのが、京築けいちく大学文学部一回生の長澤加恋ってわけね」

「その通りです」

「うーん、あんまり気乗りしないけど始めますか。奏多、あなたも準備して!」

 遥香はこきこきと肩を鳴らした。おもむろにゆっくりと目を閉じる。そして自分の中にできあがった暗闇から、長澤美音のオーラを探り当てる。そして自分のオーラを相手のオーラにだんだんと同調シンクロさせていく。

 目をゆっくりと開くと、目の前にぼんやりと白い塊が浮かびあがってくる。その白い塊がだんだんと若い女性の姿を映し出す。茶髪の腕まで伸びた長髪。生前に病気をしていたためか、頬がこけていて青白いが、シュッと閉まった口もとも、その輪郭も、切れ長の一重も、日本人離れした顔立ちと相まって一種幻想的な美しさを放っていた。

「長澤美音さんですね。わたくし、天道寺探偵事務所の天道寺遥香と申します」

 遥香はうやうやしく頭を下げた。奏多はいつものことながら、あきれてしまう。よそ行きの顔と、内向きの顔をこうも使い分けることができる人間もそうはいるまい。

「初めまして。長澤美音と申します。噂には聞いていましたが、こんなにお若い方だったなんて思いませんでした。それにこの若さですごくしっかりしていらっしゃってびっくりです」

「いえいえ、まだまだ半人前の身でして。人間的にも……」

 そう言いかけた奏多の足に激痛が走った。遥香がヒールの踵で奏多の足の甲をぐりぐりと踏んでいる。

「生意気な助手が申し訳ありません。こちら助手の進藤奏多と申します。まだまだ半人前の身でして、失礼なことを申すかもしれませんが、ご了承ください」

 長澤美音は苦笑いの遥香と、苦痛に顔をゆがめた奏多を交互に見ながら曖昧に笑った。

「大学では妹がお世話になっているようですね」

「いえ、授業でちょくちょく顔を合わせるくらいで……。あまり仲の良いというほどでは」

「正直な方ですね」

 美音が弾けるように笑う。遥香は照れくさそうに頭をかいた。

「あの子も引っ込み思案な方で、なかなか友達ができなかったから。大学ではどんな様子ですか?」

 遥香はごまかすように笑った。それを見て美音もさびしそうに笑う。

「そうですか。もしよかったら仲良くしてあげてくださいね。あの子のことも私、心残りで」

 遥香は小さくうなずいた。奏多が横から口を出す。

「美音様、そろそろご依頼の方をお聞かせいただければ」

 美音ははっと気づいた様子で、恥ずかしそうに笑った。

「ごめんなさい。誰かと話すのも何年かぶりなのでつい嬉しくって」

 長澤美音から笑顔が消えた。そして雨垂れが滴るようにぽつりぽつりと話し始めた。

「ちょうど二十一歳の誕生日の翌月の朝でした。急激な胸の痛みが走って、自宅の庭で倒れたんです。そこから救急車が来て、入院になって、自分では二、三か月で退院できるつもりだったんですけど、そこからもう何年も退院できず転院、転院で。何年も病院から出れない状態が続きました。それでも昇平しょうへいくんはずっと待っててくれました」

「あの、昇平くんというのは?」

「私の彼氏です。彼氏だった人というのが正しいのかな」

 美音が遠くを見る目つきになる。遥香は美音の目線の先を追った。

「昇平くんとは短大の一年生の時に出会いました。男女何人かでボーリングにいったときに。私はボーリングへたくそなうえに、知ってる人もあんまりいなくて一人ぼっちでした。ずっとボーリング場の端っこで座ってたんです。そんな私に、昇平くんずっと付き添ってくれて、私がガーターばっかりでも全然怒らなくって、けなしもしなくて、微笑んでばっかりで。そんな昇平くんをその日のうちに好きになっていきました」

「優しい人だったんですね」

 奏多が相槌をうつ。美音は柔らかくうなずいた。

「その日に連絡先を交換して、二人だけで何回か遊びにいって、つき合うまでに時間はかかりませんでした。そこから一年間は本当に幸せでした。レンタカーを借りて二人で何度も旅行に行きました。予約していたと思っていた旅館がとれてなかったこともあったな。懐かしい」

 遥香がわざとらしく咳払いをする。奏多がそれをにらむ。美音が話すのをやめる。

「そろそろ本題にいっていただけますか?」

 遥香が柔和な表情のまま言った。美音の顔が少しひきつる。

「すみません、余計な話ばっかりしちゃって。彼との関係は私が短大を卒業して、小さな商社に就職しても変わりませんでした。会えるときは終業後や休日に二人で会ってましたから。

 それが大きく変わってしまったのが、私の入院でした。私は病院へ釘付けになってしまたんです。それでも昇平くんは変わりませんでした。毎日のように面会に来てくれたんです。私の好きなフルーツなんかもいっぱい持ってきてくれて。昇平くんが大学を卒業して就職すると、残業が増えてきて、面会の頻度も減ってきました。でも少ない時間の合間を縫って彼がたまに顔を見せてくれるだけで幸せでした。そして……」

