無害だった、ということ。

和泉十三

 高校生の頃好きだった人から、久しぶりにLINEが来た。まだ覚えててくれたことと、俺ごときに何の用があるのかという二種の驚きを抱きながら返信していくと、ファミレスを指した地図アプリのリンクと共に、久しぶりに話したいからここで落ち合おうと言う。一瞬どことなく違和感を抱いたが、何故かこのときばかりは、先輩に悪意がある可能性を捨て去れる自信に満ち満ちていた。結局彼女から指定された日時に、このバカはファミレスへと向かった。

 久しぶりに会ったその人は、あの頃と同じ笑い方だった。席につくなり、君の分もドリンクバーを頼んであるから、とりあえず好きなもの選んでていいよと言ってくれたので、ありがたく取りに行くことにした。適当にコーラを注ぎながら、ああ、やっぱり本当に会いたかったんだと、これまた単細胞っぷりを存分に発揮していると、いつの間にか表面張力ギリギリのところまでに水位が達していたので、慌ててボタンから手を離した。品がないのも承知で、すすりながら席に戻っていく。「君ってそういうとこあるよね」のっそり歩く俺を見て、彼女は笑う。部活で晒したあらゆる粗相を思い出して、少し頰の温度が上がった。

 来たことがあるチェーンの店だったので、メニューも見ずにウェイターを呼びつけ、そしてスラスラと注文した。すると「あいにくそちらのメニューは現在取り扱っておらず……」若いウェイトレスは、そう言って苦笑いした。頬が熱くなりすぎて勝手にまぶたが閉じそうになる中、メニューを開いて、目についたものを適当に指した。載っているだけあって流石に扱っていたらしく、ウェイトレスは俺が言ったメニューを丁寧に繰り返して、去っていった。「こんなに笑っちゃったの、久しぶりかも」どうやら俺は、彼女の腹筋と表情筋をいじめぬいてしまったらしい。虚しく笑いながら、相変わらず適正量を大きく超えたコーラを啜った。

 お互いが頼んだメニューを食べ終えたところで、急に彼女は神妙な面持ちになった。ただならぬ雰囲気を感じて、とりあえず二人分の二杯目を注ぎに走った。そこでやっと、このバカは嫌な予感を覚えた。だがその予感というのも、また的はずれなものだった。ポルノじみた品のない想像を巡らせながら、ウーロン茶が入ったグラスを彼女に差し出す。「……ありがと」少し口角は上がっていたものの、やはり纏う雰囲気は負の方向へと振り切られていた。「何か、あったんですか」こっちから言わないと始まらない、そう思えたので、勇気を出して聞いてみた。

「……ちょっとね、頼みたいことがあるの」

「なんですか、言ってみてください」

 聞くだけですけどね、とも言いたげな感じを無意識にしてしまったことに少し腹が立った。

「あのね」

「……」喉が鳴った。多種多様な不安が、心の中を駆け巡っていく。

「私が今やってる"事業"の、お手伝いをしてくれない?」

「……えっと?」

 俺の困惑の声には目もくれず、ニュースで見たことがあるロゴが大きく描かれたパンフレットを開いて、スラスラと営業文句を吐き出した。

「君もこの会社にはマイナスなイメージを持ってるかもしれないけど、実はそうじゃなくって――」

 "事業"について語る彼女の顔は、さっき俺を迎えてくれたときと同じ顔をしていた。同じ顔なのに、何もうれしくなかった。好きだったあの人が、こんな胡散臭い商売に手を染めている。その事実をまざまざと見せつけられるなんて。まだ彼女と知らない男との恥態でも見せられた方が、使い道があるだけまだマシに思える。もう俺はパンフレットどころか彼女の顔すら見ていない、見られないのに、そんなことも知る由もない彼女はどこで覚えさせられたのかも分からない意味不明な呪文を唱え続けていた。

