恋せよ乙女

増田朋美

恋せよ乙女

まだまだ寒くて、時折強い風が吹いている、まだまだ冬だなと思わせる日であった。そんな中だから、みんな出かけないで、家の中にいる人が多いと思われるが、それでも、用事があって出かける人も多いだろう。中には、こんなふうに必然的に出かける人も居るのである。

その日、風の強い中で、今西由紀子は、自分の車を走らせて製鉄所に行った。製鉄所と言っても、鉄を作る場所ではない。ただ、居場所のない女性たちに、勉強や仕事などで部屋を貸し出す福祉施設だった。利用している人たちは、家の中でうまく行っていないとか、そういう訳アリの女性たちが多い。最近利用し始めた女性は、通信制の高校へ行っている中年おばさんや、現在仕事はしていないけれど、雑誌の主催している文学賞に応募するための小説を書いている女性の二人であった。

由紀子が、製鉄所のインターフォンの無い玄関の引き戸を開けて、こんにちはと言って中に入ると、なんだか、フルートとは全然違う、笛の音が聞、びっくりした。フルートのような西洋的な響きでもないし、リコーダーとか、ファイフのような素朴な響きでも無い。一体何だと思って由紀子が、四畳半に行ってみると、一人の女性が、水穂さんの前で、竹製の横笛を吹いていた。なんだかそれは、普通の笛とは違い、ビービーという、雑音が入るような、ちょっと不思議な音色だった。

「あの、すみません。」

由紀子はそういったところ、

「ああ、よくいらしてくれましたね。ちょうど、一華さんが、笛の練習をしたいと言うものですから、そこで聞いていってください。今日は、風が強くて大変だと思うけど、わざわざ来ていただいて、ありがとうございました。」

と、水穂さんが、そういった。そして、その竹笛を持っていた女性が、深々と頭を下げるのであった。

「彼女の名前は鹿島一華さんです。ちょっと、お話ができないのでパクパクさんと呼ばれていますが、笛の上手さはすごいところがありますから、聞いていただいて、感想でも言ってあげてくださいね。それでは、行きましょうか。グノーのアベマリア。」

水穂さんはそう言って、一華さんことパクパクさんに、お願いしますといって、ピアノを弾き始めた。曲は本人が宣言した通り、グノーのアベマリアである。平均律クラヴィーア曲集の第一番に、他の楽器の旋律を付け加えたような楽曲であるが、何故か、バッハの伴奏とよくあって、美しいと思わせてくれる曲である。

パクパクさんは、ちょっと緊張しているような、そんな感じの顔をしていたが、それでも、水穂さんの伴奏にあわせて、なんとか、アベマリアを吹いた。

「なかなか、よくできていたじゃないですか。じゃあ、もう少し、強弱をつけてやってみましょうか。」

水穂さんはそう言っているのであるが、由紀子は、彼女の演奏を聞いて、何だか嫌な気持ちというか、ちょっと腹がたった。なんで、口のきけない彼女が、そうやって、素晴らしくうまく笛を拭くのか。そういうことは、なんだか障害者へ同情しようという、偉い人たちの啓蒙的なものに過ぎない気がする。それに、元々、障害のある人達は、由紀子を含めた、普通に働ける人たちのお陰で生活できているのである。だから、そういう人が、由紀子たちと同じようなことをしては行けないのではないか。由紀子はそう思った。

「由紀子さん、なにかご感想でもありますか?彼女が、より良い演奏をするために、なにかアドバイスしてあげてください。」

水穂さんに言われて、由紀子は、言うのをためらった。

「特に無いですか?」

水穂さんにもう一度言われて、由紀子は仕方なく、自分が思ってしまった事を、順番に話した。

「ええ確かに、うまく吹けては居ると思うんですけど、でも、それは、障害のある人に同情させようというか、そんなのを促しているだけのようで、それでは、何も意味がないと思います。」

「そうですか。」

水穂さんはそういった。由紀子は、正直な感想を言ったけれど、それに対してパクパクさんが何も驚かない状態でいられるところに、驚いてしまった。由紀子が言ったことは、福祉関係の人に話せば、なんて可哀想な事を言うんだとか、そういう事を、言われてしまう可能性だってあった。だけど、パクパクさんは、ただ由紀子に頭を下げただけで、何も驚かずに、そのままでいた。パクパクさんは、さほど美人というわけでもないし、西洋的な要素があるわけでもない、日本人らしい顔をしていた女性だが、そういう顔だからこそ表情がはっきりしないのかもしれなかった。

「じゃあ、もう一回やってみましょうね。難しいかもしれないけど、強弱をもう少しつけましょう。もちろん、フルートとかと違うから、難しいかもしれないですけど。」

水穂さんはそう言って、またグノーのアベマリアを弾き始めた。パクパクさんは、また笛を吹き始めたが、前に比べると強弱をつけようと努力はしているが、どうしても笛子という楽器では難しいのかもしれなかった。