美音が言葉に詰まった。奏多が立ち上がろうとする。遥香はそれを左手で制した。

「二十三歳の誕生日が過ぎ去って私が余命三か月であることを知ったとき、彼が言ってくれたんです。結婚しよう、って。指輪の入った箱も渡してくれました」

「それで、美音さんはどう返事をされたんですか?」

 奏多が身を乗り出しながら聞く。美音は笑みを浮かべながらうつむいた。

「それは申し訳なさすぎるよ、って答えました。私はもうすぐ死ぬんだから、それは他の誰かのためにとっておいて、って。そうしたら、美音がきちんと退院したときにあらためてプロポーズするからそのままにしておく、と逆に言われて。それからずっとそのままなんです。だから……」

 美音の大きな瞳から涙がこぼれた。奏多がハンカチを持ってそれを拭こうとするのに、遥香が肘撃ちをくらわせた。奏多はみぞおちのあたりを抑えこんでいる。

「だから、プロポーズのことは気にしなくていいよ。私の分も幸せになってね、ってそう伝えてほしくって」

「ご安心ください。美音様がご納得いただけるように取り計らいます」

 遥香は慇懃にそう答えると、一枚の契約書を出した。

「ご承知いただけると思いますがこちらも商売なので、ご納得いただける成果が出たあかつきにはそれ相応の対価をいただきます。美音様は死亡なされているので、法的拘束力はございませんが、お互いの齟齬をなくすためにも書面で残しておくのが最善かと考えております」

 契約書にはサインを書く欄が空欄になっている。

「でも、私、サインなんてできません」

「ご心配なく。うちの助手が代筆いたします。わが事務所の助手はどうしようもないお人好しなので、全面的に信頼していただいて結構です。もし、私に理不尽な成果報酬が渡った場合、彼が美音様の代理人として美音様の財産を、責任をもって取り戻します」

 美音は何度もまばたきをした。まだ納得がいかない様子だ。

「この助手はひどく融通の利かないやつでね。事務所内野党みたいな存在なんです。私はこいつを半分は味方、半分は敵だと思っています。もちろん、サインをしないという選択肢もございますが」

 遥香は満面の笑みで契約書を取り下げようとする。奏多がそれを奪い取った。

「美音様、ぜひともここにサインをしてください。そうでないとこの鬼所長に根こそぎ美音様の財産を奪われますよ」

 二人の剣幕に美音はしばらく静止していたが、やっとのことで口を開いた。

「じゃあ、サインさせていただきます。奏多さん、お願いできますか?」

「承知しました」

 奏多は遥香から契約書を奪い取ると、即座に依頼人 長澤美音、代理者 進藤奏多、と二名分のサインを書いた。

「それでは何か進捗がありましたらご連絡いたします」

 探偵と助手はそろって頭を下げた。美音が完全に消えてしまったのを確認すると、二人はお互いをにらみ合った。

「お嬢様! 何ですか。融通の利かないだの、どうしようもないお人好しだの依頼人に向かって僕のことを悪く言わないでください」

「そっちだって鬼所長だなんて言うな! それから謝礼のことはできるだけ黙っておいた方が得でしょうが! もうちょっと頭を使え! 頭を」

 険悪なムードになった二人はお互いにそっぽを向いてしまう。こんなとき折れるのはいつも助手の方だった。

「それでもお嬢様がいつもきちんと契約書を作成されることだけはありがたく思っています。さっきはちょっと危なかったけれど」

「私だって本当なら作りたくないわ! 契約書なんて。どうせあの世(あっち)に財産なんて持っていけないんだから、ふんだくれるだけふんだくってしまえばいいんだよ」遥香がぶつくさと愚痴を言う。「それでも、おばあちゃんが決めたことだから守らないといけないでしょ!」

「お嬢様のルールを守ろうとする姿勢は素晴らしいです。お嬢様ほどのあくどさならルールなんてぶっ壊しても……」

 擁護なのか賞賛なのか非難なのかよく分からない言葉を並べ立てる助手を、遥香が一喝する。

「私を見損なわないで。スポーツでもなんでもそうだけど、ルールの範囲内でいかにずるく、賢く立ち回れるかが勝負でしょ! ルールを逸脱してしまったら、楽しくもなんともないじゃない」

 奏多はあぜんとした。それにかまわず遥香は教え諭すようにこう言った。

「それから依頼人

《ゆうれい》にあまり同情するな。相手が本当に欲しているものを見抜かないと相手のためにもならないんだからね」

「どういうことです?」

「長澤美音が本当にしてほしいことが何か、っていうことをきちんと考えないといけないの! ここまで言って分かんないなら、これでおしまい!」

 遥香はそうきっぱり言い切ると、物憂げにしている助手に命令した。

「すごく、すっごく疲れたから、ココアを二杯用意して」

「は、ただいま!」

 奏多は遥香に向かって敬礼すると、急いでキッチンへと向かった。

「砂糖をたっぷり入れておいてね」

「お嬢様、ココアならさっき飲まれたばかりじゃないですか。糖分は多少控えておかれないと……」

「シャラップ!」

 遥香は大声で叫んだ。奏多がカップを手から取り落としそうになる。

「あなたは私の言うとおりにしてればいいの。それよりも今日は長澤加恋と話すことにしたから」

「え、美音さんの妹さんに? それよりも直接彼氏に話をされた方がいいんじゃないんですか?」

 遥香はその奏多の疑り深げなまなざしを無視しながら、真紅のヘアゴムで髪を束ねた。

「埋めやすい外堀があるならそっちから埋めていくのが鉄則。ほら、急いで。一限目から講義があるんだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はるか、かなた 翡翠 @hisui-1789

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