 俺に意気地がなかったおかげで、彼女とは部活の先輩後輩以上の関係になることはなかった。彼女が部活を引退した後に知らない男と一緒に歩いていたのを見かけたときは、ドス黒い何かが胸に去来したのを覚えている。今思えば酷い話だ。とはいえ、結局彼女の卒業式になっても俺は何もせず、先輩のいない残りの一年は、ただ空虚に過ぎ去っていった。ああ、あのとき告白していれば、こんなところでこんな頼み事をされていなかったのだろうか。付き合えていればまあ彼女が俺に愛想を尽かさない限りはこんなことにはならなかったろうし、フラれていたとしても、"そういう目"で見てきた後輩なんかに、こんな話を持ちかけたりしないだろう。俺と彼女の関係が"無害な人"だったばかりに、今こんな仕打ちを受けているのだ。あぁ、俺の人生は、所詮こんなもんなんだろう。他に思い当たることがあるわけでもないけども、人生の総括としてそんな感想を抱くには十分だった。

「……キミ、どうしたの?」

「へ……?」

 心配そうにする先輩の顔を見た瞬間、堰を切ったかのように涙が溢れてきた。なんか、もうどうでもいい。俺はガキみたいに声を上げて泣いた。

「キミキミ、急にどうしたの!?」

 思えば、今日は一度も名前を呼ばれていない。昔は、名字にくんとか、たまにふざけて下の名前で呼んできて、ちょっとドキドキしたりしたものなのに。結局、この人から見た俺は、本当に都合のいいカモでしか無かったんだろう。そう思ったら、余計に声が出た。こんなに泣いていたらもう先輩以外の視線も当然に感ぜられたが、もうそんなことを気に留める余裕なんて、無かった。

 ……何分泣いていたのだろうか。もう疲れてしまって、呆れながら机に伏せていたところで、彼女が頼んでいたらしいデザートと、伝票が運ばれてきた。甘ったるい臭いにクラクラする中、伝票を竹みたいな切り方がされた透明の筒から取り上げた。

「気にしなくていいよ。奢る奢る」

 最早、先輩の声を聞くたびに思春期の頃の思い出が汚されていくように思えた。伝票に書かれた値段は、別に自分で払えない額ではない。こればかりは、ファミレスでセッティングしたこの人に感謝しておこう。

「ちょっとちょっと、どこ行くの!?」

 伝票を握りしめながら荷物をまとめだした俺を見てか、そんな声を発した。

「……これは手切れ金です。もう、こんな用で呼ばないでくださいね」

 なお俺を引き止める声がしたが、そんなことはどうでもいい。高校生の頃の俺のためにも、ここで帰らないといけないのだ。……もう、手遅れか。

 レジにいた店員は、俺が泣きじゃくっていたのを知っていたのだろうか、俺の顔を見るなり、応対がたどたどしくなった。別にどうでもいいけど。とりあえず代金を万札で払い、釣りはあの人に渡すよう告げて外へ出た。

 冷たい風が体を貫いていく。泣き疲れた体に、この寒さはこたえる。なおも吹いてくる風に体を震わせながら、スマホを取り出した。あの人から送られたメッセージの通知を開くと、「ごめんなさい」と一言だけ入っていた。分かっていたのなら、その場で言ってほしかった。もうこのままブロックして終わりにしよう……なんて思ったけども、もしかするとまた会えるかもしれない、なんて淡い期待がちらついた。……でも、ダメだ。そんなのに惑わされた結果が、これだ。飯代と釣りだけとはいえ手切れ金も渡したし、もう、踏ん切りをつけなければならない。結局あの謝罪には何も返さないまま、あの人のアカウントをブロックした。……これでもう、あの女と会うことはない。

 でも、そう思った瞬間、また涙が頬を伝った。結局俺は意気地なしだから、告白もできなかったし、先輩をあの地獄から抜け出す手助けもできなかった。あぁ、もう終わりだ。全部終わったんだ。夜空に、遠吠えが響いた。

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無害だった、ということ。 和泉十三 @settsuizumi

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