「はい、よくできましたね。なかなか、強弱もついてきて、朗々と歌えるようになりましたよ。あと少しですね。もう少し練習したら、またうまくなると思いますよ。」

水穂さんはそう言っていた。パクパクさんは、また水穂さんに向かって深々と頭を下げた。

由紀子は、なんだか自分が水穂さんのところに来てしまって、なんだか悪いことをしたのかなあと思ってしまった。なんだか自分は、この場所に居るべきでは無いのではないか。でも、それは、由紀子にしてみればとてもつらいことだった。なぜなら、水穂さんのそばに居たいと強く思っている由紀子なのに、それができなくなるから。

水穂さんは、笛子をケースに仕舞っているパクパクさんに、今日は風が強いですねと、話しかけているのだった。なんだか由紀子は、そこに居るのがじゃまになっているのではないかと思われて、とりあえず部屋を出た。

部屋を出るとどうしようもない寂しさに、由紀子は襲われた。いけないことかもしれないけど、パクパクさんがいなくなってくれればいいと思った。なんだか、平家物語に登場する、清盛に捨てられた白拍子の祇王のような気持ちだった。これで、新しい女性の世話をしろとか言われたら、完全に彼女と同じような状態になってしまう。

「あの、由紀子さん。」

いつの間に、声をかけられて由紀子ははっとした。

「彼女を、富士駅まで送ってやっていただけませんか?彼女、喋れないせいで、運転免許は持ってないんですよ。」

声をかけたのは水穂さんだ。由紀子は、完全に白拍子の祇王と同じようになってしまったと、悔しい気持ちになった。でも、ここで泣いたらカッコ悪いと思って、

「わかりました。それでは、行きます。」

と、だけ言った。

「ありがとうございます。ついでに、切符を買うのとか、手伝ってあげてください。よろしくお願いします。」

水穂さんに言われて、由紀子は変な気持ちになった。なんで、切符を買うのを手伝わなければならないのだろう?みんな当たり前のように、スイカみたいなカードを使って電車に乗っているのに?それでも水穂さんに、嫌われては困ると思い、由紀子は、パクパクさんを、車まで連れて行った。

パクパクさんは、首に画板をかけていた。聾の人でも筆談でコミュニケーションすることがあるが、そういうときはスマートフォンを利用するのではないかと由紀子は思った。スマートフォンが使えないのだろうか?それでは、よりおかしいのではないかと由紀子は不思議がった。

「じゃあ、これに乗ってください。助手席に乗ってくださればそれで良いわ。」

由紀子に言われて、パクパクさんは、車の助手席に乗った。由紀子は、直ぐに運転席に座り、車のエンジンを掛けた。パクパクさんは、由紀子が車を動かしたのと同時に、なにか書き始めた。そして、それを由紀子に差し出した。

「今日はどうもありがとうございました、、、。って、そんなご丁寧にお礼されるほどのことはしてないわよ。」

由紀子がそう言うと、パクパクさんはまた書き始めて、由紀子に画板を差し出す。

「私の演奏を聞いてくださる人は、なかなか居ないから。」

由紀子はそれを読んで、なんだか不思議な気持ちになった。それでは、あまり演奏を聞いてもらっていないということだろうか?更にパクパクさんは書き始める。

「家では、あまり笛子の練習ができないんです。うちは、好きなことやっていると、好きなことばかりして、家族をほったらかしにしているとか、そういう事を言われる家庭ですから。それに、こういうところにこさせてもらうことだって、めったにできないんですよ。」

由紀子は、彼女が書いた文書を読んで、はあと思った。それでは、あまり、練習する場所が確保できないのだろうか。

「なんで?近所迷惑になるとか、そういう事?」

思わず由紀子は聞いてみる。パクパクさんはまた書いた。

「いえ、そういうわけでは無いんですけどね。好きなことばかりしているよりも、家族のために、一生懸命働くのを正しいとしている家族ですから、好きなことに撃ち込んでいるという姿勢があまり好きでは無いんでしょうね。だから、あんまり練習できないんですよ。」

由紀子は声に出して読んだ。

「そうなのね。でも、好きな楽器とか、そういうのをやるってのは、悪いことじゃないと思うわよ。だから、気にしないで、笛を吹いたらどうなの?」

パクパクさんの表情が落ち込んだ顔になった。

「そうか。それでは、好きなことをあまりやっては行けないのか。」

由紀子がそう言うと、パクパクさんは、

「わかってくださいますか?」

と紙に書いた。

「わかったというか、私はよくわからない。だって好きな事を仕事にするとか、好きなことに精一杯打ち込むのは、悪いことじゃないもの。それをやらないで、家族のためにどうのって言うのは私は好きではないかな。今の時代なら誰でもそうだと思うけど?」

由紀子はそういったのであるが、パクパクさんは

「ありがとうございます。」

と画板に書いただけだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋せよ乙女 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る